偽りの提案④
どんなに後回しにしても、帰宅しないわけにはいかない。心休まらない自宅というものは疲れる。
陰鬱な気持ちで玄関を跨ぐと、框には小さなローファーが揃えられていた。ほぼ毎日のように、なければいいという願いを抱きながら、落胆を繰り返している。無駄な期待だと分かっていても、割り切れれば苦労はしない。
ため息を零しながら廊下を進んで、リビングに出た。うちは構造上、二階に行くには一度リビングに入らなければならない。どうしたって、二人の姿を見ないわけにはいかないのだ。
ため息程度で済むだけマシだと言い聞かせながら、リビングのドアノブに手をかける。下に引いて開けるノブを下ろして扉を押し込めると、リビングのソファに二人は並んでいた。
「「 おかえりー」」
「……ただいま」
息が合っている、と言うには定番な挨拶だ。そこまで神経質になるものではない。それでも、どうしたって心のひだをざわめかせる。返事が小声になるのも当然だった。
俺はそのまま二人を視界に入れないように、のそのそとリビングを横切る。実際、リビングの真ん中にあるソファを視界に入れないなんてことは無理だ。だが、焦点を合わせないように、風景をぼかして進む。
とはいえ、そうして目を向けずとも、耳が音を拾ってしまうのは避けられない。二人はやっていた勉強会を再開したようだ。内容は至って真面目で、耳を塞ぎたいようなものではない。だが、そうしてしまいたい気持ちが胸に巣くう。
高速で駆け抜けてしまいたい反面、そんな挙動をしていることを悟られたくはない。見栄ばかりが肥大して、自縄自縛で息が苦しい。それでもこうして過ごすしかないのだから、俺はできる限り不自然に見られない速度で、早々と自室に引きこもった。
鞄を投げ置いて、ベッドの上に身体を投げ出す。制服だからなんてことを気にすることもない。瞳に焼きついた二人の姿を追い出すかのごとく瞑目する。
早く彼女を作ろう。
この生活が始まって、何度も思ったことが心に浮かぶ。
そして、瞼の裏に艶やかでシニカルに笑う野上さんの顔が蘇った。欠片も想像していなかった存在に、瞠目する。まさか、こんなふうに思い出すとは思ってもみなかった。
付き合わない? という言葉がぐるぐると頭を巡る。
そんなこと、言われたときはちっとも考えていなかったはずだ。帰り道の最中には、忘れつつあった。それほど、考えてみるに該当しないことだったのだ。
だが、ここに来て、その想像が急速に膨らんでいく。いや、実際に野上さんと並んでいる自分を想像できるわけじゃない。あの野上さんの彼氏なんて、俺には大役過ぎる。その感情は確かに存在していて、それは簡単に拭えるものではない。
しかし、彼女を作りたいという願いを優先したとき、都合のいいことだという気持ちが確かに湧き上がってくる。
「考えてみてよ、か」
考えてみるだけ。それくらいならいいのではないか。天秤がそちらに傾く。リビングにいる二人を見たのが良くなかったのかもしれない。
崇原が言っていた通り、やっかみを受けることもあるだろう。面倒な輩を遠ざけたいと計略を巡らせるくらいなのだ。昼休みよりも今のほうが、崇原の言葉をイメージすることができる。そして、それが煩わしいこともだ。野上さんの表情を思い返せば、嫌気を察することも容易い。そんな体験をしたいとは思わない。
だが、同時に、同じくらいに願っている。今すぐ、この惨めで息苦しい状態から抜け出してしまいたいと。
そりゃ、どんな形であれ彼女ができればすべてが好転すると思っているわけじゃない。俺はそんなに思い切りがよくない。状況さえ変えれば感情が追いつくとは言いがたかった。野上さんの提案に飲み込まれてしまっていたのが、いい例だ。
