偽装カップルの本心②
今度こそ、しっかりと一稀に向き直る。
「行こうか」
「うん」
一稀がぶんと手を振って歩き出した。それはしかりと繋がれたままだ。移動中も、そして入館時も、手を離すタイミングはあった。だが、一稀はごく自然に俺の手を掴まえてくる。
見せつけることを実行しているのか。慣れてしまったのか。事実を確認するつもりはなく、流れに身を任せていた。
水族館は、薄暗い照明に青い海の色が反射している。青みがかった館内で、水槽だけが光を携えて目を賑わせた。
一稀も呆けたように巨大な水槽を見上げている。その中を魚たちは縦横無尽に踊っていた。大きなマンタがその身体を揺らめかせる。鰯の群れがぐるりと円を描くように泳いでいた。
「綺麗」
ぽつんと零した一稀に目を戻す。
青い光を横顔に浴びて、瞳をきらめかせている。その姿はスポットライトを浴びているかのように眩しい。目を細めて、一稀の様子を盗み見る。その視線に気がついたのか。
一稀がこちらを向いて
「ね?」
と同意を求めてきた。わくわくを抑えきれていない顔色は、血色が良い。その表情はやっぱり眩しくて、目を細めてしまった。
「鰯、美味しそうだな」
「もう! 情緒!」
「ごめんごめん」
冗談めかすと膨れて叱る。一稀に見惚れていたなんて知られたくなくて誤魔化した。
一稀は文句を言いながら、水槽に惹きつけられていく。そうして、すっかり俺のことをよそに置いた。その顕著な流れはあからさまで面白い。蔑ろにされているとはまったく思わなかった。
相手が京夏なら、自分の力不足を嘆いていたことだろう。一稀にそれを抱かないのは、気持ちがないからではない。一稀が楽しんでいると、その姿形から分かるからだ。
京夏への気持ちと、一稀への気持ちは、近いようで違う。京夏へのそれは、あまりにも一途になり過ぎて、焦げ付いていたようだ。ただ楽しんで魚を見ているだけでも、きっと平静ではいられないほどには、拗らせていた。そのことに気がついて、目の前が開ける。
一稀のそばにいると、いい心地で息ができた。それに、一稀が楽しんでくれているのが一番だと素直に願える。偽装なんてまるで健全な関係ではないはずなのに、どんなときよりも健全な気持ちでいられるような気がした。
一稀の隣に安寧を覚えている。ずっとこうしていることができたら、と薄らとよぎって我に返るほどには、安泰していた。まさかこんな関係になれるとは思っていない。
その手の感触を抱きながら、水族館をゆっくりと観覧していった。ナポレオンフィッシュのごつい顔に驚き、ライトに照らされたクラゲの幻想的な雰囲気に飲まれ、サメの迫力に慄く。
俺をからかうことも忘れ、一稀こそが館内を回遊していく。ゆらゆらと揺れるキャラメル色の髪の毛が、魚のひれのように美しい。魚だけでなく、一稀にも魅了されながら、道順を進んでいた。
そうして、イルカショーの時間が間近に迫る。そちらへ移動すると、京夏と兄ちゃんが最前列をちゃっかり陣取っていた。京夏が手を抜かなかったのだろう。
そして、兄ちゃんは万能だ。京夏が望み、それが違法なことでなければ、容易く達成させてしまう。付き合うようになってからは、年下の幼なじみにするよりも数倍は甘くなっていた。
兄ちゃんだって、ちゃんと京夏を想っていると知っている。何より、それでなくとも、京夏に何かあれば、昔から兄ちゃんは手を貸していた。それは勉強を教えるなんて些末なところから、小学生低学年のころに人見知りが激し過ぎた京夏がいじめられていたところまで、多岐に亘る。
俺だって、傍観していたわけじゃない。けれど、いつだって兄ちゃんがヒーローになっていた。
そりゃ、そうだろう。五歳の年齢差は大きい。俺たちが一年生のころに、兄ちゃんはもう六年生だったのだ。圧倒的な差があった。そして、そのアドバンテージは何を持ってしても、覆せることはない。
