歩み寄りの数歩③

「っていっても、俺は経験ないし、まともなことはできないから頼りにしてもらっても困るけど」


 つるっと零してしまったのは、しおらしく頷かれてしまったからだろう。身近に思

えたことで、庇護欲が刺激された。されはしたが、だからってすべてを任せられてしまうと、何の変化も展望もないままに、満足に彼氏役を務めることもなくお役御免になってしまいそうだったのだ。

 だから、わけもなく、余裕もなくてフォローもできないと、自分の発言を下げて自己防衛に走ってしまう。みっともないことこのうえない。

 いつまでもこんなふうにうじうじしているから、京夏のことも兄ちゃんにかっ攫われてしまうのだ。……京夏の想いの話なので、俺にはどうしようもなかったことだろうが。


「それは私も同じだから。ごめんね、自分から我が儘言っておいて」

「我が儘?」


 何かを強請られたような記憶はない。首を傾げた俺に、一稀は微苦笑を浮かべた。


「付き合って、ってかなり我が儘だと思うけど」


 そこに偽装彼氏として、という文言が隠されていることにはすぐに気付いた。

 俺たちは、まだ校舎を出てすらいない。すぐ周りに生徒の姿は見えないけれど、部活動で残っている生徒は多くいる。どこで誰が聞いているか分からないところで、役だとか、偽装だとかを口にするわけにはいかない。それをしてしまったら、この共同戦線がまったくもって何の意味もないものになってしまうからだ。

 だから俺も、言葉に気をつけながら思考を巡らす。一度吟味する必要がある発言は、いつもより少し間を置くことになってしまった。とはいえ、ここまで一稀を相手にしてスムーズに会話を楽しめていた時間など数少ないので、そう問題にもならなかったが。


「それはお互い様じゃないか?」

「そうなの?」


 独りで成立するものではない。そりゃ、提案してきたのは一稀かもしれないが、肯定した以上、身勝手に押し進められたとは思っていなかった。

 彼女が欲しかったから、ちょうどいい。その理由を伝えてもいない俺のほうが、ただの便乗野郎でたちが悪い気さえした。


「俺だって、気持ちがあるから了承したんだけど」


 この場合の気持ちは、思考や理由。そういったものだったが、一稀の言葉選びを見習った。意味深になるだろうかと危惧したが、一稀はきちんと受け取ってくれたようだ。


「本当に?」

「今度、話すよ」


 人目を気にしながらすべての理由を話すのは難しい。不可能ではないが、とどのつまり他の人を忘れるために、という理由になってしまう。それはあまりにも外聞が悪かった。偽装の理由にしても問題がある。

 これが本当の交際ならば、許されやしないだろう。交際を疑うどころか、交際を非難されかねない。


「それじゃ、話す時間を作ろう?」

「そうだな」

「明日からお昼一緒しない?」

「人目があるんじゃないか?」

「中庭とか踊り場とかもありじゃない?」

「なるほど」

「それにお昼じゃなくても放課後もあるでしょ? 一緒に帰らなくていいから、その代わり今日みたいに教室に残るのはどう?」

「……遅くならないか?」

「そこまで私を占領する?」


 調子を取り戻したのか。俺のブレザーを手放した一稀は、一歩引き下がって後ろで手を組んで微笑んだ。まるで漫画の中のヒロインのような仕草だ。一稀がやるとやたらと見映えする。


「君が望むなら」


 相手の言葉に乗っかるような返事しか思い浮かびはしない。しかし、それは口にした途端、キザったらしい響きを持って、我ながら苦笑が拭いきれなかった。


「言うな~薫」

「うるさい」


 ぶっきらぼうな返事が反射で飛び出る。しまった、と思ったが、一稀は気にした様子もなく笑っていた。


「いいね。そういう気軽な調子でいこうよ」

「そっちもな」

「薫よりは畏まってないつもりだけど?」

「俺だってそこまで畏まってるつもりはないけど?」

「でも、まだまだ他人行儀でしょ?」

「それは仕方ないだろ」


 事実、三日前まで他人であったのだから。

 これがまだ、どちらかに一目惚れなどの事情があれば変わったのだろうが、俺たちはそうじゃない。互いに思惑ありきで相手を選んだ。そして、それ以降交流もしてないのだ。他人行儀でしかるべきである。


「そーだね。だから、お昼と放課後一緒にいよう? って言ってるんだけど。ダメ? 迷惑?」


 言い出しっぺとしての罪悪感でもあるのだろうか。迷惑、という瞳には、揺らぎが存在した。

 そんなことは気にしなくてもいいのに。その心を軽くするためにも、俺側の事情をできるだけ早く話しておくべきかもしれない。

 俺はふっと息を吐いて、一稀のそばに寄る。

 繋ぐ? と提案されていた手のひらへ指を伸ばすと、視界の端で一稀の目が見開かれた。自分でも意外だ。

 けれど、ずっと状況を変えたいと思っていた。自分が受け入れたことだ。いつまでも、一稀に主導権を握られているわけにもいかない。疑われ続けては、偽装の意味がなくなる。俺の都合のいい協力相手も失ってしまうのだ。

 烈々とした効果が出ているわけじゃない。俺は未だに家にいる京夏と兄ちゃんの姿にダメージを受けるし、忘れられてもいなかった。自動的に変化するなんて、希望的観測もいいところだ。

