二人の大きな一歩②

 翌日の一稀の過保護っぷりといえばなかった。俺が手を使わずに済むようにと、ほとんど一日中付き纏われていた。

 その状況に、周囲から何事かと関心を寄せられている。そりゃそうだろう。俺だって、何事かと驚くほどだ。事情を分かっていても、あまりにも過保護過ぎてどうしたものかと悩む。

 一稀はその日も弁当を持参してくれていて、二人並んで弁当を食べた。危うく、あーんで食べさせられそうになって回避する。一稀が不貞腐れていたことを目撃されたようで、俺は一稀に溺愛されているということになったらしい。たった一日でこの有様とは、影響力が凄まじかった。そして、それは手に負えない。

 釣り合い云々の話は、あっという間に一稀がベタ惚れという噂に塗り替えられていた。こんな簡単なことで……と思うが、だからといって、何かが改善するわけでもない。噂の的になっていることは変わりなかった。そして、やっぱり騙されているのではないかという視点もなくならないものらしい。

 それにしたって、その噂は心をざらつかせる。

 昨日の兄ちゃんの台詞が蘇った。あの後、兄ちゃんはもう何も言わなかった。京夏が取り持ってくれたのだろう。どういう説得をしたのかは分からないが、少なからず怪我のことで一稀を腐すのが悪手だとは気がついたようだ。だから、こちらからも反駁心は収めた。

 しかし、それをまったく別のところから、責め立てられている。どういう因果だろうか。やはり、偽装というのはうまくいくものではないのか。その考えすらよぎるほどだ。昨日、一稀が見せた後ろ暗い感情に引きずられているのかもしれない。


「薫? 美味しくない?」

「そんなことないよ。美味しい」

「じゃあ、手首痛む?」

「それもない。もうすっかり大丈夫だから」

「無茶しないでよ?」


 ここまで心配性だとは知らなかった。悪い気はしないが、苦笑は否めない。

 やはり、昨日の憂いを心から排除することはできていないのだろうと、その思考が拭えなかった。

 理想のカップルとして、気持ちを納得させたふりをしていたに過ぎない。その事実を切々と感じる。一稀がそうした振る舞いをするたびに、心がめげた。嫌なわけではない。恋人として振る舞われることも、吝かではないのだ。

 贔屓してくれる。一稀が俺を気にかけてくれている。それは素直に嬉しい。だが、心配しているのだ。無理をしてはいないだろうか。偽装という形が、負担になっているのではないだろうか。

 一稀が言い出したことだ。だから、自業自得と言えばそれまでだろう。しかし、この問題は一稀一人にのしかかるものではない。俺だって、了承をした。

 共犯。

 それが俺の認識だ。

 だから、自業自得であるし、無理をするのもやむなしだとは到底思えなかった。無理をしているのであれば、気持ちを緩めて欲しい。そう願わずにはいられなかった。一稀に不安定な気持ちで過ごして欲しくはない。

 そもそも、偽装彼氏を作ることも、平穏な日々を過ごすためのものだったはずだ。それが叶えられていない。ならば、それは俺の不足でもあるはずだ。一稀はきっと、そんな責任転嫁はしない。俺のせいではないと、否定することだろう。

 俺だって、すべてを自分のせいにできるほど図々しくはない。だが、関連している。それを知らん振りし続けることはできそうもなかった。


「一稀こそ、そんなに気を回さなくてもいいぞ」

「好きでやってるからいいの」


 その好きは、やりたくて、の意味だろう。それくらい分かっていた。

 だが、クラスメイトの視線がこちらに向く。実際に目視したわけではないが、その視線の熱量は分かりやすい。茶化すような、慄くような、聞いているほうが気恥ずかしいとでもいうような。

 一稀もすぐに気がついたようだ。しかし、悪びれることなく、小さく舌を出して笑った。やっちゃった、とでもいうような軽やかさには、肩を竦めるしかない。


「ほどほどに」

「はーい」


 軽い調子を崩さない一稀に、疑問は残っている。憂いをなくしての行動なのかどうか。

 俺はそちらに思考を取られて、一稀のアピールを諌める方向に舵を切れなかった。いや、そうでなくても、舵を切るのは容易ではなかっただろう。俺には難易度が高くて、流されてしまっただろうことは想像に難くない。

