第3話

 二度の交流会に参加し、通常の営業も継続したが、支社内で求められるほどの成果にはつながっていなかった。

 所長も支社長も、顔を合わせるたびに「まだか、まだか……」と、ジリジリと迫ってくる。「成果が出ない者は、石ころと価値は変わらない。営業マンは、企業の利益に貢献してこそ、値打ちがある。君は、本当に努力しているのか?」

 所長の口から出てくる鋭い言葉を制止すると、支社長は

「成果は、すぐに出ない場合がある。どうや、手ごたえはあるのか?」と、穏やかな口調で尋ねた。

「先週、ご指示があった通り、人脈作りから始めています。自分なりに努力はしているので、近いうちに成果がでるのを予想しています」

「箭内君、自分なりというのは、組織の基準に適合しない場合がある。分かっているよな?」

 所長の問いかけは、相変わらず手厳しかった。

 成果主義……言葉は立派だが、何を基準にしたどんな主義なのか――と、私は漠然とイメージし――成果主義には、逃げ場所が用意されていない――と、結論付けた。

 一週間が経過した。ホテルの従業員には、私の顔を覚えている者もいて、私がロビーを通り抜けようとすると、こちらを見て品良く会釈してくれた。

 レストランには、弁護士の姿がなかった。弁護士は交流会の席で、法律相談を持ち掛けられると即座に断り、事務所に来るように毎回告げていた。頻繁に同じ繰り返しをするのが煩わしくなったのが理由だ。

 座席は毎回くじ引きで決めるので、かえって偏るケースがある。

 また、私は小堀と同じテーブルになった。

「また、箭内君、あんたと一緒かいな」

「不服ですか? 不服なら」と、私が朝永の方を向いて立ち上がろうとすると、小堀は

「まあ、座っとき。俺はええんやけどな。箭内君、あんたはどうや?」

「私は、問題ないです」

 小堀によると、弁護士が来なくなるのは理解できるという。

「そら、考えてみれば分かるやろ。弁護士も、商売やで……。三十分で五千円受け取れる報酬を逃して、誰がこんなところで、無料で法律相談に乗る? 俺が箭内に教えている話も、本来ならコンサル料を貰わないと、割りが合わん。君やから、サービスしている」

 小堀は、笑いながらまくし立てた。

 蟹江さんが、大きな声に驚いて「どうしたの?」と、小堀に問いかけた。

「お婆ちゃん、勘弁してや。有能なビジネスマンが、後進の育成に尽力しているとこやからな。びっくりせんと、黙っといてや」

 せっかちな小堀は、のんびりした感覚の蟹江さんとは合わない。

 豆川は、蟹江さんをからかうのが楽しいように、話しかけては爆笑している。

「お婆ちゃん、猫を虐めたらあかんよ」

「誰が、こんな可愛い猫を虐めるのよ」

 弥生は、豆川が何か言うと口を挟み、蟹江さんが俗悪な言葉の犠牲にならないように、注意していた。

 私には、豆川の独善的な毒舌が不愉快に思えた。――人におもねり他を貶めることで、自分の立場だけを良くする姿勢を潔しとしない――そういう心境なら理解できる。だが、豆川は、思いつきを言葉にして、嗜虐的な快感を楽しんでいた。私は、それに酷く痛みを感じていた。