 彼女に歩み寄って、自ら変えていく。その気があったから、俺は一稀の案に頷いた。意外性のある行動でも、身の丈に合わない行動でも、取れるだけのものは取る。

 不意に覚悟が決まったことに、おかしくなった。そのおかしさが弾みになって、一稀の手を握りしめることに成功する。握手のときに触れ合ったしっとりとした柔肌。自分がその手を取れるとは思ってもみなかった。


「彼女に誘われて断る彼氏っているの?」


 この世にはいくらだっているのかもしれない。だが、こちらはそこまで冷たい態度を取るつもりはなかった。偽装であるからこそ、半端な態度は疑われる要素となる。

 そんなことを考えたのは後のことで、このときの俺はとにかく目の前にことに専心していた。


「そうだね……薫はいい彼氏だもんね」

「そうだよ。じゃあ、明日から一緒にいよう」


 そこまで言って、俺の精力は尽きる。むず痒さに耐えきれなくなって、手を離すと先んじて歩を再開させた。

 しかし、そんな小細工は一稀の前では何の役にも立たなかったらしい。ぱたたと足音が近付いてきたかと思うと、隣に並んでこちらを見上げてくる。柔らかい笑みが、胸をくすぐった。


「ありがとね、薫」


 一稀にくすぐったさなどはないらしい。代わりにこっちは、どうにも面映ゆくってならなかった。免疫のなさが表立つ。


「どういたしまして」


 といった声はこもっていて不甲斐ない。その照れくささなどを感じ取ったらしい一稀の含み笑いが響いた。




 翌日の昼休みから、早速一緒に食堂へ向かう。

 今まで一緒に食べていた嵩原に断わりを入れると、にまにましながら見送られた。ラブラブだと言われたが、真実はそうではない。苦笑いを堪えきれずにいたが、それもからかわれたがゆえの反応だろうと、嵩原のにやつきは止まらなかった。鬱陶しさは拭えなかったが、偽装工作としては成功しているのだから飲み込むしかない。

 一稀のほうも、彼氏と食べると言ったらからかわれたと言っていた。概ね、嵩原の反応と同じようなものだったらしい。


「効果あったね」


 それは食堂の列に並んでいるときに、耳に吹き込まれた。

 その言葉だけでは、俺たちの事情が知られるものではない。だが、できる限り疑いを招くような言葉は潜めたいのだろう。もしくは、こうして距離の近さを周囲に印象づけるのが目的か。何にせよ、俺は頷くことしかできなかった。

 そうして、二人で向かい合って食堂の一角に席に着く。俺はからあげ定食で、一稀はうどんだ。ぱらぱらとかけている七味の量が、一般よりも多量に見える。


「……辛いの好きなの?」

「そうだよ? 知らなかった」

「初めて知った」

「じゃあ、覚えてて?」


 小首を傾げて願う姿はキュートだった。そして、お互いが知らないことを当然としたうえで、恋人らしく振る舞ってくれているのが分かる。知らないことを人前で確認するとは迂闊だった。気をつけようと頭の隅に留めながら、頷く。


「薫はからあげ好きなの?」


 お返しとばかりに聞かれて、緩く頷いた。


「揚げ物は好きかな」

「男の子だねぇ」

「そういうもんか?」

「カロリーとか気にしないんでしょ?」

「まぁ、確かに……」

「いいなぁ。どうしても気になっちゃうし」

「一稀は気にしなくてもいいだろ」


 底抜けの美人だ。こうしてそばにいると、よく気がつく。周囲の目が一稀に集まっている、と。

 一稀にそんな自覚はないのか。それとも、人目に慣れ果てて気にならなくなっているのか。恐らく、後者だろう。というか、気にしないようにしようと心がけているような気がした。

 何しろ、モテる自覚はあるのだ。人目だって、察している。にもかかわらず、ここまで不動でいられるものかと感心した。そのうえ、一稀は俺の言葉に蝶のような睫毛を合わせている。


「……何?」

「薫がそういうこと言ってくれると思わなかったから」

「どれだけ不甲斐ないと思われてんの?」

「照れ屋なんだと思ってた」

「そんなこともないけど」


 くすぐったさが耐えがたい。その感情もある。だが、なにぶん経験不足というのが大きい。

 一稀のような美人に、どんな言葉をかけたらいいのか分からなかった。俺が思いつくような言葉は、言われ慣れているはずだ。俺が言うことでもない。

 そのような心情を吐露すると、一稀は面白そうに笑った。何がそんなに笑いのツボを刺激したのか分からない。一稀はそんな俺の反応に笑みを深めた。それは主導権を手にしているときのそれで、嫌な予感がする。からかうようなアプローチが来るのではないか、という予兆に身構えた。


「彼氏が褒めてくれるのは他人とは違うよ」


 一聴すれば、とんでもない惚気だ。俺が本当の彼氏なら、これを喜ぶなり、照れるなり、そうした感情が浮かぶのだろう。だが、俺みたいなものは、狼狽えることくらいしかできない。

 一稀は俺がそれでいっぱいなことも理解しているのか。笑いを更に深める。俺は渋さを隠しきれないまま、


「頭に残しておくよ」


 と答えて、彼氏としての役目をどうにかこなした。

 一稀は笑顔で恋人らしい会話を畳んでくれる。そこからは、肩肘の張らない雑談で場を乗り越えた。

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