 とにかく、俺を溺愛している。その噂が強まったのは、昼間の出来事が起因しているようだった。好きで俺に纏わり付いているというのだから、そうなるのも頷ける。裏事情を知らなければ、俺たちはラブラブなカップルらしい。それを偽るために動いているのだから、何も悪くはない。

 しかし、一稀がやり玉に挙がっている現状を、素直に喜ぶ気にもなれなかった。安穏を与えてやりたい気持ちが強まってる。昨日、庇ったことが何かのスイッチを押したのかもしれない。

 今までは形式上の彼女でしかなかった。今も現実にはそのままだ。だが、心持ちが違う。これは何だろうかと自問自答ばかりが胸をついた。

 そうして、一日中ともにいた学校の終わりも、一稀は当然のようにそばにいる。放課後の教室に居残り。いつものことだ。だが、いつもよりも濃密な時間を過ごしているような気がしてしまう。一日行動をともにしただけで、これだけ気分が変わるものかと思わずにはいられなかった。

 一稀はこれといった特別な話題を取り沙汰したりはしない。手首の心配も、口に出すことはなかった。一日中そばに居続けていることで、十分心配は透けてみえているが。だが、そのことへ謝罪を重ねることはない。昨日のように、困惑するような会話を繰り返すつもりはないようだった。

 それは意図してのことなのか。自然体でいるのか。残念ながら、俺にそれを判別する能力はない。いくら親密さが深まったと言えども、たったの一週間と少し。まだまだ知らないことのほうが多く、予想できないことが多い。それは昨日の一稀の言動から鑑みても、その通りだった。

 俺は一稀の本心を探る術を持たず、またあえて空気を壊して探る蛮勇も持てない。そうなると、上辺だけの会話が続く。それこそ、偽装カップルとして正しい姿であるかのように。

 さすがに、ここまで複雑化した面倒な思考は、一稀にも勘づくことはできないようだ。いや、何か不思議さは手にしているのかもしれない。だが、それに触れるのは簡単ではないのだろう。俺が一稀への探りを躊躇うかのように、一稀にだってそうした感情はあるはずだ。


「ちょっとお手洗い行ってくるね」

「帰るか?」

「ううん。待ってて」


 ふわりと笑って去って行く一稀を止める理由がない。

 一人取り残された俺は、長い息を吐き出してしまった。背筋をだらりと椅子に預けて、天を仰ぐ。

 何をそんなに迷うことがあるだろうか。一稀との偽装はうまくいっている。むしろ、一稀が俺を贔屓にしてくれている分、俺に対するやっかみの噂もいくらか薄まったくらいだ。何も不安に思うようなことはない。

 それだというのに、気持ちが晴れなかった。偽装がうまくいっていれば、一稀の感情がどうでもいいなんて、俺はそれほど脳天気なつもりはない。ただ、それに気持ちを取られる理由が、いまいち判然としない。

 この短期間。何か特殊な出来事があったわけでもなかった。いや、偽装カップルを演じるという事態が、既に特殊な出来事ではあるのだけれど。けれど、その中で飛び抜けてインパクトのある事象が起こったわけではなかった。

 それだというのに、一稀への歩み寄り具合をひどく感じる。悪いことではない。表面にどんな名前がついていようとも、親しいものができるのは喜ばしいことだった。ましてや、同じ秘密を抱いて信用できる相手だ。何も憂いはない。人間関係が広がったのだから、素直に喜べばいいはずだ。

 だが、ことはそう簡単ではなかった。どうしても、一稀の心情が気になってしまって仕方がない。

 くしゃりと髪を掻き乱して、吐息を零す。

 どうしようもないことだ。偽装をなくしてしまいたくない以上、この憂いが消えることはない。一稀が気を配り続けることを拒否するのも難しいだろう。それは、ともすれば偽装を断ることになりかねない。

