第6話

 空のグラスをキッチンに運ぶとすすぎ、自室に戻ってからフックにかかったコートを取って着た。萌依がドアに向かう前に振り返ると、サンチョが顔を上げてこちらの様子を見ていた。

 ドアをロックして玄関先から、駐車場に向かうとき、萌依はこちらにゆっくりとした足取りで近づいてくる人影に目を止めた。外は寒かったので、ジャケットのジッパーを首元まで引き上げていると、近づいてきた男が名刺を差し出した。

「鷹司萌依社長ですね。お忙しそうだし、こういう形でご挨拶させていただいて、申し訳ありません。少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」

 名刺には――インタレスティング・プロジェクト株式会社 イベント企画部・部長 谷山準之助――と書かれていた。

「ああ、イベント企画会社の方なのやね。名刺はもらっておきます。パンフレットとか……、何か資料があったら、それだけもらっておくわ」

「もちろん、資料はお渡しできますが……。そこで、十五分間だけ、お話できませんかねえ?」

 谷山の視線の先には、喫茶店があった。

「うーん、どうしようかなあ……。十一時から会議やし、準備も必要やしね」

「十五分言うたら、ほんまに十五分ですませますから……」

 萌依は強引な谷山の要求に圧され、渋々店内に入り、席に着くとすぐにウエイトレスが注文をとりに席に来た。

「何になさいますか?」

「エスプレッソを二つお願いします」

「かしこまりました」

「えっ?」オーダーを勝手に決められたのに反応し、思わず萌依が声に出すと、谷山は「あっ、社長は気にしなくても、いいのですよ」と、はにかんで見せた。

 メニュー表を確認すると、エスプレッソはソフト・ドリンクでは最高額の七百円と記されていた。気遣いは嬉しいものの、萌依の今の気分だと、アメリカン・コーヒーをたっぷり飲みたかった。

 しばらくして、ウエイトレスは盆の上に二つのカップを載せて戻って来た。テーブルに並べられたのは、通常のコーヒー・カップの半分のサイズのデミタス・カップだった。

 萌依は谷山がデミタス・カップを見たときの――こんなに小さかったの――と言いたげな驚きの表情を見逃さなかったので、内心で笑いがこみあげて来そうになった。

 谷山は小さなカップに二杯も砂糖を投入すると、思案深げにスプーンで搔き回した。しばらく会話していると、谷山は優秀なセールスマンというよりも、職人気質の人間に見えた。人懐っこい笑顔と世慣れた話し方で、インタレスティング・プロジェクトがいかに役立つか、同業他社との違いを身振り手振りで説明した。

 これまでも、萌依のもとには多様な企業の営業マンが訪ねて来ては、資料を置いて帰っていた。――谷山には、他のセールスマンとは違う熱意がある――と、萌依は直感した。

 谷山は席を立つとき、伝票を素早くつかむとレジに走った。萌依がバッグから財布を取り出し、後をつけると「ここは、いいですよ」と二人分を支払った。

         ※

 掛け布団を跳ねのけて、萌依は洗面所に急いだ。明るい蛍光灯の下で顔を洗い、歯を磨いた。萌依は鏡に映る自分の顔を見ると――今日が正念場やから、気を抜いたらあかん――と念じ、自分を鼓舞した。

 外に出ると、木の葉が散り、裸になった街路樹は、冬の寒気をいっそう冷たく感じさせた。

 萌依は寒い日も、毎朝、十キロメートルの距離をジョギングしていた。

 会長派の役員たちは部下に呼び掛けて、サンタ宅配便の実務には協力しない構えを見せた。上層部が反目し合ったため、社内には気まずいムードが流れていた。

――今の状況を打開できるのは、サンタ・クロース・カンパニーの社長としての気構えと頑張りを社員たちに示すしかない――と、萌依は自分に言い聞かせていた。

 萌依は何事も中途半端にできない性格だった。華音が――社長に見られていると思うと、社員たちが緊張して能力が発揮できなくなる――と指摘しても、現場を訪問するのをやめなかった。アルバイトたちは、萌依の訪問を歓迎したものの、鷹司産業から出向中の社員には相変わらず煙たがられた。

