偽りの噂⑤

 一稀はそれだけ言うと、ますます早足になって保健室に突撃した。養護教諭はいないらしい。放課後であるし、開いていただけ僥倖だろう。一稀は俺を保健室に引き込むと、適当な椅子に引っ張った。


「座って」

「いや……」

「手当てするから。湿布貼るしかできないけど、とりあえず応急処置ね。痛みが引かなかったら、ちゃんと病院に行って」

「大袈裟だよ」

「ダメ。ごりってしたもん」


 背中で変な角度になった手首の感覚があったのだろう。一稀の瞳は驚くほど真剣だ。そこまで大仰にされるようなもんじゃない。その困惑に溺れそうになるが、一稀は本当に譲る気がないほどに真剣で、茶化せもしなかった。

 手早く湿布とネットを持って戻ってくると、俺の前に座り込んだ。そうして、優しく俺の手を取る。痛まないように。悪化しないように。そうした心遣いが、柔らかい肌から伝わってきた。一稀はどこまでも丁寧に、俺の手当てをしていく。


「痛くない?」


 少し手首を傾けられると、僅かに痛みがあった。だが、手首を酷使したときのそれくらいで、取り返しのつかないような痛みではない。

 しかし、平気だと答えたところで、一稀の心配の色が瞳から消え去ることはなかった。きちんと湿布を貼り終えた一稀は、ネットをかぶせてカバーする。その手つきは淀みない。

 一稀は手当てを終えても、俺の手を離さない。確かめるように。決して痛まないように慎重に。両手で手のひらを掬われた。手を繋いでいたときよりもずっと、しっかりと結びついている。


「ごめんね」


 何度目になるか分からない。その悔恨をどう拭ってやればいいのか。経験不足で役に立たない。一稀がこんなにも自罰的になっていることにも驚いていた。手のひらを見つめるように俯いている角度が、しょげかえっているように見える。


「一稀が落ちなくてよかったよ」

「ごめん」

「こういうときはお礼じゃないか?」

「……ありがとう」


 我に返った一稀が、心底申し訳なさそうに零した。そんな顔をさせたかったわけじゃない。謝罪よりも感謝のほうが前向きで、少しでもそれに引っ張られてはくれないだろうか。そんな思惑は当てが外れた。


「どういたしまして、一稀」

「……怪我させてごめんね」

「だから、それはいいよ。先輩から逃げられてよかったな」


 精いっぱい言葉を重ねる。自分でも手応えはなく、するすると零れ落ちていくのが分かった。

 何がそれほど一稀の心を沈ませているのか。それすらも分からずに、困惑どころか不甲斐なさにこちらまでへこみそうになる。ただ、そんな場合ではないのだと、気力で心を立て直した。

 俯いたままのその頭に、掴まえられていない手を添わせる。叩くように撫でると、一稀の目がほんの少し上向いた。ただし、そこに沈んだ影が消えることはない。いつもは輝いている少し色素の薄い茶色の瞳が、その力をなくしてしまっていた。胸がざらつく。


「一稀」


 どうしたらいいか。迷った結果、名を呼ぶことしかできなくて、そこで言葉が途切れた。一稀は、そんな俺をじっと見つめている。俺の言葉を待っている、というよりは悄然としている様相に近い。

 ざらついた胸がじゃりじゃりと嫌な音を立てた。


「俺は彼氏だろ?」

「……うん」

「甲斐性が見せられてよかったと思ってるんだけど」

「私が彼氏役を頼まなかったら、怪我させなかったよ」


 ああ、と腑に落ちる。何をそんなに項垂れているのか。そもそも論だ。確かに、それを言ったらそうだ。

 しかし、だからといって認めるかと言えば、そういうわけにはいかない。俺は後悔しちゃいないし、一稀のせいだなんて毛ほども思っちゃいない。どうすれば、この憂いを稀釈することができるのか。俺は必死に頭を巡らせた。


「……だったら、俺が了承しなきゃ一稀をそんなふうに苦しませずに済んだな」


 そういう文言で返せば、一稀はぽかんと口を開く。言葉が理解できないかのようにしばらくそうしてから、ぎゅっと唇を引き結んだ。今にも泣き出しそうに瞳が水に濡れ、気持ちが焦る。どうすればいいのか分からない。泣き出しそうなのはこちらだ。


