二人の大きな一歩④
「あれがうち」
見えてきたころに、ぽつんと零す。
クリーム色の一軒家。屋根は赤茶色のような色合いをしている。見慣れた自宅であったが、そこに一稀が向かっていると思うと心がざわざわする。宙に浮いたまま、ちっとも戻ってこなかった。
「立派な一軒家だね」
「父さんが頑張ったって言ってた」
「素敵」
「ありがとう」
褒められたところで、うまい返事は思いつかない。俺の持ち家ではないし、かといって否定するのもおかしい。結局、無難に感謝を告げて、ふっと息を吐いた。
そして、自宅の門を開く。
「どうぞ」
後ろをついてきていた一稀を振り向いて、内側へと導いた。エスコートなんて普段は考えもしなかったが、やろうとすればできたらしい。
一稀はそろそろと段差をひとつ上って、敷地内へと入ってくる。それだけでも、十分に緊張したが、次は玄関扉だ。そして、揃って敷居を跨ぐ。
「お邪魔します」
明るく俺をからかう声がデフォルトだ。弱々しい一面もあるけれど、元々の声質が明るく響く。その声が掠れ気味の音を奏でて、俺の緊張の糸をますます引っ張った。ピンと張り詰めたそれは、もうこれ以上伸びようがない。
「……部屋でいいか?」
「ご家族は?」
「今の時間ならいないけど、そのうち帰ってくると思う」
「……気まずくない?」
「リビングにいて遭遇した後に部屋に引っ込むのも恥ずかしくないか?」
「そうだね。もう来ちゃったんだもんね」
後戻りはできないとばかりに言う。まるで俺が何らかの意図を持って、部屋へと引き入れたようだ。その通りではあるが、何やら一稀がとんでもない覚悟をしているのではないかと恐々とする。
しかし、今更後に引けないのは俺も同じだ。引けば引ける。だが、そうして後回しにして、何かが改善されるとは思わない。話したほうがいいと感じているからこそ、この状況に陥っている。
一稀も納得したようなので、俺はリビングを通り過ぎて、二階へと階段を上がった。一稀が足音を立てずについてくる。その気配の薄さが、逆に存在感を際立てた。なんて器用な真似をするのだろうか。
「ちょっとだけ待ってて」
部屋の前で慌てて断る。一稀は、うん。と頷いて廊下に佇んだ。人の家を見回すのが不躾だという認識があるからだろうか。棒立ちしているのが申し訳ない。
俺は急いで部屋へと飛び込んで、出しっぱなしになっていた雑誌やあまり知られたくない本の類をクローゼットに押し込む。余計な荷物がなくてよかった。今ほど、これといった趣味がないことを喜んだことはない。おかげで元から片付いているから、それほど汚れてもいなかった。
俺は一息を入れて、すぐに部屋の扉を開く。一稀は困り顔でこちらを見ていた。時間はさほどかからなかったはずだが、手持ち無沙汰であったのだろう。初めての場所で放られているのだから、心許なさもひとしおのはずだ。
「どうぞ」
開いたときには早くしなければ、という意識であったが、声を出したときには心が上擦る。
「おじゃまします」
繰り返された台詞は、先程よりも一層儚い音をしていた。一稀が自室へ入室してくる。ぱたんと部屋の扉が閉じた瞬間、喉を絞められたような気がした。
いつもと同じ室内に、一稀がいる。その異物感に、閉塞感を覚えた。入ってきた一稀は、その場に立ち竦んでいる。
「椅子に」
一人部屋に椅子は何個もない。勉強机とセットのキャスター椅子に、一稀を案内した。他に腰を下ろす場所もないので、自分はベッドの淵に腰を下ろす。
部屋はそう広くない。ベッドと机の距離は近くて、人が二人立つ分くらいの距離しかなかった。それでも、放課後の教室にいるときよりも距離はあるのだ。それだというのに、やたらと近さを覚える。