 ある朝、萌依はまだ夜が明けきらないうちに、ベッドを抜け出すと、駐車場にあるポルシェに乗車してドライブした。様々な出来事が想起されると、息が詰まりそうになった。しばらく走行し、周囲の景色を眺めているうちに――もう後戻りができない。何とかしなければならない。やるだけやってやろう――と、負けじ魂が呼び起こされた。家に引き返すと、いつも通り、十キロメートルの道程をジョギングに出かけた。

       ※

 萌依は期待に胸を膨らませながら、ベッドの上で眠りに落ちた。眠りの世界で彼女は、サンタ・クロースの夢を見た。夢の中でも、現実と同様にベッドで休んでいた萌依を三人の巨大なサンタ・クロースが萌依の部屋を訪れて、彼女を見下ろしていた。 三人とも、頭が天井につかえていたので、前かがみに身体を折り、窮屈そうにしていた。

 萌依の身体はいつの間にか、幼児になっていた。

 一人目のサンタは「萌依ちゃんに、どんなプレゼントを手渡そうかな」と話し始めると、二人目が「大きな、大きな夢を、プレゼントしたらどうかな?」三人目は疑問を呈し「それが、うまくいかなかったらどうなる?」「その時は、この娘をガッカリさせる。しかし、飛び切り素晴らしい夢なら、きっと喜んでくれるよ」

 三人のサンタ・クロースの夢の中の会話を聞いているうちに、――サンタ・クロースたちも、色々と配慮しているのだな――と、萌依は微笑ましく思った。子どもじみた夢を見つつも、奇妙に感じ「これでも会社の経営者やから、自分で欲しいものは自分で買えます」と告げようとしたとき、目覚まし時計のけたたましい音に、叩き起こされた。

 目を覚ますと、萌依は――自分にとって、飛び切りの夢とは何なのか――と、考えていた。今はサンタ宅配便事業を軌道に乗せ、安心して経営に臨むのが先決だと思った。そう思うと、意識は立ちどころに鈴の音のように澄み渡った。萌依の心の中の鈴の音は、クリスマスのジングル・ベルと同様に、天国の至福を祝う、妙々たる音色であった。

 航大は、サンタ宅配便を走らせる初日も、いつもながらのスーツ姿だった。ズボンにはきれいにプレスされた折り目がついており、柔らかな生地がぴったりと下半身を包んでいた。

 反対に萌依は、作業着に着替えて臨んだ。いざというときは、力仕事も含めてすべてにサポートするつもりでいた。

「経営者たるもの、どっしりと構えていればええのや」

「いざという時に、私も手伝いたいのよ」

「動かざること山のごとしや。あんまり、面倒見が良すぎても、軽んじられる。経営者がちょこちょこと、現場に顔を出しても、従業員は息苦しくなるだけや」

「私はフレンドリーやから、皆も喜んでくれると思うのよ」

「社長はなあ。社員と友達になったらあかんのや」

「私は、私なりのやりかたでやってみせる。すべて任せる言うたのはお兄ちゃんやないの」

「萌依社長、そろそろ、始めましょうや」南郷が二人の顔を見て促した。

 公園の野球グランドに集合し、全員を前にして高い場所に立つと、萌依にはメンバーの意気込みが感じられた。一人一人の表情までもがはっきりと分かった。サンタ・クロースは、全員が小太り体系で白髭を生やしていた。トントゥは選りすぐりの美少女たちだ。ルドルフは、筋肉質で背の高い青年ばかりだった。

 集合場所の倉庫には、スタッフたちが次々と集まって来た。南郷がスタッフの出勤を確認すると、それぞれの持ち場で準備するように指図した。

「今日から三日間、力を出し切ってくれ」航大が激励すると、萌依も

「この日のために頑張って来たのやから、忙しいけど、苦労を思い出して頑張ってね」と、声をかけた。二人にとっては、従業員こそ資本であり、富を生み出す打ち出の小槌であり、何よりも夢の担い手たちでもあった。

 彼らは黙々と準備を進め、自分たちが神の子イエス・キリストの生誕祭を祝うスタッフとして機能しているのに、誇りを感じているかに見えた。

 サンタ・クロース役は、痩せた男には綿入りの服を着せ、こけた頬にも、膨らんで見せるために、口に綿をふくませた。サンタ・クロースたちは、異常に大きな袋を担いで部屋に入ってきた。一瞬、萌依は息が止まりそうになった。だが、それがすぐに子どもたちを喜ばせるのに必要な大きさだと気づいた。

