第五章

偽装カップルの本心①

 ダブルデートの日程を聞かれたのは、家に帰るや否やだった。今週末という提案に、俺はすぐに一稀に連絡を取る。一稀からも速攻で既読がついて、日曜日にという運びになった。

 急転直下の決定に、心がなかなかついてこない。それは兄ちゃんカップルとダブルデートをするという現実もさることながら、一稀とデートをするということもあった。

 一稀とのデートを、一瞬でも考えなかったといえば嘘になる。だが、実際に近いうちにデートに出かけることになるとは、想像の埒外だった。放課後の語らいをデートと呼ぶこともできるだろうが、休日に待ち合わせをして出かけるとなると、覚悟が違う。

 覚悟というのは、些か間違っているかもしれない。それでも、改めて会うことに、感情が動く。俺はその緊張に塗れて、前日の夜は寝不足になったほどだ。

 兄ちゃんは、デートが決まった後に、気にしなくていいと言ってくれた。野上さんにも無理しないように言ってくれ、と。

 それだけで、ダブルデートは京夏の暴走だと分かる。そうでなくても分かっていたが、聞いていなかった流れの中で、兄ちゃんが京夏を諌めるために言い出したわけでもなさそうだ。

 とにかく、兄ちゃんは普通のデートだと思えばいいと何度も念を押した。応援してくれていると信じてもいいのだろう。兄ちゃんが味方についてくれた安心感は計り知れない。

 何しろ、京夏は兄ちゃんに弱いのだ。惚れた弱みだと本人が言い切っていた。だから、仮に疑いの眼差しがあったとしても、勢いを緩めることができるだろう。

 ともすると、兄ちゃんとのデートに夢中になって、意識を逸らすこともできるかもしれない。楽観視であるかもしれないが、その可能性がある環境だと分かっているだけで、気持ちは追いついてくる。

 追いついてくるが、だからといって緊張感がなくなるわけではない。一稀とデートするというハードルはある。おかげで眠れなかったわけだが、待ち合わせに行くにも気が急いた。

 兄ちゃんと一緒にデートに出かけるという変則的な状況も、また意識を高める一因だろう。薄手のグレイのジャケットに黒いパンツ。インナーはただのシャツと地味めではあるが、それなりに整えてきた。

 今までまるで気を遣っていなかった分野に、ぶっつけ本番で挑戦する気概はない。失敗したくない保身のほうが強く、無難にまとめた。兄ちゃんだって同じようなものなので、そう外してもいないと信じたい。

 兄ちゃんがでたらめにオシャレだと思ったこともないが、いつも爽やかだ。京夏もかっこいいと見惚れていたのだから、魅力を幻滅させることはなさそうだった。

 京夏も隣家から出発のはずだが、待ち合わせをしてみたいと言われて、バラバラに出発することにしたそうだ。

 駅前に午前九時。十時開館の水族館に向かって、一日中楽しむ計画らしい。発案者は京夏だろう。

 昔から、水族館や動物園、遊園地にアミューズメントパークに大型ショッピングモール。そうした場所が好きだった。水族館と動物園は生き物好きがゆえだろう。何にせよ、一稀も納得したプランであるから俺に文句はない。

 待ち合わせ場所につくと、京夏が既に待っていた。ロングスカートにパーカーという格好は見慣れないものだ。京夏はパンツを穿いていることが多い。多いというよりは、制服以外を見ることはなくなっていた。

 そして、兄ちゃんと会っているときの姿を見たくもなくなっていたものだから、ここのところの京夏の傾向を知らない。物珍しさに目が惹かれることはあったが、それは長くは続かなかった。

 最後にやってきた一稀の姿は、大言ではなく輝いて見えた。

 いつも流している髪がポニーテールにされていて、ふわふわと揺れている。白いワンピースは短くて、下に黒いショートパンツの裾がちらちらと覗いている。ワンピースの裾はレースのようなデザインになっていて、二つの裾が綺麗な重なりを見せていた。白雪のような生足はすらりと伸びて、ソールの高いスニーカーを履いている。いつもはローファーだから、目線が違った。

 一稀は俺たちが揃っていると分かると、駆け足でこちらにやってくる。


「ごめん、待たせたかな?」

「いや? そんなことないよ」


 一稀は全員を見回すように言ったが、最後に見上げたのは俺だ。兄ちゃんは無論、京夏とも仲は深くない。一稀の相手は俺がすべきだろう。それに、これはデートだ。


「よかった……薫、爽やかだね」

「一稀は可愛いよ」


 取り繕うわけでもないが、明言できるのは、彼氏役という言い訳が根底にあるからだった。

 そうでなければ、気恥ずかしさのほうが上回って、感想なんてろくすっぽ言えなかっただろう。そして、こうまで関係を深めていなければ言えなかった。まぁ、可愛いなんて緩やかな感想では、一稀の美麗さを表現しきれていないけれど。


「ありがとう」


 ふわっと笑う姿は愛らしい。艶めく口元のグロスは、いつもよりも赤みを帯びてきらびやかな気がした。


「じゃあ、行こうか」


 俺たちのやり取りを待っていたわけでもあるまい。だが、絶妙なタイミングで口を出したのは兄ちゃんだった。成人として、主導権を握ってくれるらしい。

 先に動き出した兄ちゃんと京夏は、ごく自然に手を繋いでいる。その姿は、ショックで立ち直れないほどではなかった。そのことに意外性を感じる。しかし、無傷とも言えない。じくじくとしたわだかまりが、心中で存在感を主張している。

 そのわだかまりを吹き飛ばすかのように、一稀が俺の手を取った。繊細ですべすべした手を握るのは、もう何度目になるかも分からない。慣れたとは大言壮語だろうが、初めてのときに比べれば気軽さは桁違いだ。それは気持ちを落ち着ける要素すら持ち合わせている。

 俺はほうっと息を吐き出して、一稀を見下ろした。


「平気?」

「どう見える?」

「ちょっと無理してるって感じかな?」

「勘が良すぎるのもなんだなぁ」

「薫が分かりやすいの」

「前は分かってないぞ」


 ひそひそと交わし合う。前方を示すと、一稀も前を向いた。二人は手を繋いだまま仲よさげに歩いている。洋服を褒められて照れくさっている京夏を凝視したくはなくて、視線を一稀に戻した。


「二人には難しくても、私には簡単だよ」


 目が合った刹那に言われて、その通りだと苦笑を零す。一稀に逃げているのだから、一稀には明確に伝わって当然だ。


「ごめん」

「いいよ。そのためにいるんだもの」

「情緒」

「薫だって、役目だと思っているくせに」

「じゃあ、今日はそういうのはナシで」

「ナシじゃダメでしょ? 見せつけなきゃ」

「楽しんでればいいよ」

「……じゃあ、薫をからかって遊ぶことにするよ」

「趣味が悪いぞ」


 ふふっと不敵に笑う一稀は、すっかり俺を誘い込んだときのものだった。あのときの強気さがあれば、きっと一稀は大丈夫だろう。

 俺をからかうことで平然としていられるのは本当に趣味が悪いけれど、一稀に余計な気苦労をかけずに済むのならそれで構わない。そう思うくらいには、一稀のことに意識を向けている。


「でも、そっちのほうが薫だって意識し過ぎないでいいでしょ? いつも通りだもん」

「いつも通りか?」

「放課後と一緒」


 確かに、一稀に主導権を握られて翻弄されていた。大ごとはないけれど、細々とからかわれ続けている。彼女ムーブも、ある意味その一端だ。


「だから、私も楽しむから、薫だって変に気遣わなくていいんだからね」


 にまりと笑って、繋いでいた手を恋人繋ぎにされた。手玉に取られている。そして、俺の気兼ねすら読まれていた。隠しきれない苦笑いに、一稀はにこにこ笑う。しょうがねぇなぁ、と諦めに似たような。助かったような。そんな気持ちにさせられた。


「ありがとう」


 そう伝えるより他にない。

 そこからは雑談に流れながら移動する。バスで向かう水族館は、少し郊外だ。郊外と呼ぶかどうかは怪しいが、海岸に近いものだから外れにある。そこまでの移動中も、他愛ない会話を続けた。京夏と兄ちゃんも、二人で会話を収束させている。

 京夏は探るつもりでいたはずだろうに、こちらの様子を窺うこともない。俺としては助かるが、こうなってくると本当にただのデートだ。それで困ることはない。ただ、肩透かしは否めなかった。

 その気の抜けた状態で、水族館に到着する。長閑な入館は、入った瞬間に浮き足立った。

 京夏の雰囲気が一瞬で華やぐ。動物好きの面目躍如だ。その雰囲気に釣られて、兄ちゃんも、そして一稀までも笑顔になっている。やはり、肩透かしは否めないが、平和的であるのだから文句を言うつもりもなかった。そして、俺もその高揚感に巻き込まれて、水族館への期待感が高まる。


「十一時からイルカショーがあるから、それは忘れないように行こうね。逃しちゃうと、次は十三時だって言うから」

「分かったよ。ペンギンも見に行きたいんだろ。行こう、ケイ」

「うん!」


 まるで俺たちのことなど忘れているのではないか。都合がいいので、無視して一稀に向き直る。


「俺たちもゆっくり回ろう」

「イルカショーは見るよ?」

「分かってるよ」

「薫、先に行ってるからな。野上さんと楽しんでついてこい」


 京夏に手を引かれる兄ちゃんが、一応声をかけてくれる。俺はひらりと手を上げて答えとした。兄ちゃんも心得ているとばかりに、すぐに前を向いて興味を払わなくなった。

 二人揃って、自分の好きなことに一直線だ。そういうところも相性が良いのだろう。恋人になる前から、そういうところはあったように思う。まぁ、今更言ったところで、すべては後のことだ。

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