「頼むから、そんなに一方的に自分を責めるのはやめてくれよ」


 一稀の心を掬う方法が分からない。俺には自分の感情を明け渡す以外の術がなかった。


「だって、私のせいだもん」

「あの先輩がしつこかっただけだろ。俺も一稀も何も悪くない」


 やはり、どれもこれもしっくりとはこない。重ねれば重ねるだけ、言葉が薄っぺらくなっていくようで、心許ないばかりだった。


「一稀。俺はこんなことで嫌になったりしないし、偽装に頷いたことを後悔したりしてない。一稀を先輩に取られなくてよかったと思ってるよ」

「……律儀」


 なじるような言い方の本意は掴めない。困惑を滲ませていると、一稀はすっと鼻を鳴らした。まさか泣くのでは、と背筋が凍る。

 京夏が兄ちゃんのことで泣いたことがあった。幼なじみとして、それを見たことがある。そのときの自分の不甲斐なさがキリキリと心臓に迫った。

 一稀は京夏じゃない。それでも、同じくらいに胸を軋ませる。泣いてほしくはないし、ましてや自分の言動で泣かせたくなどなかった。


「ごめん」

「……ありがとう、薫」


 謝るしかできなかったところで、一稀の声音は少し緩んだ。そうして送られた感謝には、逆に不安が掻き立てられる。どこで一稀の感情がスイッチしたのか。流れが分からない。きっと俺は今、とても情けない顔をしているだろう。


「薫が彼氏で良かった」

「……偽装だけどな」

「でも、よかった。ありがとう、守ってくれて」

「急だな」


 もうこうなると、率直に伝えるしかない。俺は一稀の心情の変化についていけていなかったのだ。


「薫が後悔してないなら、いいの。私も彼女らしくしようと思って」


 それが突然の感謝と前向きな変化になる理由はいまいちピンとこない。俺に男女の機微を解することは難しいようだ。

 京夏とのことが失敗に終わったのも当然ではなかろうかと、今更ながらに思える。偽装でもこれだけ困惑に塗れ、後手に回っているのだ。仮に何かが成功していたとしても、俺はうまくできなかったに違いない。早晩、別れていただろう。俺が京夏に失恋するのは、必然だった。


「……彼氏として守ってくれるんだから、彼女としては感謝すべきでしょ?」


 どうやら、心底俺に感謝しているというわけでもないようだ。いや、心のうちにそうした前向きな部分はあるのだろう。

 けれど、偽装という部分に助けられているに過ぎない。それはひどく脆いもののような気がして、不安が拭えなかった。しかし、だからといって、彼女としての振る舞いを叩きのめすこともできない。それに、罪悪感を掘り返したところで、今の俺には一稀を支えるほどの度量がなかった。

 一稀の発言に乗る以外に道はない。俺は一稀の提案に流されたときから、実はそれほど成長していないのではないかとへこんだ。しかし、その感情に飲み込まれている場合ではない。今は一稀の気持ちを回復させることが先決だった。


「一稀はちゃんと彼女だよ」

「うん」


 頷いた一稀が小さく笑う。ぎこちなさは拭えなかったが、笑顔が零れてくれただけマシだ。

 俺はようやく一息を吐くことができた。そして、一稀もひとまずは感情を収めてくれたようだ。それ以上、卑屈な言いざまをすることはなく、ただ純粋な心配を重ねただけだった。痛めているのは事実であるから、一稀の心配を素直に受け入れる。

 これもまた、カップルとしての運びだろう。俺たちは、そこに頼りっきりだった。だが、それが根底にあることは間違いないのだから、仕方がない。そうして場を収められたことに胸を撫で下ろす。お互い、そっちのほうが重要になっていた。

 偽装という部分に頼っていることに気がついていて、それでもそのまま流す程度には疲れていたのかもしれない。

 手を繋いでいい雰囲気になっていたことなど忘れ去り、俺たちは怪我の心配ばかりを交わし合いながら、偽装カップルとして帰路へとついたのだった。

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