 萌依の提案で、予め親に聴取し、プレゼントを手渡す子どもたちの特徴がカードに記された。カードには、子どもたちが一年間でもっとも自慢に思う出来事や、達成した目標や、彼らの長所が書かれていた。

 大倉庫の前面に配置されたプラットホームには橇が置かれ、一台に百個の玩具が積み込まれた。橇の荷台は、綺麗にラッピングされリボンがかけられた玩具で溢れんばかりになっていた。荷物をすべて積み込むと、夢を乗せた橇はゆっくりと走り出した。

 橇は本来なら雪上を走らせるために、最下部のスレッドを滑らせるが……、道路上を走行するために改良していた。サンタ宅配便の橇では、スレッド部分に小さくて丈夫な車輪を、目立たないようにいくつも装着していた。

 道の両側に、家々が立ち並んでいた。萌依には、サンタからのプレゼントを心待ちにして、期待に胸をときめかせている有様が目に浮かんだ。高層マンションなどの集合住宅をまとめて回るのは、時間も手間もかからなかったが、一軒家を回ると、クルマの渋滞などで予想外に時間がかかる状況があった。

 二十三日のプレ・イベントでは、サンタ・クロースの橇に乗って京都市内を周回できるようにはからった。日中の八時間を百台のサンタ・クロースの橇が走行するのに、道路事情を勘案して、社の内外から反対意見が聞こえてきたが、航大が強引なまでに推進して実現していた。

「ええか、一つも事故を起こしたらあかん。一人のケガ人を出してもあかんのや」

 航大は、本番前の朝礼でスタッフに檄を飛ばしつつも、注意深く行動するように促した。

 演壇に航大と交代で上がると、萌依は、言葉に熱を込めて伝えた。

「一人の人間の軽率な行動が、素敵な夢を悪夢に変えてしまう。それやったら、皆で夢を実現しようと準備して来た甲斐がなくなる。サンタ宅配便のスタッフを務める間は、本物のクリスマスの妖精になったつもりで、子どもたちに素晴らしい夢をプレゼントしてあげてください」

 スピーチを終えて、華音のところに行くと「見事やったわ。ほんまに、ええスピーチやったと思う。皆に、あなたの思いが波紋のように広がっていたわ」と、微笑みながら小さく拍手した。華音は品よく笑う面持ちにかけては、萌依よりも数段上手にできた。それが、萌依には羨ましくもあり、眩しくもあった。

 萌依は企業理念も経営知識も習慣も、まだ完全には形成されていなかった。さらに、偏見や憎悪や失敗への恐怖心も、世の中への敵意も持っていなかった。それでいて、他の経営者に勝る点があるとするなら、理想への探求心や燃え滾る熱意や、思いやりの心といっても良かった。

 サラブレッドにヘラジカの角を着け、橇を引かせる準備に一台当たり五分前後かかるのは実証済みだった。さらに、スタッフたちが、それぞれの衣装に着替えるのに十分かかると計算していた。

 倉庫の中は寒かったので、業務用の大型暖房機をフル稼働させていた。だが、すべての準備が終わり、倉庫に集まると中は熱気で溢れていた。

 馭者の装束は、山高帽に黒いコートを羽織り、皮手袋をしていたので、まだましだったもののサンタ・クロースやトントゥたちの服装は、寒空の下では身体に堪えるのが目に見えていた。萌依は、予め用意したカイロをサンタ宅配便のスタッフ全員の手元に配らせた。

「ちょっと、萌依社長、よろしいですか?」南郷に肩を叩かれたので、萌依は振り向いた。

「馭者役の一人から、電話が入り、風邪で高熱が出たので、休ませて欲しいと、申し出がありました」

 馭者が急病で休むのは想定外だった。サンタ・クロースやトントゥ役なら、何とか代役で誤魔化せるが、皮肉にも黒子に過ぎない馭者の技量は、短時日では身に着かなかった。

 橇は軽車両にあたるので免許は無用だが、ズブの素人に任せる気がしなかった。幸い萌依は乗馬の経験があり、クルマは短大時代に国際A級ライセンスを取得していた。親戚たちは、秀才肌で読書家の航大と、スポーツ万能の萌依を男女が逆なら良かったのにと……、よく言葉にしていた。