 私はやっと、交流会で麗奈と同じテーブル席になったのを素直に喜んだ。――辛抱していれば、幸運が巡ってくるのは本当のことだ――と、思っていた。

 麗奈は、物憂げな眼差しと、輪郭のはっきりとした唇、印象の薄い鼻の形が魅力的で、話し方や声の調子は、人懐っこい本質を表していた。

 朝永とも、久しぶりに同じテーブルになった。

 ただ一つ、豆川が同じグループにいるのが気になった。豆川の言動だけは、要警戒だと思った。交流会では、秘かに豆川を直言居士と呼んで、嫌う者が何人もいた。

 私は、麗奈と仲良くなる名案が浮かばないかと、額を軽くこすってから、ようやく口を開いた。

「お綺麗ですね。よく言われるでしょう? 遠くから見ていても、目立ちますよ」

 私は、自分が口にした愚直で、駆け引きも、技巧もない表現に、自分自身で驚いていた。

 麗奈は、戸惑いを隠せない様子で、目を白黒させたあとで黙ってしまった。

 朝永も、ギョッとして、次の展開に備えるかのように身構えていた。

 豆川は、無遠慮に「麗奈さん、AV女優に似た人がいるのやけど、言われたことありますやろ」と、さも面白そうに問いかけた。

 私の愚直な言葉の炎に、豆川の無神経な態度が油を注ぐ展開になる――と、予感した。

「おいおい」と、朝永は慌てた。

「ないです」麗奈は、きっぱりと告げた。

 豆川が名前を出した女優は、週刊誌の巻頭グラビアでも、何度も見かけていた。私の記憶の内の風貌と比較してみても、似ているとは思えない。

「ああ、私も思い出しました。豆川さんの言うのは、あの人気女優ですよね。でも、似ているでしょうか?」私は、豆川を非難する気がせず、麗奈を傷つけたくもなかった。

「私も、友人と旅行した時に、ホテルでAVを見たことがあります。AV女優の人って、皆さんスタイルが良くて、魅力的ですよね」

 朝永は、咳払いをすると、唐突に自分の音楽論、文学論を滔々と話し始めた。朝永は「昭和三十年代の日本に魅力を感じている」と心情を伝えた。

 朝永は、豆川がトイレに席を立った時に自説を長々と話した理由を――機転を利かして、豆川が麗奈に妙な話をしないように、話題を変えた――と、明かした。

 それから、何回も麗奈と同じテーブル席になり、三回連続で隣同士にもなった。

 豆川が原因で、麗奈の私に対するイメージは、酷く悪いものだと予想していた。麗奈は、そんなことはなかったかのように、愛想よく私に接してくれた。

 麗奈は「付属幼稚園からスタートして、親が決めたレールの上を走ってきた人生だったので、それなりに充実していたけど、男の子と友達になる機会がなかったの」と、素直に現状を明かした。

 私は美しい麗奈を見るたびに、思いを募らせていたが、誘って断られることを恐れていた。さらに、あっさりと願いが実現してしまうのを恐れる、真逆の矛盾した感情まで芽生えていた。私は自分で、自分の複雑な感情を扱いきれなかった。

 夜になり、私はベッドに横になって想像した。麗奈の愛くるしい表情を思うと、寝付けなかった。私が触れるものには、皆、色彩があり、触感があり、匂いがある。私は布団の中で、麗奈の柔らかな雰囲気に憧憬を抱き、イメージが大きく膨らんで行くのを想起していた。それでいて、距離を縮められないもどかしさに身もだえた。

 セールスマンにとって、高いコミュニケーションスキルは命脈と言っていい。恋愛でも、それは同じに思えた。私は、自分の内気な性分を憎んだ。

       ※

 久しぶりに、大学時代の先輩に電話した。先輩は、たまたま経営する建築士事務所にいた。

「お前が、その子を思う気持ちは分かる。でもな……、そこまで、理想化されてみろ。その子にしてみれば、お前といるのが気詰まりで、居心地が悪くなる。まずは、お前の憧れる姫君と、対等な友達になることやな」

 私は、自分の弱気を責めて躊躇いながらも、麗奈に連絡を取り雑談した。先輩の歯に衣着せぬ忠告は、具体性があって有難かった。私は、恋愛に関して、自分を客観視できていなかったことに気づかされた。麗奈の名刺に記されている携帯電話番号をプッシュすると、明るい声で電話口に出て、私の他愛ない話につき合ってくれた。

 なかでも、豆川のオチャラケ口調や、蟹江さんが猫の話をするときの様子を真似ると、麗奈は大笑いした。何か一つ口真似することが、麗奈と電話で話すときの約束事になった。

 また、金曜日になり交流会に参加した。

 これまで、何度も異業種交流会に参加してきたが、営業成果は何もなく――ただの暇つぶしにしかならないのではないか――と、疑い始めていた。しかし、今やめると麗奈との関係を断たれるのではないかと思い、彼女に会うのを目的に参加していた。

