第二章

歩み寄りの数歩①

 交際はひっそりと始まったが、そのままひっそりとするわけにはいかなかった。

 何より、この交際は一稀の虫回避の策略なのだ。周知させなければ意味がない。周知させないにしろ、一稀は恋人がいることを隠す気がなかった。予想していたよりも、ずっとフランクに周囲に見せつけようとする。自ら認知しておきながら、大役っぷりには渋くならざるを得なかった。

 とはいえ、そこに文句を言えた義理はない。初めから聞いていたことに、男らしくない難癖をつけるつもりはなかった。遠巻きにひそひそされるくらいは、どうということもない。

 ただ、面倒だったのは崇原だ。


「一体何がどうなってそうなったんだ?」


 翌々日にはすっかり蔓延していた噂を聞きつけるや否や、しごく真っ当な問いかけを寄越した。そりゃ、そう思うだろう。自身ですら、一体何がどうなってこうなったのか、と思うことが多々あるのだから。


「……偶然の連なり? みたいな?」


 おかげさまで、馬鹿みたいな説明しかできなかった。曖昧模糊がどうという話ではない。主体性のない惰弱な彼氏として写っただろう。崇原は、実際に胡乱な目をした。


「それで? 野上さんみたいな子と? ついこの間まで、顔と名前が一致してなかったくせに……?」


 要素を口にすればするだけ、謎が深まるのか。崇原はどんどん首の角度が深くなる。


「まぁ、色々あったんだよ」


 色々、というよりも、突拍子もない発想ひとつで事態が転がったというほうが正しい。だが、それを説明するわけにはいかない。彼氏役、とバレてしまえば意味はないのだから、この交際の内実はトップシークレットだ。


「ふーん? 二人だけの秘密ってことか」


 偶然の冗談とは言え、真に迫った感想には苦笑いが零れる。

 崇原はそれを肯定と受け取ったらしい。はいはい、と惚気を聞いて呆れ果てたような声音で会話を畳んだ。

 俺はそれをあえて否定しない。

 一稀と違って、自ら恋人の存在をほのめかすことはしなかったが、疑われていることを受け止めている。消極的対応だろうけれど、これでも噂の補強をするには十分らしい。

 俺と一稀が付き合い出した、という噂は、三日目には学年中に伝播したようだった。一稀の存在に意識を向けている上級生にも伝わり始めていると聞いている。大層なことになったもんだな、と俺はどこか他人事だった。

 そんな調子でいるわけにはいかないとは思っている。けれど、この三日間。俺と一稀の間に、恋人らしい触れ合いはない。三日前に握手を交わした後も、それじゃあ、そういうことで。とすぐさま別れている。それから今日まで、これといった目新しい親密度の更新はなかった。

 朝と放課後。目が合えば挨拶をする程度だ。今まで絶無だったのだから、それでも十分近付いていることが伝わる。ずっとこの調子ってわけにはいかないだろうが、当面はこの調子でいるつもりらしい。

 メッセージでも『無理はしなくていいからね』と気遣いが送られてきていた。それっきり音沙汰もないので、俺はそれに流されている。

 彼女が欲しくて、作れば何かが変わると思っていた。それなりに変わるつもりも、俺にはあったはずだ。想像していることもあった。京夏や兄ちゃんのことをよそへ撥ね除けられるようなことを、と。

 そのわりに、これと言った行動も取らない情けなさが身に染みる。しかし、この交際の主導権は一稀にあった。

 力関係を明確にするほどの時間は過ごしちゃいない。いないが、提案してきたのはあちらで、利用をしたいのもあちらだ。そうなると、こっちは後手に回るしかない。そんなわけで、一稀のペースに流されて、俺は噂の人物になるに留まっていた。

 崇原以外からも、小さな探りを入れられている。それを黙って肯定として受け流していた。自分から自慢などして、やっかみを買いに行くつもりはない。

 そうして迎えた本日の放課後。沈黙を破るかのごとく、一稀から連絡が来た。

 『放課後、待ってて』という詳細不明の連絡であったが、超理解など必要はない。過去、二度。二人きりで顔を見合わせたときと同じように、俺は放課後の教室で時間を潰した。

 そこにふらりと姿を現す一稀に気負いはないし、何度見てもきらめいている。この子が自分の彼女……役などとは、到底信じられなかった。そのくらいに、俺と一稀では釣り合いが取れていない。というのが、周囲の論だ。

 崇原は、意外性や謎めいた関係にしか興味を示さなかった。内心どう思っていたのかは分からないが、少なくともそれ以外の点を面白おかしく突いてきたりはしていない。

 だが、噂のほうは、カップルの位を比べて兼ね合いを測るようなものもある。やっかみとして加味していたことではあったが、こんなにも分かりやすく表面化するものなのかと、いっそ感心していた。


「彼女が現れたんだから、なんか一言くらいないわけ?」


 言いながら、一稀は過去二度と同じように、俺の前に腰を下ろす。椅子の背もたれに向かって、横向きに座るのも同じだ。話すには、ちょうどいいくらいの向き。向き合うまでには到達しない辺りが、実に自分たちの距離感を示している。

 ……過去二度と今回の距離感は恐らく違うであろうから、こんなものは所詮後付けの戯れ言だろうが。


「そうは言われても……」

「自覚湧かない?」

「実際、何もないわけだからな」


 口先だけの報告ばかりをしている。カップルらしいやり取りを外向けに披露しているわけでもない。外向けにもやらないのだから、内々にも何もない。そんな状態で自覚が伴うほど、俺は器用ではなかった。ましてや、経験のないことだ。


