偽りの噂④

 一稀は勢い良く教室を出て行ったわりに、さほど進んでいなかった。ちらりと俺の様子を窺う姿は、まるで猫のようだ。抑えきれない笑いを口角に刻みながら、幅広な歩幅で一稀に追いついた。隣に並んで歩調を落とす。

 いつの間にか、隣に並ぶことも板についた。あえて無理やりに会話を捻り出すこともない。静かに並んでいられるようになったのは、かなりの成長と言える。

 俺がそんなふうに振る舞える相手というのは、今までは京夏だけだった。一稀とそれができるようになったことは、気持ちを慰める。彼女役を得たことで、京夏から離れられたような気持ちになった。元来求めていた効果が得られたことに、胸を撫で下ろす。

 はたして、そうなれるのか。その疑問は常にあった。それが僅かでも叶ったのだ。心中の安堵は計り知れない。

 一稀が思うよりも、こうして仲を深めるたびに、俺の気持ちは癒やされている。思うどころか、知らないことだろう。さすがに、君に癒やされているなんて、気恥ずかしくて口に出せない。共犯者に隠し事をしていいことがないのは分かっているが、こればっかりは言い出せない性分だった。

 そんなふうに秘め事を心で弄んでいると、一稀がこちらを見上げてくる。無意味に声をかけてくる相手ではない。何だ? と眉をくいっと持ち上げると、それは難なく通る。その自然さが、くすぐったかった。


「手でも繋ぐ?」


 以前も提案された。そのときは、面食らうばかりだったが、今回はほんの少し脳を止める程度で済んだ。直前の衝撃的な会話に中和されて、そのくらいのスキンシップに騒ぐ気にはならなかった。落差でそう思えていただけだと気付たのは、後になってのことだったが。


「いいのか?」


 掲げられている手のひらをじっと見下ろす。白魚のような手のひらが、ぴくりと震えた。


「……躊躇わないワケ?」

「一稀がいいならって言っただろ?」


 だからといって、ここまで従順になるとは思っていなかったのだろう。一稀は困惑を滲ませて、自分の手を見つめていた。

 本当に触れていいものか。その思考は意識の端にあったが、一度手に触れたことがよぎる。そこに嫌悪感はなかったはずだ。俺はそっと腕を動かして、掲げている一稀の手のひらに触れた。


「っ」


 握る、というところまではいかない。そっと、壊れ物に触るかのように指先を重ねたようなものだ。たったそれだけで、息がつまった。

 俺たちの偽装は、所詮は言葉遊びの領分に留まっている。もちろん、それでも仲を深めることはできていた。実際、彼氏らしいと噂になっているくらいだから、外側から見ても、多少は形になっているのだろう。

 だが、こうした接触には踏み切っていなかった。そこはアンタッチャブルだと、無意識に思っていたのかもしれない。

 一稀がどう思っていたかは分からないが、ベタベタしようとはしていなかった。ナチュラルなボディタッチはあったが、悪ふざけの範疇に収まっていた。だから、こんなふうに触れるのは、初めてのことだ。

 黙ったままなのをいいことに、そのまま一稀の手を握る。握手とは違う繋ぎ方を意識しないなんてことは無理だ。手汗が滲むような緊張を携え、きゅっと握った手を引く。いつの間にか立ち止まっていた歩を進めると、一稀もそろそろと後を追ってきた。

 そうして、じきに隣に並ぶ。黙って手を繋いで、校舎内を進んだ。しんと静まり返った放課後の廊下に、二つ分の足音が鮮明に響いた。

 ドキドキと心音は高まっていたが、緊張感とはまた違う。心地良いと思うには、不慣れさが先んじていた。だが、悪くはない。

 突然、エッチなことをやり玉に挙げたときの雰囲気とは違う。だが、静かに距離感を測るかのようないい雰囲気が、周囲を取り巻いていた。偽装カップルとして理想的と言えるような。誰が見ても、カップルだと認識してくれそうなものだ。まぁ、手を繋いで歩く高校生は、概ねカップル認定であろうが。

 そのまま階段を下りていく。我が高校は一階に特別教室が入っていて、二階が一年生。あとは階ごとに学年が上がる。そうして階段の踊り場を折れ曲がったところで、他人とかち合って驚いた。

 物音が聞こえていなかったはずもない。だが、放課後の校舎内に物音がまったくしないわけではなかった。聞こえているからといって、すぐそこだと認識するには周囲に気を配っていなければならなかっただろう。

 俺たちは、自分たちの作り出した空気に飲まれきってしまっていた。なので、唐突に視界に入ってきた異物に、ぱんと空気が弾ける。慌てた手が、するっとすり抜けていった。それでも、一稀はかなり近い場所にいる。その距離感に気がついたのは、今更だった。

 そして、一度抜けていった手のひらが、次には俺の腕に巻き付いてくる。驚いて見下ろすと、一稀は眼前の男子を見て、頬を引きつらせていた。

 現れた男子は、サッカー部らしい。ユニフォームのままだ。その目がしっかりと一稀を捉え、視線が俺の腕へと流れた。二人の態度を見ていれば、ワケアリなことは容易に窺い知れる。察しがいいとも言えない俺ですら、それは容易だった。


