第4話 勾玉

 列車が動き出した。

 右手に厳冬期の水を湛えた、鈍色にびいろの姫川が流れている。

 白い雪原に灌木が並んでいる。葉を落とし切って裸になり、細い枝が黒々として寒々しい。そしてたまに見かける常緑樹が、棘のような枝葉に雪を乗せて黒褐色に屹立している。その姿は死神の外套のようだ。

 河川敷の対岸に、へばりつくように人家の並びが、雪の冠を被って並んでいる。山の稜線は濃い灰色になって、厚い雲が頭頂部を覆っている。雪がそこに積もり行くのがわかる。

 鉄路が彼方の雪原へ繋がっていて、架線の積雪が台形に抉られて、その狭間を列車は走り始めている。 

 その男は、魍魎には見えなかった。

 とはいえ眼前の男は人間ではない。

 何か別の正体を隠し持つ生き物だ。

 喪服のような黒いスーツで、ネクタイも墨を練り込んだような色だ。

 そしてシャツだけが目を貫くような輝きのある純白だ。

 それ以外は、全ての色素を飲み込んだ色。

 視覚を拒否する色。

 光の反射がない色。

 この男に似合う色。

 打てど響かぬ、音声であればそんな色。

 頬骨が飛び出した寂寥せきりょうの顔をしている。

 その肌には老人斑が所々にあるが、高齢とは思えない。帽子からはみ出した髪は白髪混じりの蓬髪で、短く刈り込んである。

 能面のような感情の混濁とした笑みを貼り付けている。

 その斜視の眼が何を捉えているのか、判然とはしない。

「どうも人でも、いいえ生物であったこともなさそうね」

「ご慧眼です。流石ですな」

「貴方からはね、生命の匂いがしないの。私の素性はお判りよね。生命の精気を喰べて命を繋いできたの。その気配が貴方にはないのよ」

「まあ、良いじゃないですか。それでも自分はここにいるのです。そしてご察しの通りで陰陽師で生業を立てているのも同じです」

 列車は姫川を陸橋で渡り、風上へ向かい雪原をひた走る。時折、雪崩や雪庇を受け止めるスノーシェードがある。屋根のある半トンネルみたいなもので、格子越しに対岸はそれでも見える。続いて汽笛を鳴らして、トンネルに呑み込まれていく。

 北小谷で乗降口を開けて、頭頂部の薄い中年男が乗車してきた。

 この路線では自動で扉は開閉しない。手動で開けるか、開閉釦を押すかの二択になる。車内の室温を保つためだ。

 これでボックス席の私と謎の男と、でっぷりと太った猪首の中年男、それに幼女を連れた若めの女性と乗客は5人になった。

 彼らはお互いに長席に向かい合って座っている。母親が私に視線を送ってくるのは、こちらへ移りたいのだと思う。私の正体不明の連れの後ろ姿を見て、諦めているようだ。

 北小谷を発車して再び、雪白から深黒の単調な色相の中を進んでいく。

 汽笛が鳴りトンネルに潜り込んでいく。遠く車窓を小首を伸ばして見ていると、車両一杯の狭い隧道の内壁を前照灯が照らしている。車内光の灯りでコンクリ壁が暗がりに後方へ飛ばされていくのが見える。場所によっては地下水が染み出しているようで、濡れた箇所がある。

「私は六花、鳴神六花よ」

「自分は名がありません。ですが師の字を許されております」  

「自分は求厭ぐえんと申す」

「ぐえん?」

「そう、求めるのをもしくは求められるのを厭うと書いて」

「僧名ね」

「然り」

 つまり敵対する相手、鬼や悪霊や魍魎の類ではなくということか。

「ふうん、ご商売は上手くいっているの」

「まあ、喰べていけるくらいには。食事など無粋なことは致しませんが」

 長大なトンネルだな、とぼんやりと考えていた。

 単線であるために一列車の空間だけを穿たれている小規模なものだ。息詰まるような圧縮されたセメント壁がどこまでも、どこまでも綿々と続く。いずれは前方の方向に卵型の出口が輝きながら接近していくはずだった。

 車内にどよめきが走った。

 汽笛が悲鳴にも聞こえた。

 室内灯が激しく明滅した。

 車外は漆黒の闇が覆った。

 運転士が緊急停止をする。

 途端に壁が見えなくなる。

「これは貴方の仕業なの」

「いいえ。影響はしたでしょうが。そもそもは貴女でしょうね。自分がここに居るというのも」

 若い母親が叫び声を上げる。子供も釣られて声を上げるが、その中には恐怖心は無い。事態を面白がる気配が折り畳まれている。

 そして猪首の男は禿げ上がった頭頂部を抱えている。

 そこは狭いトンネルですらない。

 凄まじい山岳の質量を感じる地底の、狭苦しい羊腸のトンネルの筈だが、列車の前照灯が届かない程の奇妙な空間がある。

 停止した列車から、運転士が出てきて一礼した。

「お客さま、お急ぎのところ申し訳ございません。当列車は真那板山トンネルを走行中でしたが、前方に異物が確認されました。当列車は安全のため暫く停止させて頂きます。恐れ入りますが、暫くお時間を頂戴いたします」

 彼は大型のハンドライトを手にしている。

「これから現場確認に参ります。ご不安でしょうがそのままお待ち下さいませ」

 油汗を流しながら、彼の舌がマニュアルのまま踊っていた。そこには真実がないのは誰もが了解している。

「異物じゃないじゃろ。ここはトンネルじゃないんか」と切迫した、野太い声がする。

 求厭が忍び笑いを洩らして、ゆらりと立ち上がった。

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