偽装カップルの本心③
「きゃああ」
瞬間湧き上がった悲鳴に、水飛沫が飛ぶ。どうやら、イルカが一番大きなジャンプを成功させたらしい。
歓声ではない賑やかさに、我に返って一稀から離れた。寄せていた肩も離して、前を見る。今になって、とんでもない羞恥心が耳の裏から熱波になって身体中に広がった。血が煮えたぎっているかのようだ。
とてもじゃないが、一稀のほうは見られなくて、素知らぬ顔でイルカショーに夢中になっているふりをする。明らかに意識をした誤魔化しであったが、一稀もそれを指摘してどうこうしようとしたりはしなかった。
ただ、同じように前を見ている気配はする。俺たちは、そのまま微妙に近い距離を保ちながら、静かにイルカショーを見ていた。
ショーの内容は、徹頭徹尾覚えていない。
お昼ご飯は水族館併設のレストランに移動した。
京夏と兄ちゃんは、最前列であったことでそれなりに濡れたらしい。きゃっきゃっと騒ぎながら、タオルで髪を拭き合っていた。
俺と一稀は会話を再開することもできずに、どこか不器用にその後ろをついてく。こんな調子では疑惑の的になると分かっていたが、偽装恋人ムーブに踏み出す勇気はさっぱりなかった。
さすがの一稀も、からかえる領分を越えてしまったらしい。隣を黙ってついてきていた。ただ隣に気配があるというだけで、そわそわと心が浮き足立つ。
しかし、そんな心情が京夏に届くことはなかったらしい。ただただ、ぎくしゃくしているという表面を受け取ってくれたようだ。いや、確かに見た目はそうであるのだから、文句を言えたことではない。
ないのだが、少しは緩慢と漂っている雰囲気などに気がついてはくれぬものだろうか。そんな期待はするだけ無駄だと分かっていても、思わずにはいられなかった。
「二人ともどうしたの?」
端的な問いだ。これが俺たちの交際を認めてくれているのであれば、単純な疑問として受け止められる。喧嘩でもしたのか? という文脈でも成立しただろう。
しかし、口にしているのは京夏だ。この問いは、カップルらしくないという断罪に聞こえた。
「どうもしないよ」
「じゃあ、その半端な距離感何? 付き合ってるんだよね?」
「……」
答えようがない。まさか、危うく衆人環視の中でキスをしそうになって気まずいなど、かつての想い人に答えたくはなかった。仮にかつての想い人でなかったとしても、流布したいものではない。相手は幼なじみだし、その隣にいるのは身内なのだ。
黙った俺に、京夏の視線は猜疑心に塗れた。ただでさえ疑っていたのだ。怪しいものを見逃してくれるはずもない。
「違った?」
「違わないけど、俺たちのペースがあるんだよ」
「ふ~ん」
ちっとも納得していない相槌だけれど、これ以上言いようがなかった。同時に、京夏がそこまでこだわる理由が分からなくて、困惑が募る。今更と言えばそれまでだが、こうして対面するたびに思わずにはいられない。
レストランのテーブルについてからも、窺うような視線が纏わり付いていた。このままぎくしゃくしているわけにもいかない。それは自分でも払拭したいと願っていることだ。俺はメニューを一稀のほうへ流して、一緒に覗き込む。
「何にする?」
「薫は?」
「海鮮丼かな」
「私は煮魚定食にしようかな……でも、お刺身もいいし……」
「海鮮丼の上でよければ分けるけど?」
「本当? じゃあ、煮魚にする。薫にも分けてあげるからね」
一稀もこのままでいたくはないと思ってくれているのか。このままでは京夏に疑い続けられると危惧しているのか。すんなりと会話に応じてくれた。口を開けば、会話は難なく紡がれて安堵する。
兄ちゃんと京夏もメニューが決まって、運ばれてくるまでに魚たちの話になった。
イルカショーの素晴らしさを熱弁する京夏に、俺たちは相槌を打つマシーンと化す。京夏は同意を求めるだけなので、覚えておらずとも助かった。ここぞとばかりに相槌を打っておく。一稀も同じようにしていたため、恐らく同じくらい動揺していたのだろう。
思い返すだに、自分の行動に慌ててしまいそうになった。逃げ出したくなるくらいの含羞に煽られる。それでも、京夏の話を聞いているだけならどうにか耐えられた。そうして耐久していれば、注文が運ばれてくる。食事に集中すればいいという逃げは、ありがたいばかりだった。