「……それが彼氏?」

「はい」


 敬語だ。先輩か、と情報を拾っている。先輩は値踏みするかのような目を俺に向けてきた。昼間の三人よりも、より顕著な険が滲む。それを丹念に注ぎ込まれて、ぞわりと嫌な感覚に襲われた。


「ふーん。仲いいんだ?」

「はい……急いでいるので、行きますね」


 一稀は遭遇した瞬間の引きつった笑みを脱ぎ去って、完璧な笑みを浮かべている。それのなんと胡散臭いことか。恐らく、この一週間がなければ、これを見極めることはできなかっただろう。一稀の言葉に従うように、俺は一稀を引き寄せた。


「失礼します」


 まったく知らない先輩だ。他に何を言えばいいのか分からない。不躾かもしれないと過ったが、無言で去るよりマシだろう。そうして、向こうの返事も待たずに歩を再開させた。しかし、流れ出ていた険は、俺たちを逃がしてはくれなかったのだ。


「ちょっと待って」


 言葉は攻撃的ではない。だが、引き止める気持ちは強く、その手が一稀の肩を掴まえようとした。

 一稀はおとなしく掴まえられたくなかったらしい。視界の端に入った先輩の手から逃げようとして、足元が素早く動いた。その勢いは激しく、そして一稀が自分で思うよりもばたついてしまったようだ。すこんと踏み外した一稀の目がかっぴらかれていくのが、よく見えた。

 咄嗟に掴まれていないほうの手を背に回す。変に掴まえられそうになったのを回避したため、身体が階段に対して横を向いていた。そのため、一稀の背はそのまま壁にくっついて止まる。

 それはよかったが、一稀の身体と壁に挟まれた手首に、ぐぎりと嫌な感覚が走った。ざぁっと一気に血の気が引いたのは、一稀のほうだ。すぐに壁から離れると、ぐりんとこちらを振り向いて俺の腕を取った。鈍痛が手首に走る。


「薫、大丈夫? 痛い? 平気?」


 慌てる一稀の目が潤んでいた。


「大丈夫」

「……保健室、行こう」


 一稀は先輩のことなどよそに放り出している。俺がちらりとそちらを見ると、先輩も気まずげな顔になっていた。引き止めてどうしたかったのかは分からない。だが、怪我人を出すつもりはなかったのだろう。顔色もよくない。


「悪い」

「いえ」


 先輩に悪意がないのは分かっている。もちろん、文句があったのかもしれないし、あまり褒められないことを訴えようとしていたのかもしれない。しかし、この事態は一稀の反応によるもので、先輩だけに非がある話ではなかった。

 即座に返事をした俺とは裏腹に、一稀は厳しい目で先輩へと振り返る。もしかすると、そうするに値するわだかまりが、二人にはあるのかもしれない。俺は事情を知らないのだから、その辺りに口は出せない。

 だが、一稀に人をなじらせるような嫌な役割を担わせたくはなかった。


「一稀、いいから」

「……痛い?」

「もう行こう」


 俺が離脱を主張すると、先輩への苛立ちよりも心配が上回ったらしい。すぐに不安を口にして、俺のほうへ向き直った。その一心な態度に、先輩は思うところがあるのだろう。苦々しさが迸った。

 一稀はそんな先輩に少しの意識を向けもしない。俺も今度ばかりは一稀の態度に従った。当人が撥ね除けたいのであれば、俺はそれを受け止めるだけだ。偽装彼氏としての役割は、それなのだから。

 それに、手首の鈍痛に気持ちがへこんでいた。一稀は掴んでいた腕のほうを引いて、俺をその場から逃がそうとする。

 先輩のほうをちらと振り返ると、侘しい目がこちらを向いていた。若干の申し訳なさが浮かぶ。俺は本物ではないのだから。しかし、一稀には関係がないようで、そそくさと足を進めていく。


「……かかわらないで」


 早足の一稀が、ぽつりと零した。その陰鬱とした響きに、喜ばしくない事情を察す。


「何があった?」

「……嘘でもいいって言ったの。私と付き合えたらそれでいいから、気持ちはいらないって。でも付き合って欲しいっていうの」

「俺とそう変わらないと思うけど」

「好きだってことも言ってた。綺麗で可愛くて魅力的だって」


 一稀がそれを前向きに受け止めていないのは、確実だった。

 俺が褒めたときには素直にしていたように思う。ということは、何か不安を抱くようなニュアンスがつまっていたということか。俺のそうした当てずっぽうな思考を察してくれたらしい一稀が、所感を口にする。


「……手を握って、擦りながら、そう言うの」


 俺の腕を掴んでいる力が強くなった。たったそれだけで、忌避感が手に取るように分かる。触れた部分から、一稀の感情が伝わってくるようだ。


「気持ち悪くって」

「分かった」


 それ以上の不快を聞いていられなかった。


「近付かないようにして、気をつけてくれ」

「薫もだよ」

「俺はいいから」

「よくないよ。ごめんね」


 一稀の後悔が伝わってくる。そんなに気にしなくても、手首くらい平気だ。左手なのも不幸中の幸いだろう。

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