京夏だって、その年齢差からもたらされる余裕や男らしさに惹かれたのだろう。俺たちの間に、それは確然と存在しているし、揺るがない。兄ちゃんがそれを意識しているかは、分かったものではないけれど。
何にしろ、京夏の小さな我が儘を叶えることなど、兄ちゃんには容易い。そして、目の前の光景は、その願いが叶えられた状況であることは確かだった。
京夏は底抜けに輝いた顔で、水面の光を反射している。目を眇めていると、一稀の手のひらが目の前にかざされた。ぱちくりと一稀のほうを見ると、膝の上に肘をついて頬を膨らませている。
「彼女の前で他の女子に見惚れてるなんていい度胸じゃない?」
僅かに顎を上げて、上から目線に物を言う。横柄と言えばその通りで、人と場合によっては腹立たしく思っても不思議ではない。けれど、一稀のそれはコケティッシュで、苛立ちとは真反対の場所にあった。
「別にそういうんじゃないよ」
「じゃあ、何?」
むんと唇を尖らせて拗ねたふうを保つ。恐らくは軽口のひとつであるのだろう。本気ではないはずだ。だが、心をくすぐって仕方がない。一稀の魅力は、真偽を横にしても惹かれるものがあった。それは、本心を投げようという気になるほどに。
「懐かしんでいただけ」
「どういうこと?」
拗ねた顔が疑惑に満ちて、首が傾く。傾倒に合わせて、ポニーテールの毛先がくるりんと揺れた。
「俺にはもう、一稀のほうが可愛く見えるよ」
自分の心境に驚かざるを得ない。こんなに簡単に塗り替えられるとは思ってもみなかった。けれど、紛れもない本心だ。
一稀は目を瞬く。マスカラをつけているのだろう。黒い淵が目立って、驚きに濡れた薄茶色の瞳が琥珀のようだった。それから間を置いて、桃色が水彩絵の具のように頬に広がっていく。
「なに、いってんの」
ぎこちない音に、嫌悪感はなかった。驚愕に満ち満ちている。
「そのまんまだよ」
他に答えようもない。断言すると、一稀は目を逸らして、前髪を弄る。それは、一稀が照れくささを覚えたときに見せる仕草だった。そうしながら、一稀が身を寄せてくる。
イルカショーは始まっていて、歓声が上がっていた。イルカは悠々と跳ね回っている。それだと言うのに、意識はすべて一稀に向けられていた。寄せられた顔が耳元へ近付いてくる。
「偽物だよ?」
それは周囲に聞かれるのを案じたのであろう。赤の他人に聞かれたところでさしたる問題はないが、疑念を抱かれかねない台詞であることも間違いない。
ここからなら、京夏たちに聞かれることもないだろうが、念には念を入れることに越したことはなかった。一稀はそういうところには気が回る。
ただ、今は状況よりは、言葉の吟味のほうが重要だった。
俺はすぐそばにある一稀の肩へ腕を回して、更に身を寄せる。心臓が口から出そうだったが、振り絞った勇気は無駄にはならない。一稀は驚きを隠さずに、俺のほうをじっと見つめていた。真意を確かめようとするかのような瞳は、どこまでも澄み切っている。
「本気だよ」
思った以上に、低い声が出た。
それが呼び水になったように、一稀の頬から首筋までが一気に赤く染まる。顔色を隠すように俯いた耳朶まで真っ赤だ。
「そんなふうにからかい返すなんて卑怯だよ」
言葉はとぼけていたが、声は微弱に震えていた。いたたまれなくて、どうしようもないとばかりに。
「俺が本気かどうかなんて、一稀はよく分かるだろ?」
「……ズルいよ」
そうして見上げてくる顔は真っ赤で、目元が潤んでいた。うるうると揺れる瞳に、ごくりと生唾を飲み込む。
「可愛いよ」
出した声は掠れきっていた。
再び俯きそうになっている一稀の頬に触れる。ほんのりと暖かい熱が、触れ合った箇所から溶け出して馴染んだ。一稀は薄く唇を開いて、呆けたような困ったような顔でこちらを見る。それが無性に愛おしくて、花に寄せられる蝶のようにふらふらと近付いてしまいそうになった。
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