第7話


 萌依は考え事をしながら、愛用の肘掛椅子に腰かけ、足をオットマンにのせていた。外目には、ゆったりと寛いで見えたが、萌依の内心では様々な思いが駆け巡っていた。

        ※

 二人が住む北山の家は、エレガントな外観が特徴で、曲線美を活かした立派な建物だ。正門の左右には、手入れの行き届いた生垣がめぐらされていた。敷地の中に入ると、ガレージに高級車が数台置かれ、交代で使用人が洗車や手入れをしていた。

 大学時代に萌依は親友から、このような家、このような暮らしを続けていると、他人への慈しみの想いがなくならないか――と、問いかけられたとき「私には、豊かな想像力があるから、それは大丈夫やわ」と即座に答えていた。

 来客が来る前に、萌依は今の気分にぴったりな灰色のセーターを着るか、モス・グリーンのお気に入りのものにするか迷った。結局、モス・グリーンのセーターに着替えた。部屋の壁を見渡すと、額縁に入った風景画や人物画が目につき、書棚にある多くの本に目が行った。

 風景画には、パリや、ニューヨーク、フィレンツェの街並み、ヨーロッパ・アルプスを描いたものもあった。萌依は絵画を見ながら、まだ訪れていないフィンランドのサンタ・クロース村の様子を思い浮かべた。

 街路わきに並ぶ、古民家や寺社仏閣は、風情ある街並みを形成し、よそから訪ねた者に、ここに住める状況を羨ましがらせた。優雅な暮らし向きと、社会的な立場は、彼らを指弾する者には敵視されたものの、大半の者からは憧れの対象となっていた。

 チャイムが鳴ったのでドアを開くと、華音は家の外で、アイボリーのダウン・コートを小脇に抱えて萌依が来るのを待っていた。

 華音が家に来たとき、航大は姿を消していた。トイレは奥まったところにあった。ドアがパタンと開き、航大がハンカチで手を拭きながら出て来た。

 三人はダイニング・ルームに移った。萌依がステーキ肉を焼き、手際よくサラダを盛り付けるのを華音も手伝った。テーブルには、各自の料理が並べ置かれていた。

 航大は、それぞれの席の前に置いたグラスに、年代物の赤ワインを注いだ。萌依と共に描いていた長年の念願を実現した事実に満足し、上機嫌に見えた。

 萌依は三ツ松デパートで、華音を見初めたのは正解だと思っていた。ポスターやパンフレットなどの広告物や販促資料には、華音のトントゥと冬村のサンタ・クロース姿が目を引き、サンタ宅配便の楽しさを見事に演出していた。

「美味しそうやな」航大は、感嘆の声を上げた。

 三人は、それぞれのテーブルの前のカボチャのスープから口をつけ始めた。

「仕事はなあ。豊かなイマジネーションが大事や。それが、ない者のやる仕事は、ただ金儲けのためだけの、つまらんものになるやろ」

「ご高説、ごもっともです」

「それに、愛情を注がなあかんな」

「夢と希望、愛と平和、ごもっとも、ごもっとも」

「ここで働くまでは、仕事は辛いものやと思うていました。でも、毎日が楽しいです」

 華音は、食事の手を止めて顔を上げ、小首を傾げると、じっと目を見つめながら微笑んだ。

 その仕草が萌依には、妬きたくなるほど、悪戯っぽくも可愛らしく感じられた。

「サンタ宅配便は、華音ちゃんが頼りやさかいな」

「そない、言われるのが、一番うれしいですけど、大した仕事は何にもしていません」

「ご謙遜を……。華音ちゃんのトムテが一番、人気があるのよ」

「冬村サンタよりもか?」

「うーん、どうかな? 同じぐらいかも」

「冬村さんも、隅に置けん人やな」航大は、大きな声で笑った。

 帰る前に玄関で、華音は一瞬足を止めて、思いを告げた。

「萌依ちゃん、ほんまに有難う」

「いいえ、こちらこそ、有難うね」萌依は言い終わると、航大に「華音ちゃんを家まで送ってくれへんかな?」と、尋ねた。

「分かっているよ。最初から、そのつもりや」

航大と華音は、連れ立って駐車場に歩いて行った。

       ※

 レンタル品を返却するため、倉庫に戻ると、萌依はクリスマスを楽しく演出した小道具を点検して、出発前よりも一層、輝きを増している気がしていた。

 有意義な何事かに取り組んで成し遂げた歓喜を嚙みしめつつ、ゆったりとした気分で満足な夜を迎える。その夜は、滅多には味わえない至福の時間となり、料理も酒も飛び切り美味しいものになる。

