第8話

 正月を迎え、鷹司産業ビルの一階ホールには、大きな門松が配置された。ビルの前の長く続く舗道を歩いていると、萌依は急に笑いがこみあげてきた。悩みながらも、昨年は――サンタ・クロースとともに、子どもたちのクリスマスの夢を実現したい――という、願いを実現していた事実に気づいて、感情が噴出していた。

 初出社の四日は各階に臼と杵が配られ、入社一年目の社員に杵を持たせ、一人一人餅をつかせた。段取りはすべて、世話好きの冬村が担当し、鷹司産業の総務・庶務・経理・人事の事務方の社員たちが対応していた。

 サンタ・クロース・カンパニーの年頭所感で、萌依は「サンタ宅配便の事業は子どもたちの望みを叶える堂々たる事業やと自信をもつように」と伝えた。

 サンタ宅配便を走らせた後で、サンタ・クロース村を訪れた経験が役立ち、多くの気づきがあった。フィンランドには年末年始の五日間だけの旅だったが、四人には大きな教訓を残した。それは、サンタ・クロースと同様に――顧客に希望を与え続ける存在でないといけない――という、鷹司産業グループの企業理念を思い出させた。

 そのため、萌依はクリスマスの贈り物には、演出が必要だ――と、確信していた。子どもたちの夢を育てるためには、たった一年でサンタ宅配便をやめるわけにはいかなかった。

 むしろ、事業を拡大して日本全国の子どもたちに愛の贈り物を届けるお手伝いをしたい――その思いは強くなる一方だった。

 冬村は、事のほか機嫌が悪そうに見えた。萌依たちがフィンランドに旅行中に連絡がつかなかったので、不満はいっそうつのっていた。サンタ宅配便事業の継続に良からぬムードが漂っていたので、冬村は先行きを案じてもいた。

 人の陶酔は長くは続かず、喜びの時間の後にはあたりまえの日常が待っている。しかし、それは退屈な時間ではなく、次につながる希望のために使われる大切な時間だった。

 フィンランド旅行で学んだ経験の一つとしていえるのは、実現できる取り組みとできない取り組みの区別である。トナカイの橇を走らせるのは無理でも、サラブレッドの引く橇なら走らせられる。だが、雪深く沈みながらも輝き続ける、あのフィンランドのラップランド地方の景観は京都では再現できなかった。

 そんな状況を思いながら萌依は椅子を回し、デスクに背を向けて部屋の中を見回した。

 鷹司産業やサンタ・クロース・カンパニーの事務所には、数万通のファン・レターが届けられていた。萌依は、日本を代表する若手女社長として、メディアでもてはやされていた。

 萌依と航大がサンタ・クロース・カンパニーの集合机のところに来ると、フィンランド旅行の間、留守居役をしていた冬村が、社長室に来て「えらいことですわ。萌依社長」と、青ざめた顔で口を開いた。

 入社以来、営業成績が抜群の南郷は、社内での発言力が大きく、財務諸表を読める計数感覚の持ち主だが……、冬村の提示した資料に目を通すと「これやったら、今年のクリスマスは無理ですわ。はっきり、数字に出ていますよ」と、失望したように告げた。

「なんとか、ならへんのやろか?」

 冬村の顔から、突然のごとく笑い皺が消えた。「萌依社長には、大変申し上げにくいのですが……、かなり経費を切り詰めても、今年度の決算は一千万円を超える赤字が確定しそうですわ。このままでは、グループ本体の役員連中の反対を押し切って、事業を継続するのは困難が予想されますのや。どないした、ものでしょう?」

 事態は、萌依が思ったよりも複雑に展開した。資材調達費、人件費、広告宣伝費、交際費などを合計すると、当初の予算を大幅に上回っていた。冬村に再三、忠告を受けていたにもかかわらず、サンタ・クロース・カンパニー単体での諸経費が嵩み、会長派が提示した初年度からの黒字達成は困難な実態が判明した。

「そこを何とかするしかない。とにかく、頑張りましょう」

「うーん、次の年度にしたかて、経費を削られるだけ削って、配達エリアを市外に拡大して、営業先を新規開拓しても……。どうやろなあ。ほんまに、大分、根性がいりまっせ。覚悟をしてもらわなあかんでしょうな」

「覚悟はできているわよ」

「会長や、青野さんを説得できますか?」

「それは、私に任せといてください。何とかするから、くれぐれも、踏ん張ってね」

 萌依は内心で、失望や落胆だけではなく、悲嘆と苦痛に打ちのめされていた。結果的には、会長一派の指摘した通りの無謀な計画に過ぎなかったのか――と考えると、怒りの感情にまでつながった。

「くそっ」と、航大は短く怒気を発すると、デスクをドンと叩いた。「サンタ・クロース・カンパニーの次年度以降の見込みは絶望的やな。冬村、南郷の両役員が鷹司産業に復帰できるようにするつもりや。萌依は、もしも……」

 一瞬、萌依は眉を顰め、右手の人差し指で口の下を触ると、今度は思い直したように明るい表情をして「まあ、済んだことは悩んでもしゃあないでしょ。次年度に向けて、対策を練っていくしかないやろね」と告げた。

「すんません。ほんまにすんません。わしのせいですわ。予算は削れるだけ、削らなあかんし……。さっきも言うたと通り、これから相当の覚悟が必要になりまっせ」

 萌依はフィンランド旅行に同伴しなかった冬村のために一席設けた。酒の飲めない冬村だったが、懐石料理が好みに合うのはリサーチしていた。

 タクシーが向かっていたのは、祇園の料亭であり、ビルの一階玄関横の壁を板張りにし、引き戸を格子状にして、丸い提灯を掲げている店であった。ビルは五階建ての鉄筋コンクリート造の一階部分だが、店の周囲の建物は、風情のある古民家ばかりだった。料亭の中に入ると、指定された一室は、畳が敷かれ、床の間には縁起物の掛け軸がかけられ、青磁の風格ある壺が置かれていた。

 輪島塗の小鉢や皿には、汁物、煮物、香の物、焼き魚がのせられ、徳利には甘みのある上等の日本酒が入れられていた。ミニチュアの七輪に網をのせて、クルマエビやあわびを焼くと、食欲をそそる匂いが室内に漂った。お猪口で三杯目の日本酒に口をつけながら、萌依はフィンランドで見てきたものについて説明した。

 日本酒は萌依と航大が飲み、冬村は料理に箸をつけながら、いつものようにウーロン茶を飲んだ。冬村は「今回はごちそうになりました」と前置きし「これからは、サンタ・クロース・カンパニーの経費では、落とせんようになりまっせ」と、釘を刺した。

 翌日は、三人で資料室に籠り、サンタ・クロース・カンパニーを清算すべきか、今後に活路を見出せるかについて、何度も検討が重ねられた。萌依たちは、現状の細かな内容について話し合った。

 萌依は素早く決算書類に目を通すと、頭の中で暗算をしていた。冬村が算出した数字は、あくまでも現時点での数値だ。正確な損失額は、どれだけのものになるのか。サンタ・クロース・カンパニーが存続する限り、今後も人件費などの固定費はかかり続ける。

 冬村は老眼鏡をかけると、書類に目を通した。読み終えるとメガネを外し、しゃんとした目つきになり、しっかりとした声で話し始めた。

「あきませんな。何度、計算しても、鷹司産業の足を引っ張る」

「グループのお荷物になるようなら、私も社長を退任して、会社の清算手続きに入るのに賛成です」

「子どもの時分からの二人の念願やったのになあ。呆気ないよなあ」

「何とか、ならへんの?」

「難しいですなあ」

 萌依の目には涙が浮かんでいたが、俯きながら話していた冬村は様子に気づかず「サンタ宅配便の事業は中止にして、サンタ・クロース・カンパニーを何か、他のものにせなあきませんな。頭の痛い話ですわ」と、ボソッと告げた。

