第三章

偽りの噂①

「慣れれば慣れるもんだな」


 そう崇原に言われたのは、俺が一稀と過ごすようになって一週間が経ったころだ。確かに、と思ってしまったのは事実だが、口に出すことはしなかった。見ているほうよりも、一緒にいるほうがしみじみ思っている。


「見慣れればそこまで違和感もなくなるよなぁ、意外だけど」

「慣れるんじゃないのかよ」

「それでも、いつまでたっても変な感じするよ。野上さんと薫だろ?」

「釣り合わないってのは、聞き飽きたぞ」


 そばにいるのに慣れた一週間は、同時に釣り合わないと言われるのに慣れた一週間でもある。

 もちろん、以前から疑いは持たれていた。しかし、二人でいるところを周知していれば、交際は目に見えるようになる。となると、疑いではなく、不服のような態度も増えてきた。

 嵩原のように、気ままに言ってくれる生徒は少ない。遠巻きに、あれこれ噂されているのが耳に届いている。

 一稀は少し気にしている様子だったが、俺はそれくらい折り込み済みだった。まだ、そんな気もないときに、嵩原とやっかみについて話したこともある。モテると本人が最初に口外したこともある。想像力は膨らんでいたし、なので予想の範疇だった。実害がないだけマシだ。

 何より、一稀と和やかな会話を交わせるようになったことは大きい。少なくとも、嵩原のように見る人が見れば、慣れたと言えるくらいには自然になった。たった一週間でなせばなるものだと感心するくらいに、俺としては成長したと言えるだろう。それで京夏と何かが変わったのかと言われると、閉口せざるを得ないが。

 だが、一週間。心情的にはまだまだ訓練期間だ。一稀の求める彼氏らしさを、再現できているのかも分からない。この辺りも、まだまだ手探りだった。

 それでも、嵩原にこう言われてなんとなくひと心地がつく。


「いや~、そりゃ言われるだろ。この場合、野上さんが規格外だからな」

「誰が規格外だって?」


 俺と嵩原は後ろ前の席にいる。そこに俺の後ろからひょっこりと現れた一稀は、高飛車な顔をして髪をなびかせていた。いかにも規格外を現したような、わざとらしい態度だ。嵩原も苦笑いをしている。


「私、別にそんな変な子じゃないんだけどなぁ」

「高嶺の花ってこと」

「そんな高いとこにいる?」

「俺からすればね」

「薫はそんなこと言わないよね?」

「……答えづらいことを聞くなよ」

「あ、ひどい。格差があると思ってるわけ?」


 むっと唇をへの字に曲げて、俺を睨む。一稀は強気な態度を装うことがあった。それを思い知ったのは、この一週間の賜物だろう。他の人がいるときと、二人きりのときでは調子が違った。


「周りは思ってるみたいだな」

「そんなことないのにねぇ」

「そうか?」

「気持ちは釣り合ってるでしょ?」


 薄らと微笑んで首を傾げる。こちらを見下ろしてくる一稀は、やっぱり不敵な態度だ。

 恥ずかしいような台詞を平然と吐く。これは見せつけるための作戦なのか。気が大きくなっているのか。定かではないが、ポーズとしては大事な要素であるだろう。

 俺だって納得していた。そして、彼氏役を求められていることも理解している。


「まぁな。さ、食堂行くか」


 短く相槌でこなした。彼氏役でいようという意気込みはあったが、いかんせん力が伴わない。情けないやりざまだが、答えられただけいいだろう。そして、そのやり取りを切り上げて、習慣になった行動を促した。

 しかし、一稀は首を緩く横に振る。髪の毛がふわりと揺れて、シャンプーの香りが舞った。


「どうした?」


 何か不測の事態でも起こったのか。食堂通いは、偽装のためのひとつだ。だから、拒否される理由が分からなくて首を傾ぐ。そこに至って、一稀が手を背中側へ回していたことに気がついた。それが前へと出されて、隠しものが見つかる。


「作ってきたから、教室で食べない?」

「うっわー」


 俺の反応よりも、嵩原の反応のほうが早い。それも、とことん感動したような声音を出すものだから、二人揃って嵩原に注目してしまった。


「あ、悪い。しかし、彼女のお弁当とかベタ、あり得るんだなぁと思って」

「彼氏のためのお弁当くらい簡単だよ」

「いやぁ、すごいよ。じゃ、俺はお邪魔虫っぽいし、撤退するな。お二人でどうぞ。席使ってくれていいから」

「ありがとう、嵩原くん」


 にこりと笑いかけられた嵩原が、へらりと笑って席を立つ。何ともチョロいというか。一稀の可憐さの波動を改めて感じるというか。呆れ半分で見ていると、嵩原は笑いを引っ込めて苦い顔をして去って行った。俺の反応が嫉妬心に思われていたとは、後で言われて初めて知ったのだった。