 しかし、ビジネスの先の展開は、予想がつかなくなる事態がよくある。地震や台風、竜巻などの天災や、パンデミックによる状況の悪化は難敵といえるが、それ以外にも不測の事態が起きないとは言い切れなかった。

 萌依は、素早く思案をめぐらした。来年以降の展開を考えれば、現状のやり方に満足してはいられない。サンタ宅配便をクリスマスのイベントとして、最高のものにするためには、何か新機軸を打ち出したかった。

「そうや、年末年始の休暇を利用して、フィンランドまで行って、サンタ・クロースと話をしよう。現地視察をまだしていなかった」萌依は思わず声に出して頷いた。

 冬村は疑いもなく、萌依のフィンランド視察旅行案を聞いて戸惑い、まばたきもしないまま遠くを見つめる目つきで考え込んでいる様子だった。冬村の態度から察すると、経費負担の実情を考えているのは明白だった。

「フィンランド旅行の費用は全部、俺が出すさかい、冬村さんは何にも心配せんでええ」と、航大は意を察したように先に答えた。

「そやけど、社内行事にポケット・マネーで臨むのは、下策でっせ。有難いけど、今後はそういう申し出のないように、ご注意願います」

 冬村の想いは痛いほどよく分かった。萌依は、冬村の人柄や能力に信頼を置いていたので、責任感の強さに感服していた。

 しかしながら、萌依は反対意見を押しのけて、フィンランドのラップランド地方のロヴァニエミにある観光スポットのサンタ・クロース村を視察に行く、計画を立案した。

 冬村は、萌依の強い意志に圧され、老眼鏡をちょいとずらすと「ほな、萌依社長。旅費と滞在費をいくら用意したらええのですか?」と浮かない顔をした。

       ※

 寝床には入ったものの、萌依はベッドサイド・ランプを点灯すると、再びスマホに残るサンタ宅配便の様子を見た。動画には、愛くるしい子どもたちの花のような幾つもの笑顔が映っていた。

 カーテンを左右に分けて、裏庭を覗くと北風が吹きすさび寒々として見えた。部屋の中も冷えていたので、もう少しベッドの中で過ごしたかったものの、布団をのけると起き上がり、椅子に掛けていたスウェットシャツとパンツをつかみ、朝食のためにダイニング・ルームに急いだ。

 ちょうど萌依が家を出ようとしたとき、華音から電話がかかって来た。「今朝、三ツ松デパートに行って、社長に会って来たわ」と、華音は早口に伝えた。

「フィンランドの視察旅行には、会社から資金提供するから、君も同行すればええって、言うてくれたのよ」

「良かったやないの。希望してくれたら、華音ちゃんの旅費ぐらいやったら……」と、萌依が言いかけると、航大が察して「うちも、商売やからな」と小声で告げた。

 フィンランド旅行の間、サンチョはペット・ホテルで預かってもらう方向になった。車に乗せてペット・ホテルに向かう道中でも、サンチョは、大きな身体つきに似つかわしくない表情を見せると、寂しそうに鼻を鳴らし「クーン、クーン」と、悲しげに声を出した。

 出発当日、萌依と航大は関西国際空港にポルシェを走らせた。クルマは、旅行の間は空港の駐車場に預けた。

 二人の視線の先には、空港の入り口に、タクシーを停めようとしている華音の姿があった。明るい表情をしていたものの、風が吹いていたので、寒気にさらされて身を竦めていた。フィンランドの気温は、氷点下三十度になる日があるのを思い出した。防寒対策は万全でないといけない――と、萌依は考えていた。イグニッション・キーを回すと素早く引き抜き、萌依はポルシェのドアを開けた。

 南郷も到着し、様子を見ると四人全員が毛糸編みの帽子を目深にかぶり、マフラーを首に巻いていた。口から出る白い息が風の流れる方向を示していた。

 先に昼食を食べ終えた航大は、機内に置かれた新聞に目を通していた。萌依は、機内食に出されたスープを飲み、ステーキ肉に口をつけた。機体は安定していて静かに航行しているのが感じられた。隣席の華音や、航大と同じシートの南郷の様子を見た。萌依には全員の表情が、休み時間の子どものように明るく、希望に輝いて見えた。

 関西国際空港からフィンランドのロヴァニエミ空港まで、直行便で十時間三十分かかり、ようやく飛行機は目的地の上空にたどり着いた。航大は居眠りしていたが、飛行機が機体を傾けて降下し始めると、目を覚まし「楽しみやな」と呟いた。

 空港の外に出ると、航大はスーツケースを持ち、先頭に立って足早に歩き始めた。逸る想いは同じだったが、萌依は、サンタ・クロース村に行くのを航大の方がワクワクした気分でいるのではないかと推察した。

 辺り一面は、真っ白な雪に包まれており、明媚な輝きで人の目を眩ませた。周りを見渡した萌依は、自分が別世界にいる状況に不思議な感興を覚えた。雪をまとった森林は、天国の神殿のごとく荘厳な光を宿していた。つぶさに観察しても、雪に覆われた針葉樹はどれ一つとして、同じ形のものはなく、神秘的な冬景色を創り出していた。萌依が大きく息を吸い込むと、冷たいが新鮮な空気が肺の中に入ってきた。

 氷点下の気温の中で防寒着姿でいても、顔や首筋に刷毛で塗るような冷気を感じた。人の口や鼻から出る息は、ミニチュアの雲のごとく、もくもくと吐き出された。華音は柔らかい雪に足を取られ、歩きにくそうにしていた。防寒着には気を付けて、靴も暖かくて滑りにくいものを全員が履いていた。

 四方から風が吹き、頬や鼻などの肌の露出しているところを切り取ろうとしているかに思われた。萌依は「ゆっくりでええから、足下に気を付けてね」と、後ろから励ました。ところが、皮肉にも、雪の地面に萌依が右足をのせたときに、バランスを崩して転びそうになった。

 そのとき、がっしりとした大きな手が萌依の両肩をつかみ、倒れるのを防いでいた。航大か? と思い――萌依が振り返ると、背が高く、情の深そうな目つきをしたフィンランド人の青年が後ろで支えていた。

 青年は品よく微笑むと「オレトゥコ・クゥノッサ?(大丈夫ですか?)」と尋ねた。萌依が、一夜漬けのフィンランド語で「キートス・パリオン(どうもありがとう」と、礼を伝えると、青年の笑顔が大きくなった。

 観光地のフィンランド人たちは、アジアからの来訪者たちを明るい表情で迎えた。その目には敵意は見当たらず、歓迎、好意、関心の持つ、温かなムードが漂っていた。

 空港からエアポート・バスに乗車し、ホテルに着くと部屋に荷物を置いて四人で出かけた。

 萌依も華音も、フィンランドでも美人に見えるのか、男性とすれ違うときに、彼らの目が光を帯びるのが分かった。

 夕暮れ時、ホテルの部屋から西の空が見えた。空は水色と灰色と白色と夕陽の橙色が層をなし、空一面を鮮やかに彩っていた。萌依が窓から外を眺め「綺麗やねえ」と呟くと、航大は「明日の晩のオーロラは、今日の夕陽の百倍はきれいや」と指摘した。華音は「明日が楽しみやね」と笑顔で萌依に告げると、航大が先に「ほんまに、そうやな」と答えた。

 酒に酔ったのか南郷は、ぼんやりと外の景色を見続けていた。「ええとこに連れてきてもらえて、幸せですわ」と、南郷はしみじみと声にした。

 午後十時になり、萌依と華音は隣室に戻った。

 ロヴァニエミ観光の二日目は、昼間はホテルの周辺を散策した。外では、どこもかしこも雪深い神秘な景観が広がっており、初めて肉眼で見る世界に萌依は心を奪われた。巨大な樹氷は天空の神々のようにも、天蓋を支える巨人のようにも見えた。日が暮れてから、四人はオーロラ鑑賞ツアーに参加した。夜になり街に明かりが灯ると、ロヴァニエミはいっそう幻想的な輝きを放ち始めた。

 オーロラは、天使の宴のように美しく輝いていた。満天の星空の下でオーロラの光の帯が、黄や緑や紫の色に変わりながら、舞い踊り始めた。周囲は雪の積もる木々に囲まれ、神秘な発光現象は、どこまでも夢幻的な世界を美しく見せつけていた。

 オーロラの語源とされる、ローマ神話の女神アウロラは、知性の光の象徴だった。アウロラは、夜の闇を追い払い、この世に光を与える希望の神としても知られているので、サンタ・クロース・カンパニーが目指す方向性とも一致していた。