 航大は、萌依の様子を見て、冬村の最後の言葉を打ち消すような身振りをした。

「今になって悩むのは、時間の無駄やな。これから、どうするかや」航大は、気休めにも似た言葉を発した。

 萌依が社長を務めるサンタ・クロース株式会社の初年度決算は、二千万円の赤字となった。鷹司産業本社の役員会議では、議題に上り萌依は窮地に立たされた。

 会議が終わり、鷹司産業ビルの上階から窓の近くに立つと、萌依は暮れ行く景色を見ていた。広告看板に明かりが灯されると、肩をすぼめて通りを歩く人の群れ、路上を通行する無数のクルマ、歩道の上で手をつないで歩くカップルたちの姿があった。

 サンタ・クロース・カンパニーはマスコミから多くの注目を集めていたので、萌依は記者会見をする方針を決めた。

 記者会見で萌依は、サンタ・クロース・カンパニーの業績など苦しい実情を率直に話した。子どもたちのキュートな笑顔に触れた素敵な体験。社員たちの頑張りや、事業をスタートするのに直面した苦労などを正直に伝えた。

「子どもたちに、大きな希望を与えるのをテーマに発足し、サンタ宅配便で京都市内の子どもたちにプレゼントを届けてきました。マスコミの皆さんにも、取り上げていただき、大きな反響につながったのを感謝します。ですが……、子どもたちに約束した通り、今後も宅配便でサンタ・クロースの手からプレゼントを渡せるか、見通しが立たなくなってきました。社員一丸となって、粉骨砕身、努力しますが、わが社の厳しい実情も知っていただきたいと思います」

 萌依が話し終えると記者たちは、誰からともなく拍手し始め「頑張ってえー」「そんなことでくじけるな」と、口々に声援を贈り始めた。公平中立をスタンスとする関係者であっても、心温まる話に胸を撃たれ応援したくなっているのが、萌依の胸にも反響として伝わっていた。

 記者会見を終えて、帰宅した萌依はコートを脱がずにじっと考えていた。子どもたちの笑顔と、それに反して大人たちの無理解をイメージした。彼女は無意識のうちに、事態が最悪の展開につながるのを恐れていた。強力な抵抗を前にして、事業はまだ頓挫する可能性があった。あるいは、ずるずると不採算事業を引きずり、鷹司産業グループのお荷物になる――と、想像した。

 夜遅く、萌依が目を覚ますと、書斎からカチャカチャとキーボードを叩く音が響き、その後プリンターから印刷する音が聞こえた。部屋の中には航大がいて、サンタ宅配便の資料を見ながら次年度の企画書の修正案を作成していた。長い時間、航大はデスクの前で座っていたのが理解できた。航大はそれまで俯いて、パソコン画面を見ていたが萌依が話しかけると顔を上げた。

「ああ、やっと終わった」

「どう? 大分、改善されそう?」

「まあな、お前の企画書を俺なりに直しておいた」

 萌依は印刷された資料を手に取ると「これで、役員連中も黙ってくれればええのやけど」と、嘆息した。

「なかなか、そうはいかんかもしれへんけどな。後は運を天に任せるだけやな」

「夢は夢でしかないのかもしれへんね」

 兄の航大は幼い時分から、図書館が大好きで週末には書架の高木に見下ろされ、本の山の中に籠り、あらゆる書籍に目を通していた。お転婆な自分と違い、勉強家の兄のひたむきな姿に、萌依はある種の感動を覚えた経験があった。

       ※

 行き詰ったときは、華音が実務に役立つヒントをくれる場合があった。それだけでなく、萌依は、聞き上手な華音といると自分を取り戻せる気がしていた。

 華音と喫茶店で打ち合わせをしていると、通りを会長一派が歩いていたのに気づいた。萌依は新聞紙を広げると、目を通すふりをした。華音もそれを察したのか、奥の方に顔を向けていた。

