二人の大きな一歩⑤
「ドキドキしたの?」
生命維持装置がぶっ壊れた気がしている精神状態で、ろくな返事ができるわけもない。復唱状態の俺に、一稀はこくりと頷いて苦笑を浮かべた。
「不意過ぎたから……しっかりしてよ、薫」
「俺のせいにすんなよ」
「美味しい思いしようとしたわけ?」
「おい」
「冗談……でも、意識しちゃうね。茅羽が余計なこと言ったから」
「……意識してんの?」
ここまで緊張の様子はあったが、それがこうした男女の機微に繋がるような意識であるとは判断できなかった。話をしようという改めた調子であったし、人の家を訪問するときは緊張するものだ。彼氏の部屋にいる、という意識があったとは気がついていなかった。
「しないわけないでしょ。私のことなんだと思ってるの?」
「偽装だし」
「偽装でも、男の子でしょ。私のこと、女子と思ってないワケ?」
「そんなわけないだろ」
言下に出てしまった本心は気まずい。けれど、意識なら散々している。
女子と思ってなきゃ……偽装でも彼女だと思っていなければ、こんなに心を寄せて砕こうとも思わない。ちゃんと、彼女だと意識をしている。
どうか、平穏な日々を過ごして欲しいと願うほどには。
「一稀は俺の彼女なんだから、意識してるよ」
「……偽物でしょ」
そっと囁く。
「それでも、彼女だろ」
「いいの?」
「これだけ動揺させておいて、俺を放り出すつもりか」
「……解決になってるかな?」
「一稀は何をそんなに気にしてるんだよ」
後悔の有無を尋ねられ続けている。それを確認したい気持ちは分かるが、ここまでこだわる理由が分からなかった。
「だから、すべての原因は私でしょ? 薫、やっかみを受けてるし、怪我までさせちゃった。このまま偽装を続けて大丈夫かなって不安になってる。軽率だったかなって」
一稀は、心優しい子だ。
俺を挑発するように、主導権を握ったまま偽装を持ちかけてきた。言ってしまえば、自分の都合で男を振り回すような発言だ。しかし、本来の心根で言えば、それはかなり切羽詰まって提案したことであるのだろう。
組んでいた手をだらりと床へと垂らして項垂れる。隠されない不安を目にすると、ここまで暴発していたテンションが少しだけ落ち着いた。動乱ばかりしているわけにはいかない。俺たちは、二人きりで話すためにこうしているのだから。
「俺ってそんなに頼りないか?」
「そういう問題じゃないでしょ? 外的要因なんだから」
「それくらい抱えられるつもりでいるけど」
「……次は疑ったりしないし、信じるから、正直に答えて?」
平行線を辿っていることに、一稀だって気がついていたのだろう。だからこそ、区切りをつけるかのような確認が入った。俺はしっかりと一稀と目を合わせて、顎を引く。
一稀は一度瞑目して深呼吸してから、目を開いて俺を見据えた。絡み合う視線を気恥ずかしいと遠ざける気にはならない。
「私のこと、迷惑じゃない?」
信じると奮起しているからだろうか。その発言は、今まで質問を繰り返してきたものよりもずっと切実に響いた。そして、俺の心の底を撫でる。ふつふつと湧き上がる庇護欲が、身体中に血液となって溶け出した。
「迷惑じゃない。一稀がいてくれて、毎日楽しいよ」
「本当?」
「美味しい弁当も食べられるし、放課後も一緒にいてくれるし、」
そこで区切ったのは、意識してのことではない。やはり、口にするには勇気がいったのだ。自分でもそれが思考に上ったことに驚いたくらいだった。
「失恋を忘れられてるから」
こうして軽やかに口にできたことに、やはり驚く。
一稀もぱちぱちと瞬きをし、それから緩く笑みを浮かべた。ようやく、俺の言葉を信じられたかのように力の抜けた顔だ。そこまでは予測できたが、それ以上の一稀の行動は予想外だった。
ふっと息を吐くと同時に、近いところにいた一稀の額が俺の肩に落ちてくる。ほとんど腕の中に寄り添っているかのような姿勢だ。完全に触れ合っているのだから、さっきよりもずっと近い。心臓がばっくりとひっくり返った。その反動が身体を蝕む。
「これからも彼氏でいてくれる?」
その姿勢で話されると、呼吸が心を撫でる。直接肌に触れているわけではないのに、くすぐったくてたまらない。偽装という言葉が省かれたのは分かっていたが、その真っ直ぐな言葉に貫かれた。