 一稀はその間に、俺の前へ席を下ろす。それは嵩原の助言を受け入れたようで、いつものことであった。初めて会話をした日から、昨日の放課後まで。一稀はいつも、そこに腰を下ろしている。

 そうして、俺の机に二つの弁当が並べられた。二つの大きさは違う。大きいほうを俺の前へ、小さいほうを自分のほうへ置いた一稀は、様子を窺うように俺を見上げた。


「……どうしたの? 急に」

「仲良しアピール」


 そっと囁くように。ほとんど口をぱくぱくと動かすだけで答えを寄越す。一週間で、周囲にバレないためのこんな技も手に入れたらしい。答える俺のほうに、そんな技術は必要なかった。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 そつのない応酬をしながら、弁当の包みを解いていく。どんなに偽装と言ったって、目の前にあるのは現実だ。女の子に弁当を作ってもらった経験なんて一度もなくて、どくどくと脈が速まっていた。

 開いて出てきたのは、濃い藍色の二段弁当だった。バンドを取って、蓋を開いていく。行動のすべてが確かめるように緩やかになってしまっていた。その分気持ちが浮ついているので、どうにもちぐはぐだ。

 そうして開いたお弁当から、いい匂いが放たれる。卵焼きにウインナー。ほうれん草のおひたしにからあげ。隅っこにミニトマトが入っている。ご飯のうえにはゆかりがかけられていて、紫が目に飛び込んできた。


「美味しそう」

「そう?」


 ぽつんと零した独り言に、光をまぶしたような声が飛び込んでくる。

 前を見ると、一稀の瞳がキラキラと期待に満ちあふれていた。振る舞うほうがする顔ではない。感想の期待は重かったが、それだけ気合いを入れてくれたのだろう。そうポジティブに受け取って、箸を取り出した。ぱんと手を合わせる。


「いただきます」


 そうして弁当を見下ろす俺を、一稀が観察している視線が分かった。

 やはり、期待が重たいが、素知らぬふりで箸を動かす。何から手をつけるか迷ったが、つやつやと黄色い卵焼きに狙いを定めた。黄色と白が綺麗に巻かれている卵焼きは、ふわりとした舌触りで口内へと広がる。甘い味付けのそれは、胸をほろりと蕩かした。


「美味しい」

「本当?」

「ああ……本当に。美味しい。料理、上手いんだな」

「練習したからね」


 はにかむような笑みに、面食らう。わざわざ、練習をしたのか。思わず、一稀を凝視してしまった。

 何しろ、台詞のすべてが本当かどうか定かではない。積極的に嘘を吐こうとはしていないだろうが、何しろこの関係が偽装だ。いくらか語弊を含むものもある。人前であれば、それは輪をかけて不明瞭だった。

 俺くらいの人生経験では、そんなものを見透かすことはできない。それを見極めるように見てしまい、一稀は困ったように眉尻を下げた。


「だから、練習中は食堂に通ってたの」

「……俺のため?」

「だって、下手なの食べさせたくないじゃん」

「ありがとう」


 たとえそれが彼女役としてのポーズとしても、それにしたって健気だ。頭が上がらない。


「どういたしまして」


 満足そうな顔をしてくれるから、きっと俺の反応は間違っていないのだろう。

 初体験に上擦っている気持ちが、多少元の位置に戻った。

 しかし、どうにもお礼だけでは物足りない気持ちになる。それは、一方的に努力を重ねてくれたことへ対するものだろう。やるかやらないかは一稀の自由だ。だが、共犯のバランスが崩れるのは心苦しかった。


「……卵焼き以外は口に合わなかった?」


 そんなバランスをもぞもぞ考えていたからだろうか。浮かない顔でもしていたのか。それとも、この一週間でこちらの感覚を掴む能力を手にしたのか。一稀が不安げな顔で俺を見る。

