第四章

二人の大きな一歩①

 正直に言えば、誰が悪いわけでもない。そりゃ、先輩に一稀を求める気持ちはあったのだろう。だが、あれは事故のようなものだ。だから、俺は大ごとにするつもりもなかったし、実際痛みも翌日にはすっかり元に戻った。

 しかし、その日、一稀に手当てを受けた状態で帰った俺の手がいつもと違ったのは事実だ。それに気付かない兄ちゃんではないし、京夏でもなかった。


「どうしたんだ、それ?」

「大丈夫?」


 リビングへ入り、いつものように通り過ぎようとしたところで見つかる。ポケットに手を突っ込んでおいたことも、カモフラージュにはならなかったらしい。


「大丈夫だよ、たいしたことない」

「何があった?」


 兄ちゃんは、普段は不干渉だ。京夏と両想いになってからは、特にこちらへ気配を向けることも減った。二人の両想いっぷりは、飽き飽きするほど周囲への気遣いなどない。

 いや、蜜月と呼ぶべき時間だと思えば、珍しいことでもないのかもしれないけれど。舞い上がっている時期なのだろう。俺と一稀でさえも、どことなく仲良くなったふわふわ感があるくらいだ。想い合う二人であれば、当然のことであるのかもしれない。

 その盲目的な兄ちゃんが、こちらに目を向けている。それに釣られるように京夏の目もこちらに向けられた。普段との落差には、苦笑いが零れる。こんな簡単なことで意識を引けたらしい。

 すべては後の祭りだ。


「ちょっとした事故だよ」

「事故って……人身とかじゃないよね?」

「違う違う」

「揉め事か?」


 京夏の反応に、手のひらを振っていると、兄ちゃんが鋭い眼差しになった。

 俺が怪我なんて、それほど珍しいものだろう。運動が得意でなく、どちらかといえばインドア。そんな俺が、事故で怪我だ。これが授業で、なら大したことはなかったのかもしれない。そう辿り着いて、返事を間違ったのだと臍を噛んだ。


「いや」

「野上さんのこと?」


 否定しようとした矢先に、言葉を刈り取られる。

 京夏の口から出てきた偽装彼女の存在に、思わず頬が引きつった。それは決して肯定を意味するものではないが、兄ちゃんには通じない。ちょっとブラコンなのだ。俺の些細な変化を見逃すことはないくらいには、ブラコンなのだ。


「それ、誰?」

「薫の彼女だよ。すっごく美人」

「薫の? そんな子と付き合ってんのか?」

「俺がどんな子と付き合おうと兄ちゃんには関係ないだろ」


 こっちだって無関係でいようとしているのだから。

 内心を込めた音は、思ったよりもつっけんどんになった。それが良くない効果を生んだらしい。兄ちゃんの目つきは、より剣呑になる。


「そんな子と釣り合ってんの?」


 俺を馬鹿にしているわけじゃない。そのはずだ。心配からくる手厳しさだろうことを察することはできる。だが、どうしたってその言いざまは癪に障った。散々、釣り合いをほのめかされてきて、自宅でまで疑われるのは疲弊する。


「あんまり。そう見えないって噂になってる」


 京夏の要らぬ補足を睨みつけてしまった。

 その行動を見咎められるのは当然だ。あれほど京夏の気持ちを半端に捉えていたくせに、一度認めてから兄ちゃんは京夏贔屓だ。

 その変貌を馬鹿にする気はないが、面白くはない。また、それが今発揮されることは、より一層機嫌をささくれ立たせた。


「騙されてるんじゃないのか?」


 ぴきっと頭の中で何かが割れるような音がする。


「一稀はそんな子じゃない」

「信用できるのか?」

「自分の彼女にそういうことを言われて気分が悪いことくらい想像できるだろ」


 俺は立ち止まっていた歩みを再開させて、さっさと部屋に戻ってしまおうとする。こんな戯れ言に付き合うつもりはない。


「おい。薫」

「満さん」


 厳しい声を出す兄ちゃんを引き止めてくれているのは京夏だ。京夏は、一応一稀のことを知っている。

 仔細に知っているかどうかは知らないが、一稀は決して悪い噂が流れているような子じゃない。俺の不機嫌さを補って収めてくれるだろう。希望的観測を抱きながら、歩を止めなかった。これ以上兄ちゃんとやりあっても、いいことはひとつもないと分かる。

 俺との偽装に罪悪感を抱いている一稀に、これ以上不安なことを引き起こしたくなかった。このことが一稀に影響を与えるかどうかは分からない。だが、一稀の勘はいい。そして、俺は兄ちゃんと口喧嘩をして、まったくの平常心でいられる自信はあまりなかった。

 一稀に透けてしまえば、そう簡単には逃げられない。俺は共犯者を思った以上に身近に感じている。煩わせたくはないと願うほどには。

 一稀に触れた指先の感覚や、自分の手のひらを厳かに包まれた感触が蘇った。ぎゅっと拳を握りしめて、そのまま部屋へと引っ込む。

 兄ちゃんのことは、京夏に任せておけばいい。

 そんなことは、生まれてこの方思ったことなどなかった。二人きりにさせることを恐れていたことすらある。恋心に決着がつけられているような気がした。違和感はある。だが、ここまでで済んでいるのは偽装彼女のおかげだろう。

 一稀のおかげだ。

 そう思えるからこそ、兄ちゃんの態度が気に食わなかったのかもしれない。感情の変化に浸りながら、俺は自室に戻ってベッドに倒れ込んだ。

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