「取引先と株主の両方の支援をもらえたらええのにね」

「華音ちゃんの言う通りやわ。けど、それがでけへんから、苦労しているのよ」

 萌依は、株主の意向に反発するわけにはいかず、子どもたちの希望も叶えたかった。

「鷹司さん、わしはあなたの心意気に打たれたのですわ」「どうか事業を継続して欲しい」

「不足なものがあれば、当社で提供しましょう」と、取引先各社は支援を申し出た。

――何か見落としがある――と萌依は思った。株主の反発は、サンタ・クロース・カンパニーが鷹司産業のお荷物になるという懸念にあった。収益性の高い事業にできれば、文句の言いようがないのは明白だ。

 すぐには、思い付きそうになかったが、萌依は華音がまたヒントをくれたのに感謝したくなっていた。

 航大は本棚からフィンランドの人気作家マウリ・クンナスの絵本『サンタクロースと小人たち』を抜き出すと、萌依に手渡した。サンタ・クロースの物語には、温もりがあり、夢と希望があり、愛があった。

 テーブルの上には、ワインのボトルが置いてあった。航大は栓を開け、グラスに入れると飲み始めた。

「こんな日は、酒だけが救いになる気がするわ」

「ほんまに、お酒が癒してくれる苦労もあると思う」

「ほな、飲もうか?」

 鷹司産業は、航大が社長に就任してから新機軸を打ち出し、ことごとく事業を軌道に乗せていた。経済誌にも取り上げられ絶賛されていた。

――自分と航大とでは、所詮、人間としての器量の大きさが違うのか? 自分は無類のお人好しで、経営者に不向きな人間に過ぎないのか?――自身を顧みて疑うと、萌依は情けない気分になっていた。

 向かい合う二人の視線が一瞬、ぶつかり合い、萌依はそっと目をそむけた。目から涙が出てきて頬に伝うのが分かった。航大から「サンタ宅配便事業のすべてをお前に任せる」と、告げられていたのを萌依は思い出した。

       ※

 風が吹きつけると、ブラインドを下した窓がカタカタと鳴り続けた。今、開けると傍若無人の乱暴者が部屋の中に、踊りこんで来そうな気がした。家の中には航大がいて別の部屋で休んでいたが、部屋へ侵入する目論見が果たせないと知ると、ヒュウヒュウと呪いの歌声を聞かせ、この家の住人を不安がらせようとしているかに思えた。

 成果につながらない調査を続けているうちに、萌依のうちに育んでいた楽観的な見方は揺らぎ始めていた。逆に、企業経営は簡単なものではない――という、思いが日増しに強くなっていた。

 経営者としての無能ぶりが露わになり、きまりの悪い思いをしながら出社するのは気が重くなった。萌依は、何かに活路を見つけなければ、自分を支えた周りの人間にも申し訳が立たないと考えていた。そのため、鋭い視線を浴びて、みっともない気分になろうとも、踏ん張るしかなかった。

 社長室に来ると、青野は分厚い書類を抱えて、満足げな笑みとともに、そのファイルを叩いて示した。

「これが現実や。そう、甘いものやないな」

 萌依はファイルを手にすると、サンタ宅配便に対する絶望的な検証がなされていた。

「自信過剰のアマチュアで、生意気なだけのお転婆娘さんに何ができるやろね」と青野は嘯いた。

 皮肉屋の青野常務は「サンタ・クロースの物語は、子どもたちに誤った認識を与え、大人になるのを阻害するだけですわ。百害あって一利なし。それをやるのやったら、四月八日の花まつりに、甘茶でかっぽれをやりましょうや」と、茶化した。

 萌依は青野から顔を背けると「ほんまに、夢のない人やわ」と、呆れ顔で呟いた。

「会長は、サンタ宅配便の事業は、すべて萌依さんに任せる言うてくれています。起案した航大社長にも責任の一端はありますやろ。性根を据えて、取り組んでください」青野は吐き捨てるように告げると、社長室を出て行った。

 航大を筆頭とする社長派の役員たちは、普段はクルマを自分で運転し、酒席の後ではタクシーを利用していた。そのため、役員用の社用車の運転手たちは、余程の危急の用がないと利用されなかった。

 ただ単に、社長派の役員は心優しく、運転手を長時間、外で待たせるのに抵抗を感じていただけだった。それが裏目となり、運転手たちは会長派の役員が自分たちを利用しないと、首筋が寒くなると恐れ、彼らの機嫌を損なうまいとしていた。

 クルマを置いていたパーキング・ビルに向かいながら、萌依はつぶやいた――サンタ宅配便の運営は、すべてお前に任せる、言うのやね。二人に責任を負わせると、自分は泥を被らないでも済むと思うているのやろな――。

 所詮、私と兄だけがリスクを負わされて、会長は頬かむりをしようと目論んでいる。そう思うと、萌依は無性に腹が立っていた。幼い頃に心優しく接していた力哉の姿を思い浮かべながら――必ず、何か理由がある。それは何なのか――と萌依は考えていた。

 次の日、萌依は航大と一緒に、いつもより早く家を出た。ポルシェを駐車場に停めて、鷹司産業ビルまで歩くと、ピエロの格好をした体つきの大きな男が七人入口の前に陣取っていた。萌依は――朝早く、何のイベントが始まるのかな――と首を傾げた。

 七人のピエロは、いずれも黄色のアフロ・ヘア―の上にカラフルな三角帽子を被り、仮面をつけ手袋をはめ、大きな水色の蝶ネクタイをつけ、虹色のジャケットを羽織り、紅白のストライプの入ったズボン姿だ。靴も全員が先の丸く膨らんだドタ靴を履いていた。

 ピエロが恐怖感をもたらすのは、笑顔の仮面の後ろにどんな表情が隠れているのか分からないのにも一因があった。七人のピエロは、攻撃的な衝動に突き動かされたように身構えると、二人の行く手を遮った。

 そこに、遅れてきた南郷は、事態が呑み込めず目を白黒させてぼうっと立っていた。航大が顔を向けると、南郷は「どういう話ですか? えらい物々しい、いやな雰囲気ですな」と問いかけた。

「俺にも、さっぱり様子が分からない。こうなりゃあ、正面突破しかない」

 萌依はビルや周辺に目を配り、他に誰か潜んでいないか、奇妙な動きがないかを細かくチェックした。

 航大は構わず、ピエロの間を強行突破しようと前に出た。ガタイの大きい七人のピエロに入り込めるスキはなく、航大はドンと跳ね飛ばされて、尻もちをついた。

 南郷は飛び上がり、植樹の並ぶ歩道の前をうろうろと行き来し始めた。

 こいつ、ひっぱたいてやろうか――と、萌依は心の中で思っていた。イエス・キリストは『マタイの福音書』の中で「七の七十倍までも赦しなさい」と教えている。クリスマスは、イエスの降誕祭で、サンタ・クロースは守護聖人と言っても良かった。

 イエスの尊い言葉と、自制心がなければ、萌依はピエロの胸倉をつかんで殴りつけているところだった。

 ピエロたちの妨害工作の背後には、青野がいるのは容易に想像できた。青野が指図し、会長派の社員を巻き込んで大胆な行動に出たのが分かる。それは、サンタ宅配便事業の存続を本気で妨害しようとする意図を示していた。容認すれば、萌依たちの必死の努力は空転するだけだった。

「えらい、用意周到やな」

「ピエロの正体が分かれば、後ろで糸を引く者の正体も、分かるのやけどね」

「敵もさるものやな」

 ピエロの一人を見て、社用車の運転手の一人と同じ首の横に目立つほくろがあるのを萌依は見逃さなかった。萌依は、奇々怪々なショーを演出している黒幕たちの思惑を否定し、怒鳴りつけてやりたい気分だった。

 萌依はネコ科の猛獣のようにしなやかな動きで、ピエロたちの間を素早く通り抜けると、ビルの自動ドアの前に立った。しかし、いつもなら音もなくスーツと開く扉が微動もしなかった。

 正面玄関は内側から鍵がかけられ、机や椅子がバリケードに使われていた。様子を見ていた航大が「正面突破はむりそうやな」と意見すると、南郷が「あっ」と声に出しビルの隙間を見上げた。

 南郷は、自分の唐突な思い付きを否定し「いくらなんでも、忍者の真似をして、あんなところまでは、登れへんよなあ」と、嘆息していた。

「やってみな、分からへんでしょう?」萌依は、気丈な面構えで告げた。

「へっ? 私が登らなあかんのですか?」

「あなたは、ここにいて……。私が登ってなんとかするわ」

 ビルとビルの壁の間には、細長い隙間がある。萌依は二つのビルの壁面に、両手両足を広げて吸盤のようにくっつけ、ヒョイヒョイと難なく登った。しばらくすると、まるで熟練した兵士のように、俊敏な身の動きで屋上に着いた。

 ビルの中は、明かりが消されているので、いつもと違う光景に見えた。エレベーターも稼働していなかった。萌依はスマホのアプリを使って、階段を上から下へと照らしながらも、スピーディーに下の階を目指して進み、エントランス・ホールにたどり着いた。

 敵は外の守りの固さを過信したのか、内側の守りは手薄だった。途中で、萌依は中にいた守衛や清掃夫に手伝わせて、机や椅子を除けて行った。

 バリケードの撤去作業が完了すると、ピエロたちも姿を消していた。外で待っていた社員たちを招き入れると、エレベーターを稼働させ事務所まで上った。

 事務所に入ると、青野と美津江と会長派の若い社員が数人いて、睨みを利かせていた。

「なんぼ言うても、あほな事業計画を推進しようとするさかい、実力行使するしかないと、思った次第ですわ」

「議論で解決できるやないの。こんな大人げない悪さをして、ただで済むと思っているの?」

「脅すつもりですか? あなたも、国会中継を見た経験がありますやろ? 国会では強行採決を防ぐ、時間稼ぎに牛歩戦術をする議員が何人もいます。テレビで見ていると、歯がゆいだけですが、そうでもしないと、無理が通ってしまう」

「会長の承諾は、もらっているのやろな」

 航大が問い詰めると、青野も美津江も口を閉ざした。

「会社の実務が、一日滞ったら、どれだけの被害が及ぶと思っているの? 威力業務妨害罪に問えるのよ」

 押し問答しているうちに、社員たちが続々と出社してきた。そうしているうちに、力哉や冬村が出社し、周りを押し退けて、近くまで来た。

 冬村は、事の次第が呑み込めずに呆然としていた。

 朝礼と午前中の会議は中止となり、関係者が会長室に呼び寄せられた。力哉は会長派、社長派を問わず、厳しく問いただした。青野は思惑と違うのか、力哉の叱声を浴びて青ざめていた。

 青野の考えでは、午前十時頃にはバリケードを撤去し、全社員を招き入れる予定だった。本人の話では、デモンストレーションでサンタ・クロース・カンパニーの動きを牽制するのが真の狙いだった。

 美津江は会長室で青野の陰に隠れて、怒声を聞くたびに震えていた。

 結局のところ、ピエロの正体に関しては誰も口を割らなかった。事なかれ主義の力哉は「社内での内紛が外部に漏れたら、会社の信用に関わるから、このことは口外しないように」と、全員に申し伝え、お咎めなしとなった。

 航大も、萌依も会長の裁定に異論をさしはさめなかった。

「このことは、華音ちゃんにも内緒やで」航大は小声で萌依に指図した。

 怒りと興奮のせいなのか、この日一日は仕事がはかどらず、無駄に時間を費消した印象だけが残った。 

 帰宅後、萌依は怒りが収まり、呼吸が正常になるまで、長い時間ソファーの上に座っていた。スリッパの中で足が凍えていた。寒さを体感したので、徐々に落ち着きを取り戻した。エアコンをつけ、ホット・カーペットのスイッチをONにした。爪先が温まったところで、自分の部屋に戻った。

 苦労人はたいていの場合、思い浮かべただけで背筋が凍るような経験を一つや二つはしている――と、聞いていたが、萌依は経営者になった途端に、度重なる苦難に遭遇しているのをどう考えていいのか戸惑っていた。

 同じ企業の社員たちの間に対立が生じ、何もかもが変わろうとしているのを見て、萌依は自責の念に駆られた。仲間割れの原因をサンタ宅配便と、自分の立場に見つけるといたたまれない気分に襲われた。

――航大がいくら味方をしても、老獪な役員連中を黙らせるのは無理だ――と想像すると、萌依は絶望的な気分になった。

 休日になり、ジョギングを終えた後、萌依はサンチョを連れて公園を散歩し、時折足を止めて靴ひもを結び直したり、犬の頭を撫でたりした。それとなく、背後を確認するために、何度も同じ動作をしてみたが、尾行されている気配はなかった。萌依は、首に巻いたタオルで汗をぬぐった。

 シャワーを浴びてダイニング・ルームに戻ると、萌依はテーブルの上に置いていた郵便物を手にした。テレビのバラエティー番組をぼんやりと見つめながら、手紙やハガキを選別した。ダイレクト・メールなどの不要なものは捨て、個人的な手紙や請求書はとっておいた。

 個人あてに届けられた手紙の中に、サンタ・クロース・カンパニーのファンからの手紙には見かけない、変わった模様の封書が目に付いた。開封すると、血のように赤いインクで書かれた「呪」「死」「殺」「姦」などのぞっとする言葉が並べられ、剃刀が同封されていた。

 萌依は、心臓がドキドキと早く脈打つのを感じた。気づかずに何かヘマをやったのかな? 深呼吸のために、可愛らしく目立たない鼻から、彼女は少しずつ息を吐きだした。

 翌日、脅迫状の件を伝えると、冬村は僅かの間、沈黙した。

 萌依が思案していると、事務所の電話が鳴動していた。受話器を先に取ったのは、南郷だった。

「えらい剣幕で、ドンキー・スレッドの社長を名乗る人が……、お前とこの社長を出せ言うてます。どないですか? 居留守でも使いますか?」

「ええから、社長室に通して」

 ドンキー・スレッドの桶瓦社長は、色浅黒く、筋肉質でごつごつした手をしていた。人相が悪くて、ドスの効いた声で威圧感のある雰囲気が漂っていた。桶瓦は社長室に入るなり、デスクをドンと叩き「這いつくばって謝れ、床に額をこすりつけて謝れ」と喚き散らした挙句、帰っていった。

 業界大手のドンキー・スレッド株式会社は、訴訟を起こす構えを見せた。馬車をトナカイの橇に見立てて宅配便を走らせる手法は、同社が権利を取得しているとの申し出を受けた。先方の主張と権利の内容を精査したところ、特許権は侵害していないものの、同社の商標登録している「ドリーム・スレッド号」と、同じ呼称で広告媒体に掲載しているのが判明した。

 桶瓦から萌依宛の電話で、ドスのきいた声で「鷹司産業の子会社ともあろうものが、こんなお粗末な事をしてもろたら、困りますな。私の前で土下座して、謝ってもらいましょ」と、凄まれたときは、気の強い萌依でも、困惑した。弁護士に相談したところ、結果的に週刊誌、新聞などの同じ広告媒体で謝罪文を掲載する方向で解決した。

 サンタ・クロース・カンパニーの「ドリーム・スレッド号」は、「ハピネス・スレッド号」と改名され、念のため商標登録の手続きをした。一件落着と行きたいところだったが、その件が議題に取り上げられると、萌依や、冬村らのサンタ・クロース・カンパニーの幹部は集中砲火を浴びた。