俺は海鮮丼の上に乗っている刺身を一種類ずつ数枚小皿に移して、一稀に渡す。わさびを足すのも忘れなかった。一稀も煮魚を解して、一部を同じ皿の中で端に避けてくれる。お互いにお礼を言い合って、箸を進めた。
そして、美味しいと感想を分け合う。眼前のカップルも同じようにしていた。だから、きっとこれは突っ込まれないだろう。
「やっぱり新鮮なのかな?」
「やっぱり、ってなんだよ。水族館はでかいいけすじゃないぞ」
「鰯、美味しそうだったよね」
「情緒って言ったのは一稀のほうだろ?」
目をキラキラさせて水槽を見上げていたはずだ。その横顔はしっかり脳裏に焼きついている。俺よりもずっと食い意地の張ったことを考えていたとは。
「いけない?」
一稀も、それは感嘆するところがズレていると思っているのだろう。拗ねるように唇を尖らせた。
艶やかな桜色が主張をして、ぎくりと身を固める。自然な会話ができていたと思っていた脳内が、やにわにあの瞬間へと巻き戻った。あのまま一稀に吸い込まれていたら、俺はキスしていただろうか。
……していただろう。
あのときの俺に、抑止力などはなかった。あのまま。その意識が急激に脳内を支配して、尖らせた唇に目が留まる。こくりと飲み込んだのは刺身ではなく、生唾だった。
「薫?」
注視していたがために、唇が自分の名を形作るさまをまざまざと見つめる羽目に陥った。それはますます自分の首を絞める。
「いや」
と、どうにか絞り出した、何の答えにもなっていない声は掠れていた。
そして、その声音は、先程の状況を鮮烈に引きずり出したらしい。一稀の瞳に羞恥が走る。そうして、どうしようもなくなってしまったのだろう。一稀はふいっと視線を逸らして、
「馬鹿」
と照れ隠しのように零した。
その仕草に息がつまる。俺は思わず、片腕の肘をついて頭を抱えてしまった。そっぽを向いてしまったのも仕方がないだろう。これ以上、可愛らしい仕草をする一稀を見ていることなど、できる気がしなかった。
甘酸っぱい空気に頭を抱える以外何ができるというのか。前方から不審の目が向けられているのが分かる。そりゃ、目の前で突然そっぽを向き始めて、妙な雰囲気を醸し出されれば、そうなるだろう。俺だって、そうなる自信があった。
「何やってんだ?」
「……放っておいてくれ」
「二人ともよく分かんないね」
「俺たちもよく分かんない」
「何それ」
「薫がからかうからいけないんだよ」
「からかってないって言っただろ」
「それが問題なの!」
ぎゃんと騒ぐ一稀の頬は赤い。破れかぶれなのだろう。
「痴話喧嘩か?」
「違う」
「違いますよ」
口調の違いはあったが、言葉は見事にハモった。そこに至って、ようやく顔を見合わせる。もう何をしても坩堝な気がした。
「仲が良いのはよく分かった」
「偶然でしょ」
「ケイは厳し過ぎるよ。俺だって、野上さんが言ってたみたいに薫を構い続けてるのは面白くなく思うぞ?」
「そんなんじゃないよ! 私は昔から満さんだけしか想ってないもん。知ってるでしょ」
「もちろん」
だしにされたような気がしなくもない。だが、自分たちから注目が離れていくのならそれに越したことはなかった。京夏は一瞬で兄ちゃんにだけ集中する。
俺と一稀は解放されたことにほっと息を吐いて、隙を縫うように食事を進めた。
そのまま二人の世界に入ってくれたことに、心底安堵する。そんな様子を見たくないと願っていたはずなのに。よもや感謝する日がこようとは思いもしなかった。
自分の感情が、目まぐるしく変化していたことを突きつけられる。
一稀に魅せられていることに、気がついていなかったわけじゃない。ただそれは、一稀の造形に引き寄せられているとも考えられた。俺はそれほど強固な理性を持っているわけじゃない。女性の華麗さに引き寄せられる程度には、俗物的だ。だからこそ、疑義は拭えていなかった。
しかし、京夏への感情にけじめがついている。そうした心情の動きを体感すると、一稀への感情までもしかとした輪郭を持った。もう、引き返せないところまで来ている。
偽装などと、いつまで嘯いていられるのか。ひどく阿呆な道を辿っているのではということが胸に迫った。
二人の世界を浴びて、辟易で済んでいる自分の感情など、明白ではないか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます