第2話

 私は、周囲のすすめに従って渋々ながら、異業種交流会に参加した。

 異業種交流会「春の海」の会場は、地下鉄「堺筋本町駅」から一駅目の「北浜駅」の近くのホテルの一階にあるレストランで、毎回行われている。

 インターネットで詳しく調べると、交流会の会員数が、四月で百名を突破していた。

 関西では中堅クラスの芸術大学の朝永栄作教授が主催者となっている。氏名を検索すると、ビジネス書『人生を変える雑談力』の著者であるのが分かった。書店では品切れだったため、通販で注文して届いた本の帯には、十万部突破と印刷されていた。

 私が勤める生命保険会社のビルも、異業種交流会の会場もいずれも、道頓堀川沿いにあった。道頓堀川は、大阪市内の東横堀川から木津川に合流する全長2.7キロメートルの長さがあり、慶長十七年から開削され、元和元年に完成した人工の河川である。

 当時の商人・安井道頓が、自然の川を運河として利用するために整備している。江戸時代から芝居小屋などの娯楽施設が立ち並び、繁栄して現在に至っている。

 道頓堀川は、大阪湾の干満によって、水位が変化する。私が夕方頃、川の傍を歩いているときに海風が吹くと潮の臭気がした。それは、魚市場に漂う匂いに似ていた。もっというと、くたびれた時の私の自己イメージに似ていた。それでいて、心のどこかで――都会の街並みを彩るのに似つかわしくない――と、いつも思いながら歩いていた。

 異業種交流会は、毎週金曜日の午前十一時三十分から午後一時まで行われる。交流会場に近づいたときに、感じたのはベーカリーショップから流れ出てくる焼き立てパンの食欲をそそる香気だった。

 会場に指定されているホテルの一階ロビーでは、満開の桜を演出しているため、正面玄関や通路に配置された桜の木の傍を通る時に、繊細な芳香が漂っているのを感じた。

 レストランの中は広く、大きなテーブルと百席の椅子が配置されている。

 国内の大半のレストランの例に漏れず、店内での喫煙は禁止されていた。店には、花の芳香や、淹れたてのコーヒー、焼きたてのパンの豊かな異香で満ちていた。しかし、いちばん強く感じたのは、皮肉にも誰かが肌につけたフレグランスの匂いだった。複数の香水のアロマが混ざり、悪趣味な毒々しさを感じさせた。

――本来なら人の魅力を引き出すパフュームの馨しさが、食物の馥郁とした香りの邪魔をしている――私は、そう思いながら首を回し、出席者の顔ぶれを確認した。

 レストランに着くと、奥の席にいて手招きしている年輩の男性のところに行き、挨拶した。

 男性は、立ち上がると私よりも先に、頭を下げて名刺を差し出した。名刺には、朝永栄作の氏名と肩書が記されていた。

 私が「箭内祐大」と印刷された社用の名刺を差し出すと、朝永は

「やないゆうだい君で……、間違いないかな? 箭内というと……、ご先祖は東北の武士か、何かだと思うね」と、関心を示した。

 朝永は「今日の君の席はそこだ」と、指で示した。明確なルールはないが、全員が好き勝手に座ると、個別のグループができて、異業種交流会が目標とする人脈が形成できないのが理由だ。

 朝永の席の前には、大皿に食べかけのハンバーグ、レタス、フライドポテト、ニンジン、コーンが並び、サイドにポタージュスープの入ったカップがあった。

「ここには、仕事の合間を縫って来るビジネスマンが大半だ。席に着いたらすぐにでも、料理を注文するといい」

 私は、朝永に促されて、サンドイッチのセットを注文した。サンドイッチは、レタスのサクサクとした歯ごたえが心地よく、マスタードの効き目で、舌を刺激する味わいが楽しめた。

「箭内君は、ここで食事をしたことがあるの?」

「いいえ、どうしてですか?」

「ここのサンドイッチは、人気ナンバー1のメニューだ。勘がいいね」

「レストランでサンドイッチが、人気ナンバー1なんて珍しいですね」

「ランチタイムのメニューだからだよ。私もたまに、サンドイッチをオーダーしている」

 朝永はレタス、ニンジン、ポテトを食べ終えると、スープに手をつけた。

「大阪府下には東京都の三倍を超す、百五十六ものスクランブル交差点がある。通勤時間帯は、大勢の人が行き交う。いつも、当然のように見知らぬ者同士が、何の疑問もなく通り過ぎていく。君はそういう人たちが、どこでどんな暮らしをして、何に悩み、誰と共にいるのか、想像したことがあるかな?」

「いいえ、そんな風には想像したことがありません」

「ところが、私はそれが気になって、仕方なくなった。各種の統計数値などで人の動向調査がでている。だから、大勢の人の属性は分かる。しかし、それだけでは、人間の本質が分からない気がした」

「なるほど、そんなきっかけで始めた交流会ですか?」

「初めは、私と高校教師、市役所職員、警察官などの公務員が参加していたが、徐々にセールスマンが増えて、売り込み攻勢を仕掛けられて、離脱していった」

「何故、公務員が異業種交流会に大勢、参加していたのですか?」

「世間一般のビジネスマンとの交流で、見識を深めようと考えたのだね。私と動機は、同じだった。今年の一月にスタートして、四月現在では、大半がセールス関連のメンバーになっている」

――私の目的も「人脈を広げてビジネスチャンスを拡大する」だ。営業所長に伝えたときに「目標・目的は、具体的なものでないといけない。君の言う人脈は、営業成果に直結するか。長期目標だけを重視すると、短期・中期の目標の邪魔になるケースがある。ちゃんとしたスケジュールで臨んでいるか?」と、訝しそうに問われていた――。

「ところで……」と、朝永は話題を私のことに切り替えた。

「箭内君の周辺で、何か変わった出来事はなかったか?」

「先週、野良犬を見つけました」急な質問に戸惑い、咄嗟に思いついた言葉を口にした。

「それで、野良犬の何に、君は興味を感じたのかな?」

「雑種の痩せた犬でした。なので、行く末が気になりました。飼い主が見つからないと思いました。何かこう……、見ていて悲しくなりました」

「へえ、珍しいね。野良猫はよく見かけるのに、野良犬はあまり見かけないね」

 羽毛布団のセールスマン豆川諒一と、損保セールスの野島弥生は、同じテーブルにいて二人で何か話していたが、身体の向きを変えると、こちらの会話に参加した。

「野良犬を見かけないのは、保健所や動物愛護センターが保護しているからだよ」弥生が意見を述べると、豆川は

「ペットショップの売れ残りは、繁殖用に戻されるか、酷いと殺処分される」と、告げた。

「繁殖用だと、まだ良いですよね」弥生が気遣うように、意見を伝えた。

「中国では長い間、犬食文化があり、犬も食べられていたのや。犬や猫を食べるのを政府が禁止する方針を立てたのは、最近のことやで……」

「酷い話だね」弥生は青褪めながら、頷いた。

「食習慣の違いによるものだよ」

 豆川は私の表情を横目に見て、尚も話し続けた。

「ジンギスカンは、大群を率いて遠征した時に、メスの羊の群れを連れて行軍したんや。それで、人間の二大本能を満たしたちゅう話や」

 私は、豆川の口から出る言葉の酷薄さに、戦慄と嫌悪を覚えると、僅かな寒気を感じた。それでいて、私は機嫌を損ねまい、残酷な話をさせまいと、同調的に相槌を打ち、豆川の意識を変えようとした。

「でも……、人間は、身近にいるペットの動物の存在に癒される」私の声には、力がこもらず、豆川を批判するだけの勢いがなかった。

「まだ、動物残酷物語は続きがある。骨折したサラブレッドは、馬刺しにされて、人間様の胃袋に収まるのが宿命や。俺たちも、ヘタな努力をしても、金持ちの養分になるだけやな」

「少なくとも、豆川君の話は……、食事のタイミングで言うのに適切ではないと思う。悪いが、少しは周りを気遣って欲しい」

 朝永がたしなめると、豆川は不満気な表情をしながら、トイレに行くのを告げて席を立った。

 時計を見た。十一時四十五分だ。交流会に参加したメンバーの大半は、食事を終えてコーヒーを飲んでいた。コーヒーを混ぜる時のカチャカチャと鳴る音が、あちらこちらで響いていた。

 既に食事を終える十一時三十分ころから、席を立ち職場や営業先に向かう者もいた。

 朝永は、話題を変えた。

「君はプロとして、スキルアップのために、どんな努力をしている?」

「『セールス外交に不可能はない』『販売は断られた時から始まる』『セールスバイブル』などのセールス関連書籍を何度も読み返しています。それと、朝永さんの著書の『人生を変える雑談力』を最近、読みました」

「君はつくづく、本の虫だね。最初から、私と同類のような気がしていた」

「朝永さんは、大学の先生だから、セールス関連本は読まないですよね」

 朝永は、思慮深く答えた。「セールス関連ではないが……、ビジネス書なら、若いころにデール・カーネギーの『道は開ける』と、クラウド・ブリストルの『信念の魔術』をタイトルに惹かれて読んだことがある。この二冊は今でも時折、読み返すよ。書斎でコーヒーカップを片手に読んでいると、旧友と再会したような気分になる。二冊とも良い本だ」

「私も、読んでみます。あとで、本屋に寄ろうと思います」

「私も、読んでみたいです。箭内さんの言っていた本も、損保セールスにも、役立ちそうだし……」と、弥生は手帳を開くと忙しくメモをつけた。

 正午になり散会した。

 正直なところ、豆川の毒舌に戸惑いはしたものの――交流会に参加して良かった――と、私は思った。予想以上に「意識高い系」の参加者が多く、彼らの話す内容を面白いと受け止めていた。