 南郷から話を聞いて、即座に萌依は「それなら、私が一号車の馭者をやるわ。乗馬経験があるし、レッスンの様子は見に行っているので、要領もわかる」と決断した。

 橇を走らせる前に、ゆっくりと深呼吸した。呼吸を整えると超感覚的知覚が働く――と、萌依は漠然と考えていた。呼吸を整えながら、彼女は――走行中の危険を回避し、子どもたちの花咲くような笑顔に数多く会えますように――と、念じた。萌依は、表情を引き締め馭者台に座ると、トナカイに扮した二頭の馬の手綱を握った。

 手綱を握ると、萌依は見事に橇を走らせた。

 橇を走らせて住宅街に着くと、舗道を歩く人たちが足を止め、集合住宅の窓から多くの人が顔を覗かせて自分たちを見つめていた。子どもたちは、サンタ・クロースやトントゥを指差しながら、明るい表情で喜びを表現した。沿道にいた誰かが「メリー・クリスマス」と声にすると、何人もの人が同じ言葉を口々に言い始めた。

 師走の町は、社用車などで道路は渋滞しがちだったものの、たいていのクルマは、サンタ宅配便を見かけると、道を先に譲った。なかには、クルマの窓を下ろし、サンタ・クロースに声援を送る運転手や、可憐なトントゥたちに色目を使い、野太い声で誘いかける不届きものまで存在した。

 サンタ宅配便の初日の二十三日は、粉雪が舞う寒い一日だったが、あちらこちらで心温まる声援を受けたので、萌依の心の中には充実感があった。夜の闇が近づくと、沿道につくられた小さな雪だるまに映る西日の光が消えかかっていた。

 翌日の気分は、爽快だった。すべてが順調に行くかに思えていた。クリスマス・イブの二十四日は、雪の降っていた昨日とはうってかわって、見事な快晴だった。早朝、どこからともなく野鳥のイカルの鳴き声が聞こえて来た。イカルのさえずりは清々しく、自分たちへの祝福のように思えた。

 イブは、昼間は稼働せず、夜の京都市内を橇は駆け回った。子どもたちは夜遅い時刻でも、起きていてプレゼントは直接手渡すケースが多かった。

 サンタ・クロースは、クリスマス・イブの深夜、煙突から忍び込み、子どもたちの寝る部屋に着くと、大きな靴下にプレゼントを入れて立ち去る。だが、京都市内に煙突のある家は見当たらず、あったとしても、そこから忍び込むのは不可能だった。

 京都市内は古い町屋があったり、寺社仏閣があったりすると思うと、商業ビルやマンションが点在し、公園や田畑や林のある地域もある。アスファルト舗装された路面を橇で走っていても、古い街並みと新しい建物とが混在する異空間であるのが実感できた。

 河原町通りの飲食店街にも、大勢の子どもたちが待っていた。サンタ宅配便は師走の慌ただしい街中で、どこを訪ねても歓声で迎えられた。

 五人の子どもたちのいる家は、通りの中ほどにあった。カーテンの閉められた窓は、磨き上げられていて輝き、玄関ドアには常緑樹セイヨウヒイラギの葉や、松かさ、金色のベル、リボンなどで、輪状のクリスマス・リース装飾がつけられていた。

 玄関横のプランターには、ポインセチアが並べ置かれていた。が、もっとも目を引いたのは、冬枯れた梅の木に取り付けられた電飾だった。家の周りの装飾が、この家の子どもたちにとって、クリスマスが何よりも特別な日であるのを証明していた。

 騒々しくて、人だらけの街並みが、萌依にとっては普段の何倍も輝かしく思えた。

 サンタの装いに身を包んだ冬村がチャイムを鳴らし、ドアを開くと、子どもたちが躍り出て来た。家の玄関には、天井に届くような大きなクリスマス・ツリーが見えた。

 冬村サンタは、子どもたちに対して最初のうちは全員に等しく「お利口さんだね」と告げて頭を撫でていたが、何件も回るうちに「君はなかなか元気がいいな」「サンタさんへのお願いが叶ったよ」「良い子にしていたから、ご褒美だ」などとセリフを変化させて対応していた。白髪で小太りの冬村は、大勢いる鷹司産業の社員の中でも、見渡す限りサンタ・クロースに、もっともよく似ていた。

 冬村サンタの子どもたちへの愛情に満ちた眼差しや、優しい口調や振る舞いは、彼の熱い思いを相手に伝えているのが、萌依にも感じられた。

 萌依が「ワンダフルやね」と称賛すると、冬村は「子どもたちはいずれ大人になるけど、サンタ・クロースの愛情に触れて励まされると、心豊かに成長するやろと、思うのです」と打ち明けた。

 萌依には、予算の話ばかり口出しする気難しい冬村からは、想像できない柔軟な対応ぶりだった。

 クリスマスに鳴らされるベル……、ジングル・ベルは、神の子イエス・キリストの誕生を祝して鳴らされた聖なる鈴の音色である。萌依は、ここにもこだわり、サンタ・クロースに「シャンシャン」と、楽しげな音色の出るベルを持たせていた。サンタ・クロースは、一軒一軒の家で、必ず「メリー・クリスマス」と告げた後で、ベルを鳴らすように演出していた。

 クリスマス・イブの夜は商店街のアーケードや商業ビルのエントランス・ホールにも、色とりどりのイルミネーションで華やかな演出が施されていた。

 イブは、深夜の仕事を終えてから、自宅に戻った。華音は、萌依の部屋に泊まった。真夜中に帰宅し、ダイニング・ルームで二人はお互いを労いながら、乾杯した。

 華音がワイン・グラスをよこすと、萌依は「乾杯、今日はご苦労さん。あと一日、気を抜かないで、頑張ろうね」

 萌依は、華音の手に手を重ねると微笑んだ。

「自分を信じて……、やってきた甲斐があったね」

「萌依ちゃんが、勇気づけてくれたお陰やと思う」

 二十五日のクリスマス当日は、午後二時から橇を走らせ、すべての子どもたちにプレゼントを手渡せた。玩具が破損しないように、サンタ・クロースの袋には大量の綿を詰め膨らませ、子どもたちに手渡す寸前に、プレゼントを袋に入れていた。たいていの子どもたちは、大きな袋から取り出された玩具に目を輝かせていた。

 妖精トントゥ役のトムテ、ニッセ、パッカネンの三人は、それぞれのチームで役割を与えられた。トムテは子どもを褒め、ニッセはプレゼントをサンタ・クロースに手渡し、パッカネンは子どもを抱きしめて励ました。別れ際には、四人で満面の笑顔を見せ、腕がちぎれんばかりに手を振った。

 馭者台から一部始終を見ていて、萌依は楽しい雰囲気が伝わってくるのを感じた。それは、時間を越えてなされるイエスの奇跡の一つでもあった。いくつもの子どもたちの笑い声と歓声を聞いているうちに、萌依にはスタッフたちが夢の国の住人を演じるのを誇らしく思っているのが理解できた。

 サンタ宅配便を走らせている間の飲食は周囲の目が気になるので、楽しげなサンタ・クロースの絵が描かれた衝立で内外を遮り、外側に――休憩中――の札をぶら下げた。萌依はスタッフの生理現象にも配慮し、組み立て式の仮設トイレも準備させた。

 サンタ・クロースやトントゥがおにぎりを食べ、ペット・ボトルの緑茶を飲むところは、周囲の人たちに見せたくなかった。

 萌依は馭者のルドルフとしてではなく、事業の最高責任者として、一部始終を目で見ておきたかった。橇を沿道に繋ぎとめて荷台に幌を被せると、四人と一緒に中に入った。馭者のルドルフとして、彼女はカメラマンの役目も務めた。

 サンタ・クロースと三人のトントゥは、人混みをかきわけて進み、病院の中に入ると小児病棟を訪ねた。病棟の入り口あたりから揮発性の消毒剤の匂いがしていたが、病室に入ると見舞いの果物の甘い香りが漂っていた。

 子どもたちへのプレゼントをサンタ・クロース(冬村)が手渡しながらベルを鳴らすと、トムテ(華音)が「メリー・クリスマス。皆、早く元気になろうね」と励まし、ニッセが子どもたちの頭を撫で、パッカネンがおどけて見せた。ルドルフ(萌依)が、後ろから一歩前に出て「じゃあ、またね」と別れを告げると、五人で手を振り、病室を後にした。

 サンタ・クロース、トムテ、ニッセ、パッカネンの誰もがこの病院の子どもたちを大好きになっているのが萌依には分かった。

 突然の邂逅に対する戸惑いと、歓声と笑顔のつくりだす場の雰囲気とが、互いにねじ合わされて、子どもたちの内側に繊細な感情の綾を作り出しているのが感じ取れた。萌依は――この場を立ち去るときに子どもたちに寂寥感が訪れないか――と案じた。