いつまで、なんて野暮なことを聞いたりしない。この先どうするつもりなのか、なんて疑問が持ち上がる暇もなかった。
「もちろん。放り出さないでくれよ」
「共犯者だもんね?」
肩口で顔を持ち上げられて、体内が騒ぐ。
本当にすぐそばに一稀がいる。身体が触れ合っている。多分、胸板にぶつかっている柔らかい部分は胸であるだろう。それほどの距離で、魅惑の言葉を不敵に零した一稀は、いつになく綺麗だった。
「ああ」
どうにか頷いて、目の前にある一稀の肩に、今度はこちらが額を預ける。自分がこんなことをできるとは意外な気持ちだが、やってしまえば離れがたい。
柔らかな花のような香りが、鼻腔を通り抜けた。
一稀の手が、俺の脇腹辺りのシャツに触れている感覚がする。そして、同じように肩口に頭を預けられた。
ちょっとばかり、気後れはある。だが、応えるべきなのだろうと気持ちが浮かぶ。俺は片腕を一稀の背に回して、その身に触れた。一稀は一瞬ぴくりと身体を震わせたが、驚いただけらしい。拒絶されることはない触れ合いに、そっと溺れる。
俺たちは言葉もなく、静かな時間を過ごした。
我に返ると妙に照れくさい。そんな時間を越えて、俺たちは部屋を出た。
リビングへの階段を下りようとする前に、声が響いてくる。一稀は不安な目を寄越したが、とんと背を叩いて促した。
こっぱずかしくてならない余韻はあったが、抱き寄せ合った時間はスキンシップの躊躇をなくす効果はあったらしい。一稀も違和感なく受け入れて、問題ないとばかりに頷いた。心底問題ないとは思っていないだろうが、少なくとも腹を括ったということだろう。
驚くほど、意思疎通ができていた。一息に心が近付いたような感覚がある。一方的でないことを祈りながら、一稀と並んで階段を下りた。
足音が二つ分。リビングの話し声もその音に気がついたのだろう。姿が見えるころには、ソファに並んでいた京夏と兄ちゃんもこちらを見上げていた。二人揃ってビックリ顔をしている。
俺が女の子を連れているのが、それほど意外か。文句のひとつでもいいたくなるが、相手は一稀だ。俺が分身してリビングにいたとしても驚いただろうから、御託は飲み込んだ。思えば、玄関にある靴から予想できただろうに。
「野上さんだ」
「あ、え、彼女?」
面食らった兄ちゃんの反応に、一稀が慌てて頭を下げる。リビングに降りてから、改めて頭を下げる辺り、律儀だ。
「野上一稀です。薫くんと交際させてもらってます」
「兄の佐竹満です。弟が世話になってます」
「えっと……、西城さんは?」
「私は薫の幼なじみで、満さんと付き合ってるの」
「そうなんだ」
平板であったけれど、その視線がこちらを一瞥した。俺の失恋相手だと認識したのだろう。苦々しさはあるが、つい先程口にできたことがあったからか。後ろ暗さを抱くことはなかった。
「イチャイチャしてたの?」
「詮索するなよ」
京夏の配慮のなさには苦々しくなる。きっとそうなのだろうと、決めつけられるのも気まずいが。
「でも、だって、野上さんと薫でしょ? なんか想像できなくて」
「想像するなよ」
「いやらしいことじゃなくても! そうやって二人でいるとこ見ても変な感じ。本当に付き合ってるの?」
それを取り沙汰するのか、と心がざらつく。
いや、京夏に悪気はない……はずだ。純粋な疑問を口にしているに過ぎない。周囲だって、本当に? と思っていた時間があったのだから、別クラスの京夏や、まったく一稀のことを知らない兄ちゃんが疑問に思うのもおかしくはない。
兄ちゃんは口を開きこそしなかったが、その表情が京夏の問いかけに追従していた。兄ちゃんの気持ちを読むくらい、容易い。そもそも、前日にそう責めてきたのは兄ちゃんだ。
「付き合ってるよ」
「薫の勘違いじゃないのか?」
「兄ちゃんは俺を何だと思ってんだよ。そんな妄想癖はない」
「……野上さん、本当にこんなのと?」
「おい」
いくらなんでも、ひどい言い草だ。そりゃ、これといった魅力があるとは自分でも言えない。どこがいいのかは疑問に思うこともある。だが、それを聞くにしたってもう少し言いようがあるだろうに。