「そうなんだよねぇ。だから、私も実感が湧かない」


 一稀は、軽く肩を竦めて同意を示す。

 意外、というほど一稀を知らない。

 だが、言い出した張本人だ。俺が彼氏であることも公に開け放っている。周りからも祝福を受けていたはずだ。それがすべてにおいて歓迎であるかはさておき、恋バナのネタにはなっている。だから、実感はあるものとばかり思っていた。少なくとも、俺よりはいくらか事態の変化を粛々と受け止めている、と。

 しかし、そうではなかったらしい。一稀はそれが困ったことであるかのように、眉を下げていた。


「たった三日で、でも一緒にいないよねとか、仲良しって感じじゃないけどとか、薫の言う通り何もない、今までと何が違うのとかうっさいのが湧いてるほうは実感してるんだけど」

「……三日なら、普通のカップルだって、そんなもんじゃないのか」


 普通のカップルなんて知らない。

 いや、知っているが、幼なじみから発展したカップルは参考にならないだろう。下地があり過ぎる。まぁ、この場合の普通は、本当に付き合っている、ということなので京夏と兄ちゃんのカップルだって例外ではないのだけれど。諸々の関係で深く巡らせたくないカップルだ。


「んー、まぁ、そうなんだけどさ」


 同意するわりには、どこか思案を巡らせている。


「もうちょっと恋人らしくしよっか」

「……何すんの?」


 彼氏役を了承したのだから、否定のしようもない。


「まずは一緒に帰るとこらから?」

「なるほど」


 さらりともたらされた内容に、無謀さは感じられなかった。ハードルも高くない。


「薫の家ってどこ?」

「徒歩十五分」

「マジかぁ」


 一稀はオーバーに俺の机に身を倒してきた。机に広がる髪から、花のような香りが立ち上る。近い、ということに不意に気がついた。


「私、電車だから、一緒に帰るのは難しいね」

「そんなに落ち込むこと?」

「お手軽に印象づけられるのにな、って」

「……駅までなら、いいけど」

「家、駅方面なの?」


 テーブルに腕を組んだ上に顎を乗せて、こちらを見上げてくる。上目遣いの猫目は、くりくりとしていて吸引力があった。


「逆だけど」

「遠回りじゃん」


 むぅと拗ねたような顔を見せる。そんな幼い顔もするのか。意外な気持ちで、その表情を見下ろした。可愛いと素直に思う。美人はどんな表情でもさまになっていた。

 しかし、何を拗ねているのかまったく分からなくて、困惑してしまう。顔に出したつもりはなかったが、一稀は気配を察知したようだ。どうやらかなり、敏感な性質らしい。


「さすがに逆方向に送り届けてもらおうとか図々しいでしょ。役なんだし」


 ……もっと、横暴に進展するのではないかと思っていた。

 一稀を横暴と言っているわけではない。ただ、この提案は突発的で強引だった。同じようにことを進められても仕方がない。俺はそこまで想像したうえで、一稀に答えた。だから、多少の強引さには目を瞑る。覚悟はあったのだ。

 にもかかわらず、こうして心配りをしてもらえて、心が引っ張られた。後出しではあるけれど、俺だってちょうどいいと思ってこの関係を結んだのだ。ちょっとくらい、自ら彼氏らしい言動をしても罰は当たらないだろう。


「でも、彼氏だろ?」

「……面倒じゃない?」


 窺うような上目遣いには、破壊力があった。そうでなくても位置的に上目遣いだったが、様相が違えば受け取る側の気持ちも違う。心の底がさわさわした。


「織り込み済みだよ」

「そこで、そんなことないよって言わないところが薫のいいところだよね」

「それ、褒めてるか?」


 指摘されて、自分でも微妙な反応をしたことを自覚する。一稀の言う通り、ここは建前でも面倒ではないと告げるべきだっただろう。賞賛されるには値しない気がして、苦い笑みが零れた。

 しかし、薫は穏やかな顔つきでいる。本気でいいところだと思っているような顔だ。元々、考えなんて読めない子ではあるけれど、どうやら自分と感性が違うらしい。

 一稀は顔を持ち上げて、頬杖をつく。それまでも近さを感じていたが、こうして顔の位置が近付くと、今まで以上に感じるものだ。


「褒めてるよ? だって、面倒なうえでやってやろうって気持ちでいてくれるんでしょ? 変に平気って顔されるよりも、ずっと嬉しいけど?」

「そういうものか?」

「そうなの。彼女のことなんだから、覚えておいて」


 ふふんと気まぐれな猫のように笑う。なるほど、と返事をするより先に、一稀はしなやかに立ち上がった。


「帰ろ?」


 ふわんと首を傾げられて、俺はなすすべもなく立ち上がる。反抗しようと言う気も削がれた。美人ってのは、そういうものらしい。

 隣に並ぶと、一稀はこちらを見上げて笑う。身長差もあるといえ、随分華奢だ。女子ってこんなに小さかったか、と今更のように思う。

 京夏は女子の中でも小さいので、そういう比較対象にしてこなかった。というよりも、あまりにもそばにいたがゆえに、体格差は当たり前のことになっていたのだ。一稀と並んだことは初めてであるから、切に感じるのであろう。

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