第5話 勾玉

 求厭ぐえんが立ち上がると、空気が変わった。

 異相の男である上に、全身が喪服のような漆黒のスーツだ。

 斜視のため、視線がどこにあるのか判然としない表情で、あたりを睥睨へいげいしながら通路を歩みだした。衆目を集めた彼は帽子を脱いで、胸に掲げて恭しく一礼をして、再び目深に冠った。

「失礼ながら、あれは大変なものです。普通の方には手には負えないでしょうね。実は、自分は陰陽道を多少はかじっております。お力にはなれるかと」

 運転士が更に血の気を引かせた。

 乗客を更に危険に晒すのではないかと思ったようだ。

「あれは異物などではないんですか」

「はい、残念ながら。自分も先を急ぎます。今ならまだ排除は可能かと思いますよ。ただし・・」と一旦口を切り、最後通告のように言った。

「それも時間との勝負です」

 ほっとした安堵と緊迫の声が交錯して、運転士の心は千々に乱れた。それを後押ししたのが猪首の中年男の感情的な声だ。

「運転手さん、その方に頼むのがよろしいず!」

 その言葉を追認するように、若い母親が大きくかぶりを振っている。

「あのお願いしても・・」

「では失礼」と扉に手をかざしただけで、それがスッと無音で開いた。扉に手を触れても、開閉釦を押したわけではない。あり得ないことを成している。

 動物の臓器の中から立ち上るような臭気が、外から流れてくる。

 求厭は車台から地面にひょいと飛び降りた。

 ぬちゃっという粘質的な音がする。何かの水疱が破裂して汁が飛散したような音もする。その扉はまた無音で閉じられてしまった。

 求厭は頓着とんちゃくせずに車体の前方を睨み上げた。

 胸の直前に両掌で印を結び、ぶつぶつと真言を詠唱している。その真言は聞いたこともない旋律を奏でている。恐らくは密教系の真言だと思う。

 密教というものは宗教の枠をはみ出している。

 仏教は人間の身を持ちながら、仏に覚醒することを目指した宗教だという。

 そして仏に覚醒できれば、生々しい欲望や憎悪、妬心が解消されるという。

 むしろ仏教は当時の精神性界を解き明かした、当時の先端科学に近い。その仏教の正の側面は顕教とも呼ばれ、古来から魂を鎮めてきている。

 そしてこの世の理をいえば、光と影は断ち切れないように必ず負の裏面が存在する。その裏面を担っているのが、密教であったそうだ。

 その昔平安の都では、鬼や悪霊、それに魍魎が都大路を闊歩していた。そして密教は蓄積された呪法を分類して、呪詛や加持祈祷を行なっていたという。およそ宗教とは思えない、人間の醜汚を掬い上げた科学であろう。

 密教の技を身につけたものを、陰陽師という。

 その陰陽師などと悪びれず名乗る男は、滑るように歩いていく。

 奇妙なことが起こっていた。

 真言を唱える彼を拒絶しているのか、浄化されているのか。 磁力を失った砂鉄がぱらぱらと落ちるように、その行手の闇がトンネルの壁面から剥ぎ取られて、コンクリ壁が見えてくる。

 車内に残る運転士も、母娘も中年男も、前方の窓ガラスから食い入るように見つめている。最初からボックス席に座ったままのは私だけだった。

 やがて。

 遠くに、馬蹄形の光が見えてきた。

 どうやら出口まで貫通したようだ。

 わあっと細やかな歓声が上がった。


 こめかみに疼痛があった。

 それは色葉からのコールサインのようなものだ。電話をとるような意識をその痛みに向けると、ふっと意識が浮かび上がってきた。白濁した水面に何かが浮かんで来るような印象だ。

《六花姉、よかった。ようやく通じた。意識がもう暫く離れていてね。JRで出掛けているのはわかったので様子だけを見ていたのだけど。途中で完全に遮断されたので、ちょっとキツめに思念波を送っていたの》

《やだわ。そこまで見えているの。もう子供じゃないんだから》

《もう解決したみたいね。流石だね》

《今回は私じゃないわ・・また別の陰陽師よ》

《へえ。味方になれそう?》

 それはこれからよね、と思念波を送ったところで、求厭が席へ戻ってきた。

 この奇矯な男への賞賛の念が集中していた。

 運転士が運行の再開をアナウンスで告げた。

 汽笛を鳴らし、ゆらりと列車が動き出した。

 走行音に埋没するように、口火を切った。

「何をやったの」

「まあ身内みたいなものですから、ここは引いて頂きましたよ」

「あれは何なの。意識体でもなければ無機物でもない。生気というものがまるでなかったわ」

「あれはですね。質量のある闇といいますか」

「重さのある闇なの」

「はい、重さがあるのに見えない影です」

「そもそも視覚は物体からの反射光を捉えているものですね。しかし可視光線を完全に吸収する闇は見えません。ですがその闇が質量を持っている。質量があれば物体をすっぽりと包むことができる。それがこの列車を呑み込んでいたのです」

「喰べてしまったの?」

 悪霊も魍魎も私にすれば餌でしかない。

「そんな無粋なことは致しませんよ。まあ換言すれば、近い存在なんですよ、自分に。それに原因は貴女の持ち物ですよ。ここに六龍珠をお持ちでしょう?」

 勾玉のことか、と不意に気づいた。

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