「薫くんにはよくしてもらってますよ」
「え~」
「よくしていることに何の不満があるんだよ。京夏には関係ないだろ」
「そんなに弁明しなくてもよくない?」
「どうしたって、不思議でしかないよなぁ」
そこまで疑念を連呼されると、気持ちが沈む。
だが、一稀をこういう言い争いに巻き込みたくはない。その気持ちで心を保っていた。自分が思ったよりも一稀に肩入れしているのを、今になってしみじみ自覚する。
それは、京夏と敵対するほどなのだからよっぽどだ。
「不思議に思っててくれていいよ。弁明じゃなくて事実だし、放っておいてくれ」
「でも、あんまり妙なんだもん。騙されたりしてない?」
「京夏」
自分でも、ここまで尖った声を向けられるとは思っていなかった。
そもそも、その話は京夏が兄ちゃんを説得してくれたのではなかったのか。同意という形で収めたわけではあるまいな。
「一稀はそんな子じゃない」
「だって、付き合い短いじゃん。薫は野上さんの何を知ってるの?」
それを言われると弱い。知っていることは少なく、付き合いが短いのは紛れもない事実だ。だが、それだけが偽物の指標になるとは言いがたい。バレたら困るという意識よりも、一稀を疑われていることへの苛立ちが勝った。
「京夏にそういうことを言われる義理はない」
「幼なじみだよ! 心配してるんじゃん。満さんも心配してるの」
それは、さも大切とでもいうような顔で言う。そんなものは求めていなかった。大切だというのであれば、別の形を望んでいた。京夏がそれに気がついていれば、この状態にはなっていない。
俺のそもそも論を掘り返すと、京夏のせいになってしまう。それは八つ当たりではあるだろうが、心の中では反駁が生まれた。
心配しているからといって、不躾なことを言っていいわけではない。ましてや、京夏に言われたくはなかった。
俺のその力みを感じ取ったのか。一稀が凛と背を伸ばした。姿勢を正したのがはっきりと見える。それはつまり、横ではなく前にいるということだ。
「薫のことはまだまだ分かってないと思うけど、それって関係ある? 西城さんは、一目惚れなんて信じないし、そういう人を許せないの?」
「それは……」
「私から、薫にお願いしたの。私が薫がいいの」
「一稀」
嘘は言っていない。一稀が俺を選んだのは事実だ。
それでも、言いざまには思わず感動してしまう。自分が選ばれたと。特別な存在であると勘違いしそうになる。
呼んだ一稀は、こちらを振り仰いでにこりと笑った。本当に、可愛らしい。綻んだ笑みは、演出としてこのうえない威力を持っていた。
ただでさえ十分だったというのに、一稀は俺の腕にじゃれついてくる。腕に絡む身体の間で形を変える柔らかい塊には、気付かぬふりをした。
「これからも一緒だって言ってくれたでしょ?」
窺うような上目遣いに、思わず天を仰ぐ。目元を指で揉んだ。
「薫?」
返事を待つ声は甘い。偽装を貫こうとしているのは分かっている。だが、それにしたって破壊力が段違いだ。京夏と兄ちゃんに見せつけるように働いてくれる一稀の思いに、胸がいっぱいになる。
「二人のことは秘密だろ?」
「ふふっ」
おかしそうに笑う一稀を見下ろした。俺の意思は通じているのだろう。共犯者としての言葉は、俺たちだけの秘密だ。
それは恋としての特別さではなく、偽装としての人に言えない秘密でしかない。それを隠したうえでの意味深な言いざまに、一稀は笑っているのだろう。それが分かるから、こちらも苦笑するしかなかった。
「なんだ。ラブラブじゃん。そんなに心配することなかったじゃん、ケイ」
「でも、だって、そんなのいくらだって誤魔化せるじゃん」
「ケイは薫のことになるとムキになるなぁ」
兄ちゃんが眉を下げてぼやくと、京夏は狼狽する。ぶんぶんと首を左右に振りながら、それでも変わらない内容を繰り返し主張した。
「たった一人の幼なじみなんだよ? 満さんだって、疑ってたのに急に手のひら返してズルいよ。兄ちゃんなんだから、見極めないとまで言ってたの、なんだったの?」
「兄ちゃん……」
あまりの過保護っぷりに唖然とする。額を押さえて
「ごめん」
とすぐそばにいる一稀に小声を落とした。さすがの一稀も困り顔でこちらを見上げている。