一稀のスカートの丈も、揺れる髪が椅子の背もたれにぶつかるのも、座っている足先も。目についてたまらずに、わざとらしく目を逸らしてしまった。
目線が合わないのだから、一稀にだってバレバレだろう。何を言われたって言い訳のしようもない。それでも、文句を言われるほうがまだマシだと開き直って、目は逸らしたままでいた。
歯に衣着せずに俺をからかう一稀なら、それを指摘してくるだろう。そう予想できたが、それでも勇気の持ち合わせはなかった。しかし、一稀は俺の不審者っぷりを指摘することなく、口を開く。その呼気が空気を震わせて肌に触れた。
「薫は昨日言ったように、本当に後悔してない?」
一足飛びの本題に、顔を上げてしまう。躊躇っていたことなど忘れて、一稀に焦点を合わせていた。
一稀は、太腿の上にぎゅっと拳を握って、足元辺りに視線を落としている。よっぽど力んでいるのか。指先は白くなってしまっていた。痛々しくて、こちらまで全身に力が入る。
「してない」
「……本当に?」
何度確認したところで、一稀が納得できるのか。どう口にすれば、嘘偽りないと通じるのか。必死に頭を回しても、からからと空転しているようだった。黙ってしまった俺に、一稀は萎縮しているのだろう。ますます項垂れて縮こまっていた。
「やっぱり」
その後の語尾は、空気に溶けて音になっていない。それでも、十分に届く。俺にできることは、愚直なことしかなかった。
「違う」
「じゃあ、何で黙るの」
「俺が違うっていうだけで納得してくれるのか? 一稀だって、繰り返しになってるって分かってるだろ?」
「……だって、迷惑かけたもの」
解かれた拳が、スカートの裾をぎゅっと握り込む。太腿にかかるスカートがたくし上げられて短くなっていることに、場合も考えずにハラハラした。
「あれくらい折り込み済みだよ」
「あれくらいじゃないよ」
「別に、あの先輩に何かされたわけじゃないし、噂になるくらい実害はない」
「怪我は実害でしょ」
「だから、たいしたことないって」
一稀が胡乱な目で俺の手を見つめる。もう湿布はしていない。意識しないわけにはいかなかったが、これといった痛みがあるわけでもなかった。
しかし、いくら言葉で言っても信じようとしない。今までの態度でもそうであったし、現在の目つきを見ても信じてくれそうにもなかった。どうしたものか、と一稀の姿を見つめる。
握り込まれた握力は見るに堪えない。解けばいいのに。そうつらと浮かんで、解いてやればいいのか、と突拍子もなく発想が転がる。そして、思わぬ拍子に突き動かされて、手が伸びていた。
手の届く場所にある一稀の手を、怪我したほうの手で触れる。利き手でないので使いづらいが、気にせずに手を奪い取った。
一稀はぽかんと口を開いて、手を見下ろしてから、俺の顔を見上げ、そうしてまた手元へ視線を落とす。それを三往復ほど繰り返して、ゆーっくりと首を傾げた。
その手を思い切り引き寄せる。力いっぱいのそれに、一稀の身体が前方へと傾いた。椅子のキャスターが、がらりと音を立てる。一稀は大きな瞳を力の限り開いていた。そうして倒れてくる身を自分のほうへ引き寄せて、自分の隣に並ばせる。
勢いが良すぎたのか。一稀が驚愕に虚脱していたのか。座った状態で止まることはできずに、そのままぱたりと後ろへ倒れ込んだしまった。手入れの行き届いた黒髪が、スカイブルーの布団の上に広がる。
俺を見上げてくる一稀は、もはや瞬きもできぬまま目を見開いていた。
「大丈夫だろ?」
自分の左側に寝転んでいる一稀を見下ろしながら、ひらりと手のひらをひらめかせる。たった今、一稀をそこに転がした腕だ。信用度はあるだろう。とはいえ、引き起こした行動は素っ頓狂だった。