「考現学という言葉は、知っているかな?」と唐突に、小堀が私に尋ねた。

「ええ、まあ、考古学の手法を用いて、現代を洞察する……ことですね」

「君なら、パチンコ店に入った時どの台に座る?」

「週刊誌で読んだことがあります。パチンコ台の平行に並ぶ天釘の内、中央の二本の釘が外側に向いている台が狙い目なので、そういう台に座ります」

「ええ線や……、けどな。もっと、色々ある。例えば、店の経営者の立場で考えて見る。外から、客を呼び込みたいやろ? すると、どうする? 表から良く見える位置に、出玉の多い台を置くやろ」

「そういえば、そうかも知れません」

「パチンコ台の灰皿に残された吸い殻も参考になるな。同じ銘柄で、同じ口紅の色のタバコの吸い殻が何本もあって、それぞれが短い物なら、その台は見込みありやな」

「どういうことでしょう?」

「口紅があるのは、直前に座っていたのが女やな。女は男に比べると、タバコを短くなるまで吸わないやろ。それが、夢中になってタバコを吸って、長い時間席を温めているのは、その台が出玉の多い台やいうことやと、俺は考現学的に分析している」

「それが正解なら、見事な分析ですね」

「セールスでも、同じや。目の前の客に見込みがあるかは、表情や仕草で見破り見極める。勿論、言葉のやりとりも大事やで……。しかし、観察眼に磨きをかけんと、いずれは伸び悩むよ。当たり前のこっちゃ」

「小堀さんは、経営コンサルタントの先生じゃないですか? セールスとは無縁でしょ? ある意味、羨ましいですよ」

「アホやなあ、知らんのかいな? 中小企業診断士は、顧問先の新規開拓で忙しい。不景気が続くと、顧問契約を突然、切られる。顧問先も、弾数が多い方が勝ちや。自分を売り込むセールスなしに、成り立たない。そういう世界や。ほら、あそこにいる弁護士の先生も同じやと思うな」

 小堀は顎で、弁護士が座る席を示した。

 弁護士は見るからに若く、襟に着けたバッジも金ぴかに輝いていた。

 二人の話に、豆川が割り込んできた。

「セールスマンは、魔除けの鬼瓦で退散を命じられるような魔物ですわ。迂闊に飛び込みセールスをやると、住人から塩を撒かれる」

「君は、どんな営業をしている?」

「電話でアポを取った相手先に、訪問販売しています」

「調子は、どうや?」

「今月は、ノルマに届かないので、バーター契約を持ち掛けています」

「まあ、あんまり、ええこっちゃないな」

「言うてみれば、等価交換ですわ」と嘯くと、豆川は愉快そうに笑った。

 学究肌でもなく、将来小説家を目指している訳でもない豆川が、百科事典を3セットも購入し、見返りに羽毛布団を買ってもらったと白状した。

「箭内さんのすすめる終身保険に入るさかい、布団一組どうやろ?」豆川は、無遠慮に目の前のグラスを脇にどけた。

 私は、バーター取引をニュースで見た違法な循環取引のイメージと結び付けていたため、気乗りがしなかった。さらに、習慣化すると負担が重く、営業成績が良くなっても、暮らし向きは苦しくなると考えていた。

「すぐには、決められない。一応、考えておくよ」

「そんな、気を持たせないでよ。なっ、ほんまに頼みますわ」

「豆川君、あんまり無茶言うたらあかん。俺からも、言うとくわ」

 麗奈は小堀がセールスをパチンコに例える話をしている時は、身を乗り出して聞いていたが、豆川が話し出すと黙って俯き、何か考え事をしている風に見えた。麗奈は時折、顔を上げると弱々しい笑みを浮かべていた。

 交流会では、原則的に席の移動を禁じていたが、それにもかかわらず、セールスマンたちは売り込みのために、自分の席を離れて強引な販売や勧誘を仕掛けてくるケースがあった。禁止規定はあるものの、罰則規定がないのが原因と思われた。

 そのときも、投資会社の取締役を名乗る男が席に来て、根掘り葉掘りと質問し、私の機嫌を損ねたのに気づかない様子で、強引に勧誘し始めた。

「パンフレットや資料に、目を通してもらえますか? あなたの資産形成に役立つプランだと思います。必ず目を通してください」

 私は声を出しかけた――いかなる資料にも目を通すつもりはないし、それが原因でこの男との関係が悪化しても構わない気持ちでいた。しかし、一言も口にできなかった。

 椅子が後ろに引かれる音を耳にして、私はそちらに目をやった。麗奈はハンドバッグを左腕に引っ掛けると、立ち上がっていた。麗奈は、私に対する申し訳なさそうな表情をしていたが、次の瞬間には投資会社の取締役に対する苛立ちを顔に表していた。