 インターネットには、サンタ・クロース・カンパニーの悪口が書き込まれていた。萌依が掲示板サイトを開くと「サンタ宅配便の欺瞞を暴く」と題して、投稿されていた。

「クリスマスの楽しみは、一人一人が異なり、大人になった時の思い出も様々です。サンタ・クロースに対するイメージも、心の中で膨らませるもので、押し付けるものではありません、サンタ・クロース・カンパニーの取り組みは、かえって豊かな子どもの希望を奪うのではないでしょうか?」

 はたして、サンタ宅配便の取り組みそのものが、子どもたちの夢を壊す事態がありうるのか? 疑問に思いながらも、萌依の考えでは――クリスマス・ツリー、クリスマス・ケーキ、クリスマス・カード、サンタ・クロースの絵本、等々と同じように、サンタ宅配便も、子どもたちのファンタジーを彩る一つの機会であり、道具立てだ――と結論付けた。

 他のものを読んでも、手厳しい意見が多かった。

「子どもたちには、現実の厳しさと、生々しさを教える取り組みこそが将来の役に立つ。サンタ宅配便は、余計なお金をかけるだけ無駄になる。子どもに愚かな夢想を抱かせるな」

「非現実的なファンタジーは、妄想する習慣を形成するだけだ」

「希望を与えるだと……、小娘みたいな、甘っちょろい戯言を言うな」

「サンタ・クロースは心の中にだけ住んでいればいい。白髪のじいさんの出る幕はない」

「お前たちも、金儲けのためにやっているのやろ? 綺麗ごとばかりを並べるな」

「愛の教えだ、夢だ、プレゼントだというが、現実を大きく変えるのは政治の力だけだ。一企業が子どもたちの夢を応援するなんて、大げさに言うな」

「聖ニコラオスは貧しい人々に救いの手を差し伸べたが、サンタ・クロースに人が救えるかどうか疑問です」

 掲示板サイトには、ぞっとするような酷評が記されていた。萌依は、同サイトで美人女優やモデルに対する書き込みに「おかめ」「ひょうたん」「不細工」などと書かれているのを見ていたので、彼らは――目立って活躍しているものをこき下ろす構えで、日ごろの鬱憤を晴らしているのか――と想像した。

 ある意味で悲劇の始まりは、サンタ宅配便の事業に限って、二人が現実よりも理想を重視し過ぎた点にあった。それも、今となってはどうする手立てもなかった。

航大のスマホが鳴動した。

 相手が誰だか、何を話しているのかは分からないが、航大の声は、興奮でかすれていた。航大は胸の内の緊張感を宥めるように、唇を噛み、耳たぶを引っ張った。

「その話が、ほんまにほんまやったら……。会長に知られたら、大変な状況に……。えーっ、会長はもう知っていて、どないかせえ、言うてはるのか」

 航大は乱暴に電話を切った。萌依はじっとしたまま、しばらく身動きできなかった。喉の渇きを感じていた。昨日の激論が脳裏に蘇ると、拳骨で机を叩いていた。航大は自分に向けられた怒りに反応したかのように、びくっとした。

「最悪やな。会長が掲示板サイトを見て、激怒している」

「私も、あれは酷いと思ったわ。当たり前でしょ」

「いや、会長が怒っているのは、サンタ・クロース・カンパニーや、社長のお前にや。覚悟しとけ言う話や」

「おかしいでしょ? 向こうが悪いだけやのに……」

「いや違う。会長は、サンタ宅配便は鷹司産業グループ全体の企業イメージを損なうと、危惧している様子や」

「掲示板サイトには、どこの企業でも、どんなタレントさんでも、悪口を書かれているでしょう? なんで、うちだけが責められなあかんの?」

「それが、会長が言うには、取引先から問い合わせが来たと言うのや」

「どんな?」

「そら、分からん」

「調べてもらえる?」

「確認しても、どの内容がどう悪いとは、言わんのやわ」 

 サンタ・クロース・カンパニーの経営に関しては、事態が悪化していた。解決手段が思いつかないまま、廃業せざるを得ないのか――と、萌依は思い悩んでいた。

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