 一分一秒に、一分一秒以上の価値を持つ、病室の子どもたち一人一人を萌依はぎゅっと胸に抱きしめてやりたくなっていた。

 ある家で、冬村サンタがプレゼントを探すのに手間取ったため、萌依が馭者台を降りてドアを開けると、母親の後ろに隠れていた女の子の顔色が青白くなり、敵意のある表情をしているのに気づかされた。

 まだ、母親だけを信用できる発達段階の子どもだと思われた。華音のトムテが優しい笑顔で「いい子ね」と声をかけて近づいても、表情は変化しなかった。

 ところが、冬村サンタが登場し、プレゼントを手渡した途端、女の子は満面の笑顔を浮かべ歓喜の声を上げていた。――クリスマスの主役は、サンタ・クロースだ――と、萌依は痛感した。

 プレゼントを届ける家は、大邸宅もあれば、小さなボロ家もあった。萌依は豪邸では、淡々と指示していただけだが、ボロ家の戸口に立つと張り切り「皆、最高の笑顔を見せようね」と檄を飛ばした。

「ほんまに、あなたは変わったお人やわ。普通は、逆と違いますのか? 企業活動は、遊びとは違いまっせ」と、冬村は指摘しつつも「そやけど、そういう人やから、私もついて行こうと思うてますのや」と、今度は萌依を持ち上げた。

 聖ニコラオスにだって何人もの支持者がいたが、その支持者たちはトントゥの扮装でトナカイの橇に乗り、子どもたちにプレゼントを渡すのを手伝ってはいなかった。もしやるとしても、奇抜ないでたちではなく、貧しい人に生活の足しになるものを手渡していたのが想像できた。

 サンタ・クロースの物語は、子どもだましのメルヘンでも、誰かが創作したファンタジーでもなく、萌依にはそれ以上に価値あるものでなければならなかった。聖ニコラオスとサンタ・クロースに共通するのは、他者に対する深い愛情の部分だった。

 二十五日を中心として、直にプレゼントを手渡すコースで触れた、子どもたちの楽しげな表情は、マシュマロのように甘く、可愛らしかった。しかしながら、このお菓子の妖精たちは、メレンゲにシロップを混ぜて固めたマシュマロよりも、次代を担い、愛や望みを実現する存在として、貴重な子どもたちだった。

 サンタ宅配便がすべての家に玩具を配り終えて戻って来ると、彼らの多くは疲れよりも、歓喜の表情を浮かべていた。

 華音たちトントゥは、愛くるしい三角帽子を脱ぐと、お互いに明るいトーンで「お疲れ様」と声を掛け合った。それが萌依には、疲労困憊の苦しみではなく、心地良い疲れなのが理解できた。

 サンタ・クロース役の冬村も、帽子を外すと「皆、お疲れさん、子どもたち、ほんまに可愛かったなあ。喜んでいたなあ」と感嘆すると、普段より何倍も優しげに目を細めて萌依に向き合った。

「仕事の合間を縫って、やった甲斐がありましたね。私には、冬村サンタが一番素敵に見えました。お疲れ様、ほんまに心から感謝しているのよ」

「そんなに褒められたら、恐縮しますわ。そやなあ、今日ぐらいは、予算の件は言わんときますわ」

 京都市の中心部は、碁盤の目のように入り組んだ通りや路地、人が往来する歩道があり、至る所でコンビニエンス・ストアやスーパーマーケット、土産物店、ナイトクラブ、ラブ・ホテル、旅館、料亭、寺、神社などが点在していた。夜遅くなり、ネオン・ライトがぎらぎらと輝くと、妖艶さと俗悪さの両方が際立ちつつも、町全体の持つムードは損なわれなかった。

 煌びやかな町並みの向こうに、落日が消えようとしていた。萌依たちは、北風の大きな口から吐き出されたような寒気にさらされていた。が、心の中は満ち足りていた。萌依が先頭に立つと、橇を走らせる馭者以外のメンバーは駐車場に向かった。

 萌依が声をかけると、華音は「子どもたちのあんなにも喜ぶ姿を見たのは、初めてです。テーマ・パークにいるときよりも、はしゃいでいるように見えました。ほんまに、ここで働けて嬉しいです」と、笑顔を見せた。