一稀が呆然とし続けているものだから、ひたひたと何をしているのだろうかと後悔が襲ってくる。
「……悪い」
後悔に蝕まれると、途端にベッドに横たわっている一稀の存在が浮き彫りになった。俺は沈黙に耐えきれずに、謝罪を捻り出す。
一稀は、その声でようやく我に返ったようだ。寝っ転がったまま、ようよう口を開いた。
「……ビックリした。急に何するの」
「手首に問題がないって行動に移さないと信じないだろ」
「それにしたって、急だよ」
吐息混じりに零した一稀が、胸を押さえている。そうすることで、寝っ転がってなお保たれている豊満な膨らみに気がついて、慌てて目を逸らした。
そのあからさまな動きを、意識を取り戻した一稀が見逃してくれるわけもない。弱々しさもあるが、勘の良さと、それをこっちに突きつけてくる強かさはある。
一稀の腕が俺の怪我をしていた手首を掴まえてきて、ぐいっと引っ張った。突然の力の方向に踏ん張ることができずに、一稀のほうへ引っ張られて覆い被さりそうになる。慌てて手をついた。
一稀としては、横に寝転ばそうとしたのだろうが、バランスを崩した身体は予想外の動きになる。一稀の上に覆い被さった俺は、右肘でどうにか身体を止めた。
足先は絡み合っていて、少しでも顔を動かせばキスしてしまいそうな距離に一稀がいる。
息が止まった。一稀の呼気が、頬をなぶる。すぐに退かなければと脳内に浮かんではいるが、思考が神経に繋がっていなかった。運動神経と思考が分離してしまっている。
行った一稀にも、予想外の状況らしい。つぶらな瞳は真ん丸で、長い睫毛がゆるりと揺れて頬に影を落としていた。
「……薫」
近い距離で響く柔い声が、ぞわりと背筋を震わせる。
それが引き金になったように、俺は飛び起きて一稀から距離を取った。突発的な行動に足元が覚束ず、自分の足に突っかかって床へ尻餅をついた。あまりの情けなさに、額を抑えて床を見下ろす。ぐしゃぐしゃと前髪を掻き乱した。
俯いてしまった俺のすぐそばに座り込む気配がある。正座のまま足を崩す女性でないと厳しいとされる姿勢になったのであろう膝頭が、視界の隅に入ってきた。
「ちょっと、大丈夫? 薫」
本当に心配したような声に
「ああ」
と掠れた相槌を打つ。
怪我だとか身体の衝撃という意味では、何の問題もなかった。だが、とても大丈夫とは言えない。心音はばくばくと高鳴り狂っていて、身体の内側がスピーカーにでもなっていそうなくらいうるさかった。
「お前さぁ、急にああいうことするんじゃねぇよ」
ついつい乱暴な口調になる。どうにか気持ちを収めようとしているのに収まらないものだから、発散がおかしなことになっていた。
一稀相手にこうまでおざなりな言葉をかけたのは初めてのことだ。慣れていても、そう出るものではないけれど、ついついの所業だった。しかし、一稀は口調を意に介さない。この大袈裟な状況のひとつとして受け流しているようだった。
「ドキドキした?」
そろっと吹き込まれた音は図星で、逃げようがない。ときに無言は雄弁な答えとなる。
一稀も、そうした気配を読む勘は鈍っていないようだ。つい先程まで呆然としていた子とは、到底思えない。変に突っ込まれて口にさせられるよりはいいけれど、察せられているというのも面映ゆかった。やはり、逃げようがない。
「私もドキドキした」
勝手に追い詰められていたところに注がれた音に、そろそろと顔を持ち上げる。一稀は胸の前で手を組んで、頬を朱色に染めていた。その瞬間、耳が熱くなる。嫌悪感でも驚愕でもなく、ドキドキ。
その報告に、俺の心臓は崩壊への道筋を辿ったような気さえした。
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