 萌依が横にいる華音を見ると、彼女はまるで女神アウロラのように、美しく微笑みながら、ミステリアスな光景に見とれていた。

 空間を踊り続けるオーロラは、しなやかさと優美さを備えた光のカーテンのように、星降る夜に神秘な輝きをいつまでも見せつけていた。自然が生み出した光と、大気と、地磁気の織り成す芸術であり、萌依たちにとっては感動的な体験でもあった。優美なものの力は絶大だった。オーロラの美しさは、美的価値に興味を持たない者の心にまで働きかけ、震わせているのが分かった。

 オーロラを鑑賞して三十分ほど経過した。寒気が萌依の衣服を貫き、骨身に沁みて来た。「さすがに、桁違いに寒いなあ」と声に出すと、航大も鼻をぐずつかせていた。

 何故かは分からないが、オーロラの神秘な輝きは宇宙の広大さや、太古の昔を連想させた。もっというと、時間と空間を超越する存在を思わせた。

 あくる日、バスでトナカイ牧場に立ち寄った。トナカイ牧場には、森の中で多くのトナカイがいて、好物のキノコの餌を差し出すと一斉に駆け寄ってきた。牧場内は広く、中には小川が流れていた。全員が二人ずつ、トナカイの橇に乗りサンタ・クロース村へと向かった。

 そのまま雪上を滑り、陽光を反射して煌めきながら、橇は走り続けた。走り出してしばらくすると、頬に冷たい空気が叩きつけられた。周囲の景観は、寒々としていたが、萌依の心の中は温かかった。橇が走っているのは、雪が積もり奇妙に捻じれて見える樹木が立ち並ぶ、目の覚めるような白銀色の自然の森だ。

 トナカイはオスとメスで角の生え変わる時期が異なるので、今の時期に橇を引くのはすべてがメスのトナカイだ。

 一頭のトナカイが一台の橇を引くので、あまり速度は出なかったが、その分だけ景色を長く鑑賞できた。橇を下りると、徒歩で村にたどり着いた。四人は、それぞれ二台の橇に分乗し、広大な雪景色の中で、絶佳ともいえる自然を堪能した。

 前方に目的地のサンタ・クロース村が見えて来た。建物の前には、ひときわ大きな雪だるまが作られていた。サンタ・クロース村の建物は、三角帽子のように屋根が天を衝くありさまで尖り、すぐ近くにはクリスマスのタイミングが過ぎていても、巨大なもみの木のツリーがあって、万国旗が飾り付けられていた。

 村の中にある「サンタ・クロース中央郵便局」は、二百ヶ国から二千万通の手紙が届く、世界で一番子どもたちに人気のある郵便局だ。子どもたちには、直接サンタ・クロース本人が書いた手紙の返事が届けられていた。

 萌依は中に入ったとたん、幼児期に見た夢のかたちにそっくりなのに気づいた。赤々と燃える暖炉の横には、妖精トントゥが座り、笑顔で四人の大人を迎え入れた。

 フィンランド語では、クリスマスはヨウル、サンタ・クロースは、ヨウルプッキと呼ばれている。毎年、十二月二十三日から二十六日のステファノの日までがクリスマス休日となっている。この国では、サウナに入った後で、クリスマスの日のみの伝統的食事を食べられるという、長年の習慣が形成されている。

 サンタ・クロース村には、サンタクロース・オフィス、サンタ・クロース郵便局、クリスマス・グッズの店、サンタ・ミュージアムなどがあって、それぞれが楽しく演出されていた。

 サンタクロース・オフィスで真っ白な髭を生やし堂々とした体格のサンタ・クロースに会った。萌依は嬉しくて、大声で泣き叫びたい心境だった。白髪で長いひげを生やしたサンタ・クロースが部屋の中にいて、優しい視線で自分を見つめていた。

 椅子にゆったりと腰かけていたサンタ・クロースは、フィンランド語で「テルベットロワ(ようこそ)」と話しかけ、満面の笑顔を見せた。

 南郷がフィンランド語の辞書の栞を挟んだ箇所を開き、ぎこちない話し方で「トレニ・ヤパニスタ,ハルシン・タバタ・シヌ(日本から来ました。あなたに会いたかったです)」と告げると、サンタ・クロースは、低く落ち着いた温かみのある声で「キートス,オレン・イロイネン(ありがとう。うれしいよ)」と答えた。

「本物のサンタに会えて、ほんまに嬉しいわ。今の想いをどう説明したらええのやろ?」「えーっ、本物のサンタやて? どういう意味や。俺たちのサンタ・クロースも本物やろ」「クリスマスを演出するエンタテイナーに、本物も偽物もないのと違いますか」