けれど、他にどうにかできる術があるとも思えない。状況を変えなければ、俺はずっとこんな調子で高校生活を無駄に過ごすことになるだろう。恨み節、とまでは言わない。だが、こんな鬱屈した感情を抱えたまま、高校生活を送りたくはなかった。
これは、絶好のチャンスだ。
女の子に声をかけて、距離を縮めて、付き合う。そこまでいくのに、どれほどの時間と手間がかかるのか。それを考えれば、こんなにラッキーな境遇はない。
それに、手順を踏んだとしても、意図して彼女を作るというのは女の子を手篭めにするのとそう変わりがないだろう。気持ちがないままに弄ぼうなんて、そこまで非道な行いをするつもりはない。だが、結果を得ることありきの関係になる。それは胸を張れるかどうか怪しい倫理観だ。
自分の中では納得も覚悟もしているが、女の子をそれに巻き込むと思えば、痛む良心だってあった。だからこそ、ここまで積極的な行動が取れていなかったのかもしれない。
そう思えば、野上さんの提案は、確かに飛んで火に入る夏の虫だった。ちょうどいい、と告げられた声が鮮烈に蘇って、輝きを放つ。
ちょうどいい。
鈴の音のような声が、こびりついて離れなかった。
放課後の教室に、夕日が差し込んでいる。昨日よりも遅い時間なのは、完全に人目がなくなるのを待ったからだった。
いくらクラスメイトであったとしても、野上さんに声をかけるのは簡単じゃない。だから、グルチャから崇原の見せてくれた野上さんのアイコンを探して、個人チャットを送った。
届くかどうかは賭けだったが、スタンプが返ってきたので、こうして待つのも無駄骨にならないだろう。仮に来なかったとしても、どうせ暇を潰すのだ。俺に不都合はない。
そうして、野上さんは昨日と同じようにひょいっと姿を現した。飄々と教室に入ってきて、俺の席の前に腰を下ろす。昨日の焼き増しだ。
燦々と降り注ぐオレンジ色の夕日が、野上さんのきらめきを倍増させていた。ルックスがシチュエーションに嵌まり過ぎている。
「考えてくれた?」
前置きも枕もない。率直さには、苦笑いが浮かぶ。でも、すぐに本題に入ってくれるのはこちらとしても本望だ。
「じゃなきゃ、呼び出さないよ」
「今日一日、ドキドキしちゃった」
恋のときめきとは別物であるのは、はっきりしている。それでも、胸元を押さえてはにかまれるとむず痒い気持ちになった。何より、胸の膨らみが強調されたように目に留まるのがいただけない。
俺はそっと目を逸らした。野上さんは、こちらの心情などお見通しなのか。お構いなしなのか。くすりと緩い笑みを零すと、
「それで、結果は?」
と首を傾げた。
キャラメル色が流れて、ふわりと揺れる。嫌味のない爽やかな甘さは、香水だろうか。それとも、彼女本人の香りだろうか。
「彼氏、役ってことでいいんだよな?」
「佐竹くんの本命ができるまでのね」
「それじゃあ、付き合おう」
ひゅうと口笛が吹かれる。
「ありがとう、佐竹くん……じゃなくて、薫くん?」
「どういたしまして、一稀さん」
「さんづけは他人行儀じゃない?」
不満そうに頬を膨らませる。彼氏ができた歓喜などは微塵もない。平常運転、なのだろう。俺はまだ、野上さんの平常すらも知らないので、確認のしようもないが。野上さんは、すぐに不満の形を解くと、無垢な笑みをたたえた。
「一稀でいいよ」
「……じゃあ、こっちも薫でいい」
野上さん……一稀は、納得したようにひとつ相槌を寄越す。それから、こちらに手を差し出してきた。
「よろしく」
「……ああ」
我ながら、もう少しまともな返事はなかったものかと思う。ぶっきらぼうになってしまった俺に、一稀はことさらに笑い声を立てた。その気まずさを払拭するかのように、一稀の握手に応えて場を濁す。
初めて触れた白い指先は、華奢で滑らかで、力を込めれば握り潰してしまいそうなほど繊細だった。
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