第3話 勾玉

 車窓に流れる風景を漫然と見ていた。

 線路の両岸は新雪で覆われていて、清浄な空気の中を二両編成の車両がひた走る。静々と細雪が舞っている。車両に座る乗客数は両手で数える程度だろう。

 そそり立つ峡谷は、世界を白黒のモノトーンに変えて天地を結ぶ。その裾野にちらほらと人家の灯が燈っている。その何れもが等しく粉雪でかすんでいる。

 こととん、こととんと鉄路が鳴る。

 くらいトンネルが轟音を撒き散らす。

 このように乗り物に乗るのも久しいなとひとり思った。

 車内の暖房は効いていても寒々しいのだろうか。

 乗客の話し声も少なく、客室内が広大に思えた。

 中途の駅で扉が開いて、僅かばかりの乗客が入れ替わる。それでもポーカーの手札を変える程度の数だった。

 空席だらけだというのに、数少ないボックス席の私の正面に、和服の老婆が座ってきた。背筋のしゃんと伸びた彼女は、見事な白髪を後頭部に纏めていて、小紋柄の正絹に和装羽織を防寒のために引っ掛けていた。

 電車が発車してしばらくすると、素朴な微笑を満面にして、巾着からみかんを取り出して私に勧めた。

 差し出されてきたみかんは電車内の温風に触れて、しっとりと肌に汗をかいていた。それだけで車外の気温が想像できる。「ありがとうございます」と私も笑顔を返した。

 それを好々爺の表情で眺めながら、彼女もひとつを取り出して誘うように皮を剥き始めた。ひとつまみをぱくりと口に含んでから訊いてきた。

「どこまで行きなさるかや?」

「糸魚川まで」

「ああ。ええとこだら。こちらには観光で?」

「いえ。地元なんですけど。出不精してしまっていて・・・ちょっと海が見たいと思ってしまって。朝から乗り込んできたんです」 海が見たくなったのは事実だった。

 暫くは信州から出ていない暮らしをしてきていた。

 先日に甘利助教と話をしていて、脳裏に大坂の海が見えた。それも江戸初期の樽廻船たるかいせんが居並ぶ中島川の河口の光景だ。もう失われて久しいそれが、痛いほどに胸を掻き立てた。とはいえ同じ場所に立つと落胆しかないだろう。

 一番近い海といえば信州からは日本海だと思った。

 この大糸線は、かつては塩を運ぶ街道に造られた。

 信州は塩の入手に苦しんだ逸話が数多く残ってる。

 謙信の、敵に塩を送るという格言にまで昇華した。

 北アルプスの懐を走り抜ける路線は、全てが白銀の中で荘厳なものだ。命の綱である路線は小刻みに駅があり、何度も停車しては空気の入れ替えのようにドアを開き、静寂の中で停車する。

 徒然に私もそのみかんの皮を剥き、口に入れた。

 雪女の味覚ではそれは水分としての認識でしかない。だが老婆の眉を曇らせたくはなかった。彼女は花が開かんばかりの笑顔を見せてくれた。

「ええ塩梅だら、これもお持ちになるとええ」

と梅干しの入った小瓶を渡してきたので、流石に遠慮をしたが手に持たされてしまった。

 この路線は南小谷で乗り換えになる。

 老婆は丁寧に挨拶をして席を立ち、私は彼女を支えるようにボックス席をでた。

 今日の荷物は大きめのディパックにしている。

 その中には例の勾玉と、白鞘と巫女扇を入れておいた。あとは下着と化粧ポーチなど、最低限だけのものは入れておいた。終日の気晴らしの予定だが、ひょっとすると思いつきで宿泊するかも知れないと思ったからだ。

 巫女扇を入れておいたのは、もし道中に警官に職務質問でもあって、白鞘を見咎められた場合、自分は巫女でお祓いの道具だと説明をするためだ。

 老婆は腰を折り、紺色の羽織を翻して寒風の中に紛れていった。


 乗継ぎは電化されていない車両だった。

 ディーゼルエンジンが車体を軽く振動させていた。

 今度は一両編成で、恐らく乗客も片手に余る人数だろうと想像した通りで、ひとつしかないボックス席についた。

 発車を知らせるベルが停車場に響いた。

 肩に粉雪を乗せたまま、そのベルに押されているように、駆け込んできた男がいた。目深に帽子を被っていて、漆黒のスーツ姿に身を固めていた。

 身長は目につくほど高い。

 ひょろりとした薄い体をしていた。

 その彼が車内を一瞥して、つかつかと歩み寄り、私の正面に腰を据えた。

 反射的に嫌だなと思った。

 先刻までの数時間の旅情が害されている気がした。

 じっと凝視している眼に、意外な程に劣情はない。

 そして彼の周囲に瘴気めいた、微かな匂いがした。

「何か、ご用かしら」と尋ねてみた。

「いや、失礼しました。貴女のような御方は珍しくて、ついつい見惚れてしまいました」と悪びれない。

「そう、有難う」

「雪の精のようですね」

 斜視の眸の底で、青魚が跳ねたような光が煌めいた。

「へえ、それはそれは祝着だわ」

「しかも数百年を経ているとお見受けする」

 じわりと丹田に力を篭める。これは久方ぶりにお仲間に同席したようだ。しかも私に気取られることなく接近してきた。

「貴方こそかなりのものね。よくそこまで人に化けれることよ」 

 にやり、と笑ったが。

 その唇が吊り上がり、耳まで裂けそうになっている。

「ご同業みたいね」と溜息のように言った。

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