「ええこと言うわ、南郷さん。私も萌依ちゃんと同じで、本物のサンタさんに会って感動していたけど……。本物言うのはやめて、本家本元のサンタさんに言い換えるわ」

 サンタ・クロースは決して偶像などではなく、子どもたちへの愛情が姿かたちを表していた。本物のサンタ・クロースか否かという真贋論争など、無意味な言葉の遊びだった。人の心に夢と希望の灯を点けて、愛の価値を教える者が、他ならぬサンタ・クロースだと萌依は知っていた。

「できれば、サンタ宅配便に参加した全員にこのファンタスティックな景色を見せてあげたかった」

「ほんまに申し訳ないぐらいやね」

「まあ、そうなると、宅配便を全国展開し、各種のイベントを開催して大儲けせなあかんやろ。そこまでの道のりは、遠いやろな」

「私まで今回のツアーに参加させてもろて、恐縮ですわ」

 ロヴァニエミでは、何度もトナカイを見かけた。立派な角を誇るトナカイたちは、萌依が見ると、蹄で雪を掻き分けながら、下に生えた苔を食べていた。トナカイはシカ科の動物では珍しく、雌雄ともに角がある。オスのトナカイは春に角が生え、発情期の秋が過ぎると抜けるので、夏場は威風堂々としているオスの角が、今の時期は頭になかった。

 サンタ・クロースとの出会いの楽しい記憶が生々しく残っているうちに、角が生えたメスのトナカイたちの引く橇に乗れるのに、萌依は子どものようにワクワクしていた。

 サンタ・クロースのいるオフィスを出ると、レストランに立ち寄り、四人は小皿料理の「サパス」を堪能した。夕食の席では、シャンペンを注文した。

 食事の間中、四人はフィンランドの色々な文化や風土、独自の習慣、文学や本の話をした。萌依は、国連の調査で幸福度ランキング一位に何度もなったという、人口五百三十万人の小さな国でありながら、心豊かに暮らすフィンランド人の生活ぶり――を口にしたくてたまらなくなった。

 ホテルに戻ると、萌依は華音と連れ立ってサウナ室に向かった。抜群のスタイルの二人は、脱衣場でもサウナ室でも視線を集めた。サウナの中は熱気がこもっていたが、薄暗くなっていた。萌依はサウナ・ストーンに水をかけて、水蒸気を発生させた。しばらくすると、蒸し暑くなったため体感温度が上がり、体中の汗が毛穴から噴き出していた。

 サウナに入ると、奇妙な沈黙が二人の時間を支配した。フィンランドでは、古くからサウナ文化があり、スモークやスチームを浴びてリラックスする憩いの空間でもあった。萌依が調べたところでは、妖精トントゥは、クリスマスの妖精のイメージが強いが、サウナの妖精とも呼ばれているのが分かった。

 サウナ室を出て、部屋に戻ると二人はビールで乾杯した。サウナに入って温まった身体に、よく冷えたビールは胃袋に沁みた。

 次の日は、ヘルシンキ観光を楽しみ、夜にはホテルのレストランで食事をした。食事中、華音は航大の隣の席に座ると、酒臭い匂いがかげるところまで顔を近くに寄せた。二人の仲は一目瞭然だった。フィンランドでのファンタジックな体験をした後、萌依には、航大と華音の距離はさらに縮まっているかに思えた。

 フィンランドには何千もの湖があり、広大な森があり、野生の動物が住む豊かな自然があり、知的水準の高い優秀な人々が住んでいた。短い旅行体験だが、雪に白く閉ざされ、冷気を肌で感じていても、心温まる雰囲気があちらこちらに漂い出ているのが分かった。旅の間中、フィンランドの凍えるような冬に、鳥たちは姿を見せなかったが、空港までの帰路、バスから外を見ているときに、水辺にいるマガモの群れを見つけた。

 ロヴァニエミ空港にバスが到着すると、出発までの待ち時間は、空港売店で買い物をした。航大はスーツの胸ポケットから長財布を取り出すと、ブラック・カードを抜き取り、右手でパタパタと扇ぐような素振りで、まず何を買おうかと、考える様子に見えた。

 空港に着くと、南郷は、薄くなった頭部の残り少ない髪をかき上げ、いつになくゆったりと大きく微笑んだ。それがとても、満足そうに見えた。

 売店では萌依は、サンタ・クロースの木彫りの人形とヌガー・チョコを買い、航大はスパークリング・ワインを購入した。華音はムーミンの絵の入ったバッグを見ていた。『ムーミン』は、フィンランドの作家トーベ・ヤンソンの小説や絵本が原作だ。