 俺だって、今更になって止めるつもりはなかった。いや、一稀がそれを願うのならば、考える。でも、そうでなければ、俺はこの立場を変えたいとは思えなくなっていた。

 そりゃ、やっかみもあるし、怪我までしてしまっている。いくら一稀のようなとびきりの美人に構ってもらえると言えども、困惑することも多い。こうして頭を悩ませていることだって、面倒極まりないだろう。どんなにうまく言い回したって、面倒という気持ちに変わりはない。

 しかし、だからといって手放したいとは思わなかった。そう易々と手放せるとも思えない。

 どうしてだろう。どうして、こんなにも一稀に執着しているのだろう。いつの間に、こんなにも肩入れをするようになっていたのだろう。

 自分でも自分の心が分からない。京夏と姿が被ったことをどう受け止めればいいのか。どこかで惹かれているのかもしれない。そういう気持ちの察しがないわけではなかった。

 だが、京夏への気持ちとは、また違う気もしている。確信がひとつも持てない。思考がメリーゴーランドのように回る。内臓が引っ掻き回されて、目まで回ってしまいそうだ。

 頭を抱えたところに物音が響いて、慌てて顔を上げる。一稀が戻ってきたのだろうと思ったが、扉を開いていたのは山津さんだった。山津さんは俺を見咎めると、ぱちくりと瞬きをする。

 それから、


「大丈夫?」


 と出し抜けに零した。

 心当たりは存分にあったので、苦笑いになる。俺はそんなに渋い顔をしているのだろうか。


「疲れてるの?」

「少しね」

「一稀と何かあった?」

「どうして?」


 間を飛ばして辿り着かれてしまう原因が分からなくて、首を傾げた。


「放課後は一稀と残って何か話してたでしょ? 最近、いつもそうだって一稀に聞いていたのにいないから」

「お手洗いに行っているだけだよ」

「じゃあ、一稀と何があったわけじゃないの?」

「まぁ」


 曖昧な相槌になったのは、まったく何もないと言うには、怪我のことがよぎったからだ。やっぱり、一稀はそれを気にしているように思う。そのことが引っかかって、無関心とはいかなかった。

 曖昧さに疑惑を抱くのは当然だろう。山津さんは困り顔になって、さっきまで一稀の座っていた席に腰を下ろした。友人とは動作が似るものなのだろうか。横向きに座った山津さんが俺のほうを向く。


「何かあったんでしょ?」

「……ちょっと」

「やっぱり」


 しみじみと零されて、再度首を傾げた。そんなにも納得されるほど、俺が山津さんに勘づかれる時間なんてものはなかったはずだ。


「一稀が何か気にしてるみたいだったから、そうなのかな? って」

「なるほど」


 今度はこちらが納得をする。山津さんは苦々しい顔になった。


「一稀って分かりやすいから」

「そうかな?」

「分かんないの?」

「……何かあるのは分かるし、気にしていることに心当たりもあるけど、本心は分かんないよ」

「それが分かったら、エスパーだよ?」


 山津さんは驚いたような、呆れたような、おかしそうな。色々なものが撹拌された笑みを浮かべる。


「聞いてみれば?」

「うーん」


 俺に気を使っているかもしれないことを俺が聞いたところで、答えてくれるものだろうか。こっちが気にしていないと言ったところで、一稀にそれが通じるかは怪しい。心を動かすような言葉をかけられるとも思わなかった。


「怖い?」

「そういうのとはまた違うかな」


 否定しながら、そういう部分もあるかもしれないと頭の片隅に引っかかる。もし、苦しいから止めたいと言われたら、と思うと寂しい。不必要と断言されるのは、怖いともいうのかもしれなかった。


「そう? 何にしても、話してみたほうがいいんじゃない?」

「山津さんは、一稀から何か聞いてないの?」

「怪我を心配してたけど」


 知っているんじゃないか、と微苦笑になる。

 ただ、言い方を聞くにつけ、詳細は知らないらしい。怪我人を気にしている。それだけを切り出せば、ただ彼氏を慮る彼女の図だ。そこには、男に絡まれて倒れそうになったところを救われたという事情が隠されている。

 それだけでも、自分のせいと思うものは思うだろうが、一稀には更に根本にまで自分のせいと思う部分があるのだ。

 偽彼氏を任せなければ、と。


「具合、よくないの?」

「もう何ともないよ」

「嘘つき」

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