 萌依は社員たちを引き連れて、倉庫に着くと一台一台の橇を点検して回った。特に破損個所は見つからなかったものの、荷台に小銭入れが一つと、化粧ポーチが一つ置き忘れられていた。サンタやトントゥやルドルフに扮した者たちは、私物の大半をロッカーに入れていたので落し物はその二つだけだった。

 気が立っていたので、様々な光景が思い浮かんだ。神経が興奮しているので、すぐには眠れないのを予想していたが、枕に頭を乗せた途端、寝入っていた。萌依は、明らかに疲れていた。夢のない熟睡の後で、朝になるとぱっちりと目覚めた。

 サンタ宅配便では、二十五日の日中、子どもたちに直接手渡すコースがもっとも人気があった。が、二十四日は、本来のサンタ・クロースと同様に、夜の寝静まった町にこっそりとプレゼントを手渡すコースがメーンだった。その場合、深夜に家の前で両親にプレゼントを託す場面をビデオ撮影して、DVDを後日届けていた。

 二十六日に出社すると、南郷が社長室に来て尋ねた。

「来年から、クリスマス・イブも直接、子どもたち全員にプレゼントを手渡したらどないですか?」

「クリスマスは、イエス・キリストと聖ニコラオスにまつわる宗教神話なのよ。だから、そこは変えられないの」

 一大イベントが終わってからも、南郷のテンションは高かったが、萌依の目には、冬村が再び、現状に懐疑的になっているかに見えていた。

 仕事が終わると、打ち上げのパーティーを催した。

「来年が楽しみですわ。営業先は確保しますから、期待しといてください」

南郷は自信たっぷりに笑うと、タクシーに乗り込みパーティー会場に向かった。

「萌依社長、先に向こうで準備して待っています」

「私も、野暮用を片付けたらすぐに行くわ」

 鷹司産業のような大企業の幹部でありながら、南郷は腰が軽く、労力を厭わず、あらゆる実務に積極的に手助けした。

 三日間の大仕事が終わり、打ち上げのパーティーの席上では、サンタ・クロース・カンパニーのスタッフ全員に、海外旅行先でゆったりとバカンスを過ごしているかのような嬉しげな雰囲気が広がっていた。

 パーティーには、社員や取引先に混じって、サンタ・クロースやトントゥの演技指導をした講師も数人、呼ばれていた。

 航大と南郷がクラッカーの紐を引くと、火薬の爆裂音が響き、色鮮やかな紙テープが宙を舞った。それを合図に、各テーブルでも男性陣がテーブルに用意されたクラッカーを手にして紐を引き「パパン、パパパーン、パンパン」と、音が鳴り続けた。

 円卓の上の巨大なクリスマス・ケーキには、サンタ・クロース、トントゥ、トナカイ、もみの木などの飾り付けが施されていた。萌依が進み出て、ケーキに入刀すると、ホテルのスタッフが細かく切り分けて皿にのせ、各席に配り歩いた。

 キャメル色のコートを脱ぐと、華音はほっそりとくびれたボディラインが品よく魅力的に見えた。同性の萌依の目にも、濃紺のスーツ姿が、誰よりもよく似合っているのが感じられた。トントゥの衣装から、正装のお洒落なスーツとスカートに着替えた華音が普段よりエレガントに見えるのは当然でもあった。

 萌依も作業着姿で、橇の一号車に同乗し一部始終を見ていたが、華音のトムテ役は、素晴らしく楽しげに見えた。

 萌依は、冬村や南郷を労うために飲み物をすすめた。冬村はいつも通り、ウーロン茶を飲み、南郷はビールから飲み始めた。

 南郷の態度は楽しげだった。が、逆に時間が経つにつれて、冬村は浮かない顔をしていた。冬村が何か心配事を考えているのが分かった。

 華音は酔うと、グラスを航大の顔の前にかざし、表情を透かして見ようとしていた。

 会長派の美津江はパーティーに出席し、ワイン・グラスを片手にテーブルを渡り歩いていた。美津江は、航大が他のテーブルに移動するのを見て、華音の隣に立つと「女はねえ。綺麗なだけが、取り柄やったらあかんのよ。あなたの様な女は、そのうち、男に見捨てられるわ」と告げると、テーブルの皿からカナッペを取り、自分の口に運んだ。華音の明るく澄んだ目に、気持ちを傷つけられた表情が浮かんでいた。