 南郷は、周りの様子を気にしながら、売店の中を行ったり来たりしていた。

 売店を出ると、四人とも、サンタ・クロース村で体験した出来事を糧にして、サンタ宅配便事業が本格軌道に乗せられるように誓い合った。

 出国手続きをすませると、萌依はそのままスマホで会社に電話をかけた。日本とフィンランドの時差は七時間あり、時計が十時三十分を示しているので、日本では夕方の五時三十分頃だ。

 二度目のベルで受付につながり、三十秒後に冬村が電話口に出て来た。「ああ、萌依社長、御無事ですかいな。今、どこですかい? 横に、航大社長もおりますのか?」

「皆と、一緒よ。まだ、フィンランドの空港にいるのよ。年明けの四日から、会社に出勤するの、やけど……、留守中、何事もなかったかな? どない、なの?」

「まあ、今それを言うても、しょうがないですやろ。四日に報告しますわ」

 フィンランドに旅立つ前、萌依は心の中で――どうか旅行中に出会う人たちは、親切心があり、笑顔の素敵な人たちでありますように――と念じていた。実際に、そこを訪れて、願った通りの人たちと会えたのも、麗しい思い出になった。

 いつもは温厚な冬村が、いつになく険しい口調で話すのに萌依は、不安を感じていた。

 萌依はフューエル・ゲージに目をやり、充分な量のガソリンがあるのを確認した。寒い冬のこの時期に空港の駐車場にクルマを預けていたので、バッテリーの残量が気になっていたものの、キーを回すと元気よくエンジンがかかった。萌依は、空港駐車場に預けていた、ポルシェのハンドルを握ると、関西国際空港ICから、京都南ICに向けて高速道路を走行させた。

 サングラスをかけて、赤いポルシェのハンドルを握る萌依は、まるで映画スターのように様になっていた。助手席に華音が乗ると、正面から来たクルマの運転手が必ずチラ見しているのが分かった。

 クルマは速度を落としていたものの、予定の時刻に着くように安定して走行していた。信号のところまで来ると、萌依はタイミングよく右折し橋を渡った。関西国際空港から長距離を走ったが、彼女は適切な道を選び、京都市まで三人を連れて戻った。

 萌依はシャワーを浴び、入浴剤を入れておいた浴槽に身を沈めると、フィンランドの光景を脳裏に繰り返して思い出した。あたり一面が雪に閉ざされた世界で、もみの木にもずっしりと重そうに雪が積もっていた。絵本の中のような本物のトナカイの橇に乗ったのも、子どものように楽しかった。

 サンチョはオス犬だが、萌依が浴室に入りシャワーを浴び始めると、音に気付いて脱衣室でしゃがみ込み、中から出てくるのをずっと待つ癖がある。航大には、同じ姿勢を示さない。「この犬は、相当すけべやな」と、航大は笑うが……、萌依が浴室から出てタオルで身体を拭いていても、いつもサンチョは頭をよそに向けて寝そべっていた。

――サンチョは、シャワーの音とシャンプーの匂いが好きだ――と、萌依は考えていた。

 浴室を出た萌依は、脱衣室の暖房が効いていたので、バス・タオルで身体を包み、鏡の前で髪を乾かした。彼女は高い収入と、優秀な仲間に恵まれ、支えられているのを有難く感じていた。脱衣室で萌依がサンチョの頭を撫でると、彼女を上目遣いで見てクーンと甘えるような声を出した。

 フィンランド旅行の間、ペット・ホテルにサンチョを預けていたので、寂しい思いをしていたのに気づかされた。

 シャワーを浴びて清潔になった萌依は、チリ一つない綺麗な自室に戻った。綺麗好きな萌依は、どんな多忙な時も掃除機をかけ、雑巾やはたきを手にして家の中を歩き、清掃していた。自室に戻ると空腹感を覚えた。

 紅茶を飲みマカロンを食べ終わると、久しぶりにサンチョを散歩に連れ出した。勝手口を開けた途端、サンチョは素早く表に出て振り返ると尻尾を振った。サンチョは先へ先へと進み、興味のあるものに鼻先を近づけて嗅ぎまわった。首輪の紐はぴんと張り、ぐいぐいと引っ張られた。まるで、萌依が家を留守にした薄情さへの仕返しのように思われた。

 サンチョは歩道の端に着く時分には、歩く速度を落とし、いつものように長い舌を出して喘いでいた。

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