 努力してくれたうえに悲しい顔をさせるのは、本意ではない。俺はすぐさま首を横に振った。


「いや? なんか、俺のために悪いなぁって」

「やりたくてやってるんだから、そういうのいらないって」


 僅かに寄った眉間の皺は、本心だとすぐに分かる。

 甘言はどうしても勘繰ってしまわざるを得ない。失礼なことだけれど、半分くらいは偽装行為のためだろうという気持ちが拭えなかった。

 だが、こうした苦い顔でもたらされる感情に、疑念の余地はない。心からの言葉だと分かるから、こちらも苦笑いにならざるを得なかった。


「俺が気になるんだよ。今度何かあったら言って」

「何でも?」

「……できることなら」

「え〜! そこはかっこつけてよ」

「無茶を了承して叶えられなくなるよりはいいだろ?」

「じゃあ、デートしよ?」


 箸を片手に、首を傾げる。何気ない仕草が絵になり過ぎた。どきんと心臓が跳ねたのは、その仕草にではなく、予期していなかったデートの提案についてだと思いたい。

 いや、まったくひとつも予期していなかったわけではなかった。いずれ、そうしたお出かけをすることもあるかもしれないと読んではいたのだ。だが、あまりにも出し抜けで、不意を突かれてしまう。ろくな返事もできなかった俺に、一稀はくいっと片眉を上げた。


「嫌なの?」


 声にはたっぷり甘えるような色が混ざっている。そのくせ、表情には棘が隠しきれていない。彼氏役として不足ということだろう。今ばかりはそんな表情をされるのもやむを得ない。確かに、不足だらけで頼りないことだろう。


「そんなわけないだろ。でも、それで弁当のお礼にはならないでしょ」


 ほとんど無意識に意見したが、それは意に沿っている気がした。首を傾げられることで、理由を考えれば尚のこと、都合のいい言い方をしたものだと自分の手柄に心の中でバンザイする。


「デートじゃ、俺だっていい思いするじゃん」

「何それ」


 ふふっと笑う一稀は、もう俺の手腕を責める気はなさそうだ。自然な態度には、こちらも気持ちが整理される。

 ふぅと息を吐いてしまったのは、誤謬を与えなかったことへの安堵だ。

 嫌などころか。むしろ、感情が喜色に塗れて、心臓が飛び跳ねるようなことだった。それを意識し過ぎていないレベルで、それとなく伝えることができたのだから上出来だ。


「じゃあ、デート中に特別なことしてくれてもいいんだよ?」

「プレゼントとか?」

「そこまで大きくなくてもいいけど」


 本気か戯れかは、今問題ではない。ここで重要なのは、たとえ話であろうともスムーズにこなすことだ。深く考え込むこともない。この一週間で、この部分においてはかなり鍛えられている。


「じゃあ、お昼を驕るよ。同等だろ?」

「カフェでコーヒー一杯でもいいよ」

「ちょっとくらいかっこつけさせろよ」

「言っちゃうところがちっちゃいよ」


 自分の中に、こんな会話の引き出しがあったことには、驚きを隠せない。だが、一稀が導く方向に従っていけば、話は存外難しくなかった。クスクスと笑われることにも、すっかり慣れている。一稀の笑みに落ち着くようになってしまったほどだ。


「一稀さんのために頑張ってるのになぁ」


 こういった当てつけがましい言い回しもできるようになった。初めにそうしたときは、少し意外な顔をした一稀も、クラスメイトの前でそんな素振りは見せやしない。そつのない子だ。


「じゃあ、そんな努力家の薫くんにはご褒美をあげよう」


 そう、にこりと笑った一稀が、卵焼きを差し出してくる。

 その不敵な笑みが、からかい混じりであることも、俺にはお見通しだ。どうにも、女慣れしていない俺を弄ぶところがある。半分くらい応じないと分かっていてやっているようだった。実際、その通りであるのだけれど、俺だって煽られて黙っていられるには限度がある。

 そして、今は人目があった。断るにも不具合がある、と一瞬でもよぎったら、やけくそ気味の勢いに突き動かされた。

 俺は顔を寄せて、もぐっと卵焼きを歯で掴まえる。できるだけ箸に口をつけないように心がけながら、それでも不接触とはいかぬまま卵焼きを咀嚼した。耳が熱くなっている気がする。気恥ずかしさが胸底から湧き上がった。

 一稀も驚いたのか。箸を俺のほうへ突きつけたまま、硬直してしまっている。


「……ごちそーさま」


 どうにか絞り出した言葉で、一稀ははっと意識を取り戻した。それから、見たことがないほどあからさまに目が泳ぐ。反応に釣られて、こちらまで気ぜわしくさせられた。一稀を見ていられなくなって、視線を落として襟足を弄る。視界の端で、箸が引き戻されるのが分かった。


「……お粗末様」


 一稀の声は囁くような小声で、心臓を撫でられたようにくすぐったい。

 そこからはお互いに調子を崩し、甘酸っぱい空気に飲み込まれた時間を過ごすことになった。

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