 様子を見て気になったのか、隣のテーブルから冬村と南郷が華音のいる方へグラスを手にして近づこうとしていた。

 華音は言い返そうとして、明らかに我慢していた。

 美津江は冬村たちが近づくのを見て、チッと舌を鳴らし別のテーブルへと向かった。

 萌依がテーブルに戻るより早く、南郷が華音の隣に立ち「気にせんでええよ。あれは、ああいう人やから……、言われて落ち込んでも、意味がないやろ」と小声で慰めた。

「南郷部長の言う通りやわ。気にせんときね」萌依は、華音の様子を見て微笑んだ。

 ワインのボトルに手を伸ばすと、冬村は恍惚とした表情で南郷のグラスに注いだ。

「あんたは偉いなあ……、人の気持ちがよう分かっているよ」

 アルコールの飲めない冬村は、酒にではなく周囲の雰囲気に酔っているかに見えた。

「何を言っていますの、偉いのは、冬村さんあんたですわ」南郷は、呂律の回らない口調で言い返した。

「いや、偉い。あんたは、ええ男や」

 南郷は口ひげを指で当たり、禿げた頭を撫で上げると、ネクタイを正し、再び目の前のグラスに口をつけた。

「世の中に偉いのは、三人だけですわ。神様、うちのカミさん、萌依社長」

「航大社長は、どうなるのや? 誰よりも、偉いやろ?」

「あんなもんは、ほっとけばよろしい」

「ほな、航大社長に、言っておくわ」

「それだけは、御勘弁を……」

「南郷部長の貴重な意見やさかいな」

 華音は二人のかけ合いを聞いて「クスクスッ」と笑っていた。

 冬村はチラッと、力哉と青野が並び立つテーブルに目をやると「好かん人らやな。人を励ましたり、勇気づけたりできんと言うのは、人間が小さいですわ」と愚痴をこぼした。

「あいつらに、サンタ宅配便事業の邪魔をされているようなものや。来年のクリスマスにプレゼントを届けられへんかったら、失望と落胆しか、あらへんやろ」

「華音さんは、どう思われました?」南郷が質問した時、華音は青野の鋭い目つきを感じていたが、我に返り、南郷に柔らかな視線を投げかけると返事をした。

「南郷さんの意見に賛成です。来年のクリスマスは、まだかなり先ですから、今から落胆する必要はないと思うのです。何せ、サンタ宅配便のスタッフは、皆であれだけの数の子どもたちの笑顔を実現したのですから……」

 航大は、何杯も酒を飲み干し、熱心に食事をしていた。あくまでも、アルコールが主役ですべての料理は、酒の引き立て役のような飲みぶりだった。祝杯とはいえ、度を超すと悪酔いしないかと、萌依は気を揉んだ。

 萌依が、航大に近づき注意を促すより早く、華音が「ほどほどにね」と、自制を促しているのが目に入った。空のグラスを手で覆いながら、航大は「ああ、もう充分や。これ以上、飲んだら悪酔いするからな」と答えた。

 茹蛸のように顔を真っ赤にした冬村が、息苦しそうな声で「祝杯の乾杯に、失礼がないようにと思って、グラスに一杯だけ飲ませてもらいました。ですが、こんな有様ですわ。もうこりごりです。それだけ、私も嬉しかったのです」と、打ち明けた。

「しばらく、身体を休めてください」萌依は告げると、ホテルの会場スタッフに、胃薬を持ってくるように依頼した。

 ワイン・グラスを片手にのんびりと周りを見回していた力哉が、会場の演壇に立ち、マイクを握ると、和気藹々としていた賑やかなムードが一変し、パーティー会場は一瞬にして沈黙に包まれた。

「帰りが遅くなるさかい、そろそろお開きにせえへんか」と、力哉は呼び掛けるとスーッと壇上を下りた。

 パーティーが終わり、萌依が外に出ると、肌寒い風が頬を撫でた。腕時計は午前零時を過ぎていて、街の上空は暗闇に包まれていた。航大は酔いが回ったのか、ぼうっとした表情で身体をふらつかせながら外へ出て来た。華音は、航大の後ろでパーティーの参加者に挨拶していた。

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