「そりゃ、変な子だったら、とは思ったけど、野上さんは薫のことをちゃんと想ってくれてるみたいだし、それでいいだろう?」
「でも、ちょーっと様子を見ただけじゃん」
「じゃあ、ケイはどうすれば納得するの?」
「それは……」
口を結んで、俯いた。
京夏は考えなしで、感情で突っ走るところがあった。兄ちゃん相手にはそれが有効だっただろう。恋を叶えるにはいいアグレッシブさだったが、今はよくない感情論だ。
俺はそんな京夏の手綱を握ることはできなかった。だから、結局振り回されるだけ振り回されたようなものなのだろう。京夏の願いを叶えるのも、手綱を引いていたのも、兄ちゃんだった。昔からずっとそうで、だから京夏も兄ちゃんを好きになったのだろう。
こうなると、俺の手には負えない。経緯を見守ることしかできなくて、腕に懐いている一稀に苦笑を投げた。何度謝罪しても足りない。
その感情を受け止めてくれているのか。一稀も苦笑を浮かべて、頭の側面を肩に預けてきた。掴んでいる腕をぽんぽんと撫でてくれるから、慰めてくれているのかもしれない。感謝をどう込めればいいのか。俺は触れ合っている指先を絡め取った。
一稀が小さく目を上げて、笑う。ひどく癒やされて、呼吸が楽になった。京夏のことを放り出して一稀に触れられている。その現実が、心を随分と軽くした。
京夏のことを自然に兄ちゃんに任せて和んでいると、その空気にぱっとした声が飛び込んでくる。
「ダブルデートしようよ!」
どういう会話の流れでそうなったのかは分からなかった。だが、その意味合いを勘繰ることはできる。その中で、俺と一稀がカップルっぽいか確かめようということなのだろう。
くしくも、社交辞令として流した物事が回り回ってきた。
「それは」
反発心は、京夏と兄ちゃんのデートを見たくないというものもあった。けれど、それよりも一稀に迷惑をかけたくないという気持ちのほうが大きい。
もちろん、これからも偽装を続けていくつもりはあるし、必要ならデートすることもあるだろう。それを拒否するつもりはない。けれど、このデートは賛同できるものではなかった。疑惑をかけられたまま、判定されるかのようなデートに出向かせる。
そんなことをさせるつもりはない。拒否権を発動しようとした。だが、そんな俺の声に被る声がある。
「いいよ」
すっと正面切って了承したのは、手を繋いだまま腕に抱きついている一稀だ。俺の腕にすがっているようで、その真っ直ぐな瞳は爛々と京夏を貫いている。それはまるで、挑発するほどに鋭くて、俺は面食らってしまった。
「それで西城さんは納得するんでしょ? 幼なじみだからって、薫に構うのをやめてくれるんでしょ?」
「何それ……」
「薫は私の彼氏だもん。我が物顔されたら嫌だよ。お兄さんと付き合ってるんだったら、お兄さんだけ見てればいいでしょ? ダブルデートはしてあげるから、それで認めてよね」
ふんと言い切った一稀は、いつになく強気な物言いだった。俺の腕を掴む握力が強い。指先が震えているのに気がついて、俺はぎゅっと一稀の手を握りしめた。
ああ、と思う。一稀がこんなにムキになっていってくれるのは、俺のためだと。
京夏は突然のことに驚嘆している。兄ちゃんに任せておけばいい。フォローしようなんて思い浮かばなかったことに驚きつつも、その心情に従った。
「それでいいな、京夏。それじゃ、俺は一稀を送ってくるから。行こう、一稀」
答えも聞かずに一稀の手を引く。一稀は何の抵抗もなく、俺のそばに寄り添って進んだ。そのまま家を出るまで無言を貫き通した。外に出ると、ほっと息が零れる。溜めこんでいたさまざまな感情まで、ぼろぼろと取り零してしまいそうだった。
「ありがとう」
「いいよ。これで、貸し借りなし」
企み顔で言う一稀のそれが、憎まれ口なのが分かる。どっと力が抜けた。
「持ちつ持たれつだよ」
「共犯だもんな」
笑ってやると、一稀も同じように笑う。面倒なことになった。まだまだ先行きの不安は拭えない。それでも、心強い共犯者が笑っている。
それだけでまぁいいかと思えた。
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