 私は、目の前の男の強引なアプローチに、侮辱されたような感情を覚えていた。麗奈も鋭い勘で、男の本質を見抜いている――と、想像できた。一つだけ分かったのは、麗奈が私と同じ時に同じ感情を共有できる繊細さを持ち合わせている――という事実だ。

 そういう小さな印象のかけらがまとまり、心の表面に浮き上がった途端、私は席を蹴って麗奈の後を追って、外に出た。

「中の雰囲気が悪かったので、俺も出て来た」

「少し、歩こうか?」

 私は、麗奈と並んで駅まで歩き、途中まで電車の中でも話した。

 それからの一週間は、小堀の忠告に従い、一本でも多く、一件でも多くと考えて営業努力を重ねた。

 営業所長は、成約がない日が続くと「まだか、まだか」と、せっついた。足を棒にして歩き、ノベルティグッズをプレゼントした見込み客から、無碍もなく断られると、何が原因なのか――話の組み立てや説明が悪かったのか、保険商品と顧客ニーズが適合しなかったのか、タイミングが合わなかったのか、私の人柄が信用されなかったのか――と、考えて、自分を責める日が続いた。

 また、一週間が経過した。

 異業種交流会では、売れないお笑い芸人を自称する横倉凡太と席が隣り合わせになった。

 横倉は、テレビ番組にも三度だけ出演経験があり、Youtubeでお笑いネタを公開していると告げたが、レストランにいる誰も、横倉凡太の存在を知らなかった。

 横倉は、芸名と携帯電話番号だけを記した手製の名刺を渡すと

「凡ちゃんと、呼んでください」と、明るい口調で話した。

「凡ちゃんは、いくつ?」

「ああ、僕ですか? 僕は二つです」

「年齢のことだよ」

「ああ、年のことですか? コーヒーに入れる角砂糖の数やと、思うてました。年は、当年とって十二歳、十年とらなきゃ二十二歳……、こう見えても、二十二歳の若者です」

 横倉は私より三歳年下だが、風貌はもっと幼く見えた。

 私が笑うと、横倉は僅かに首を傾げて

「箭内さんは、神戸の出身やのに、何で……、標準語で話すのですか?」と、愚直に尋ねた。

「保険会社のような金融機関は、他の業界以上に信用を第一にしている。研修の時に『まいど、おおきに』『どないですか』『たのんまっせ』のような関西弁は、禁止されている。だから、普段でも営業の時にボロが出ないように、標準語で話している」

 横浜出身の麗奈は、神戸出身で標準語を話す私に親近感を抱いていると告白し、逆に、ほとんどの関西人が、地元訛りで話すのを非難した。

「関西ってさあ、藤原京、平城京、長岡京、平安京のように、都が長くあったから、プライドの高い人が多いのでしょうね。今でも、自分たちを都人だと思っているのよ。だから、標準語で話そうとしない。きっと、人を見下しているのだと思う」

「麗奈さん、それは心外ですわ。私ら、関西人は誰に対しても、話すときに親しみを込めているのですわ。それを生意気に思うやなんて、殺生でっせ」

――大阪を中心とした関西経済圏では、商業資本が集中し大消費地を擁するため、昔から地元企業に就職する人が多い。そういう背景で、義務教育の現場に立つ教師も、出稼ぎ労働者などの方言による就労時の弊害を考慮する必要がないので、標準語で授業を進めない。必然的に、関西では標準語で話さなくなる――理屈っぽい内容になったものの、麗奈に関西弁にまつわる風聞を具体的に否定すると、素直に納得してくれた。

「ほな、箭内さん、小さい子供が『どないでっか』『おおきに』『ほなさいなら』と言わない理由は何でしょうか?」

「それは、知らない。分かるか……どうかも、含めてだけど、一応は調べておくよ」

「おおきに、おおきに、ほな、頼みます。けど、無理しないでください」

 横倉のダジャレは、あまり面白くなかったが、周囲を和やかにする言葉のパワーがあった。

「凡ちゃんには、負けるよ」

 私は、横倉の話を聞いているうちに、まだまだやっていけそうな気がしてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る