 また、金曜日になり、私は期待を込めて交流会に出席した。

 今回は名刺を補充し、四十枚携行して臨んだ。前回、交流会に参加した時には、勝手が分からず、名刺交換をあまりしていなかった。同じテーブル席の四人と名刺交換し自己紹介したものの、他のメンバーが何処の誰なのか皆目、見当がつかないままだ。

 会員数百人を擁する交流会だが、出席者は毎回、三十五名前後で推移している。

 私はレストランの入り口近くに立ち、交流会の参加者かどうか確かめると、自分から名刺を差し出した。私の手元には三十枚の名刺が残った。

 西条麗奈は、名前と携帯電話の番号だけを記している名刺を差し出した。

「失礼ですが……、あなたのご職業は?」

 麗奈は、私の目をじっと見ると「ファッションモデルをしているの」と、答えた。麗奈は出会った瞬間に人目を引いた。

 私は、麗奈と同席になるのを秘かに期待していた。

 この日の交流会では、経営コンサルタントの小堀園雄と、蟹江さんという独居老人と同席になった。六人掛けのテーブルで、他の三人はこちらの話に参加せず、一つのテーブルが事実上は二チームに分かれていた。

 蟹江さんは、不思議な人だ。「蟹江」が苗字なのか、本人の名前なのか、知るものは交流会の中にはいない。蟹江さんは、耳が遠く、受け答えがおかしくなるタイミングがあるかと思うと、理路整然と自説を開陳することがあった。趣味は、料理、手芸、園芸、芝居の鑑賞、骨董品の収集と多岐に亘っている。

 なかでもお気に入りは、ペットの二匹の猫の話である。

「この子たちがね。また、私に甘えて、おねだりするから、ペットフードを買ってあげたの」

 蟹江さんには、別居中の家族がいるのに、孫の写真ではなく、愛おしそうに猫の写真に目を細めながら、自慢する姿は痛々しく思えた。

 蟹江さんの興味の及ぶ範囲や、感情の変化、もっというと何を目的にして毎回、交流会に参加しているのか、不明だった。質問するたびに、蟹江さんは話題を変えてしまう。

 私は適当に相槌を打ちながら、視線を走らせ麗奈の方を盗み見た。麗奈とは、何度も視線が合った。

 小堀園雄は、無遠慮な話し方をする風変わりな男だ。

 小堀は、蟹江さんとの話が噛み合わないので時折、不機嫌そうに咳払いした。蟹江さんは、それでも無頓着に、猫の話や近所の住人との諍いを滔々と話し続ける。

 私は二人が険悪なムードにならないか、ハラハラした。同じテーブルの三人は、蟹江さんに話しかけられるのを小堀以上に露骨に避けている様子だ。

 蟹江さんは、おにぎり二個の簡素な昼食を終え、話し疲れたのか居眠りを始めた。

「婆さん、こんなうるさいとこで、よう……眠れるなあ」と、小堀は呆れた顔で、私に同意を求めた。

「…………」

 私は、返す言葉が見当たらず、小堀の顔色を窺った。

 小堀は、自分のギャンブルに対する思い入れの強さを話し、ビジネスの成功も失敗も――ある意味でギャンブルと同様だ――と、主張した。

「男の人生は、旨いもの食べて、ええ酒を飲んで、ええ女と一緒におる時間を増やすのが一番や。あとは、競馬とマージャンができれば言うことなしや」

「そういうものでしょうか? そこまで、割り切れるものでしょうか?」

「ビジネスは、大きな金が動くギャンブルや。それだけに、慎重さが求められるわけや。遊びやない分だけ、真剣勝負になる。そういう……、過酷な世界で、持ちこたえられるかどうかが、分かれ目になる。だけどな、うまく行くと、ギャンブルより儲けが大きいし、喜びも大きいわけや」

 私は小堀のように、享楽的な生き方を賛美する勇気がなく、話を聞くたびに胸の奥に微かな痛みが走った。露骨な言い回しで、物を言うのに含羞を感じ、同意を求められると困惑と抵抗感が生じていた。反面、自然の感情の発露のままに言葉にできる小堀の性分が羨ましかった。

 レストランでは、一斉に話し出して「ワーッ」と、声が聞こえにくくなるタイミングがあるかと思うと、逆に沈黙が訪れるタイミングもあった。沈黙はランチタイムのコミュニケーションなので、全員が箸を取るタイミングと、一致していた。

 蟹江さんは目を醒ますと、腕時計を見て「えーっ、もうこんな時間かいな」と、周囲を見回した。戸惑う様子が滑稽に見えたので、私も小堀も、他の三人も愉快そうに笑った。

「人の様子見て、笑わんといて」蟹江さんは不機嫌そうに「こんな、お婆ちゃんでも、プライド言うものがある」と、むくれた。

「蟹江さん、あんたはやっぱり存在感が大きいな。大物やわ」

 皮肉なことに、周囲の笑いは一層大きくなった。

 離れた席から、こちらを見ていた麗奈の表情も明るくなった。

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