第4話

 航大が庭に出て来た。六月の晴れ間に、紫陽花が花弁をほころばせている。クリスマスまでの半年間で、解決すべき案件はいくつもあった。二人は家の中に戻り、しばらくして昼食の席に着いた。

 萌依がキッチンで温めたばかりのスープをお玉で取り分けていると、窓の向こう側に人影が見えた。オリーブの木の茂みで半ば陰になった場所を池の方に歩くのが分かった。サンチョは、航大のすぐそばでフローリング床にのんびりとした様子で寝転んでいる。犬の鋭い嗅覚でも、外の人影には気づいていない様子が分かった。二人は侵入者に気づくと、神経を集中し、意識を外に向けた。

 人影が再び動くと、エゴノキの細い枝が折れたのか、パキッと音を立てた。萌依の合図を受けて勝手口から忍び出ていた航大は人影に近づいて、中年の女と、目出し帽を被った怪しげな二人の人物を捕らえた。人影の正体は、美津江と部下の若い男だった。

 咄嗟に青野の顔が、萌依の脳裏に浮かんだ。今すぐに電話して、こう告げるべきか――ええと、今、お宅のぼんくら社員が、勝手にうちの敷地内に忍び込んでいるのですわ。どないしたら、よろしいですか?――まさか、その通り電話するわけには行かなかった。

「ここで何をしているのや」鋭い口調で、航大が問い詰めたものの、美津江は頬を膨らませたまま黙っていた。

「人の私有地や。それも、君が勤める企業の社長宅やぞ。忍び込んだ目的を話せ」

 美津江の顔は見る間に青ざめていた。部下の男は、俯いたまま黙っていた。

「何とか言うたら、どないや」

 後ろ盾に、力哉や青野の存在がなければ、美津江がこんなにもふてぶてしく振る舞えないのは明白だった。

 家から萌依が出てくると、美津江は観念したように「ある人物から、様子を見てくるように言われたのよ」と開き直った。

「誰や、ある人物言うのは……」

「それは、口が裂けても、言われへんわ」

「警察に、通報してもええのやで」

「何で、私の恩人を裏切らなあかんのよ」

 美津江は――しまった――という表情をすると、顔を横にそむけた。

 萌依は、美津江を何かと重用し続けているのが、青野なのを知っていた。

「油断も隙もないね」

「何が目当てやねん。ええかげん、白状しろ」

 美津江は問い詰められても、口を割らなかったが、航大に凄まれ「白状するまで、家に帰さへんからな」と告げられると「萌依さんがいつも、持ち歩いているUSBを盗んで来いと言われました」

「誰からや?」

「それは、私の口からは言えません」

 二人は、美津江と部下の男を渋々ながら家の中に招き入れると、長々と説教を聞かせた後で釈放した。美津江は、誰の指示か問い詰めても、首を前にうなだれて黙ったまま一度も顔を上げず、したたかに黙秘を貫いていた。

 社の内外で、監視の目を光らせ続ける油断できない者が存在するとしたら、それは青野以外には考えられなかった。青野は、上役への阿諛追従と権謀術数でのし上がってきたタイプの人間だった。自分が力をつけて社の内外で認められると、恩義がある創業一族にも牙を剥き始めていた。

 美津江も運が悪い女だ。カーテンの隙間が命取りになった。厚いカーテンをきっちりと閉めていたら、美津江は気づかれずに、家に侵入できていたかもしれなかった。

 警察に通報するのも憚られ、美津江を釈放すると、二人は家の中を隈なくチェックした。トイレや浴室、洋室二間のうちの一つの窓に、クレセント錠がかけられていないのに気づかされた。

「あいつだけは、絶対に許せへんわ」

「言うとく……、けどな。勘違いしたらあかん。青野さんは、立派な人や。俺も、青野が形勢不利になると、卑屈なまでにぺこぺこし、弱みを握ると鋭く突いてくるのを不愉快に思ったのやったら、何べんもある。そやけど、会社の不利益になる仕事や、自分の損になる取り組みは絶対にしない。小賢しいけど、見習わなあかんとこも、あるのやないか? 所詮、経営は理想だけでは成り立たへんのや。ええ、勉強になったやろ」

「うーん、どうなのやろ?」

 萌依は、航大がそこまで青野を良く言う理由をもっと知りたかった。

 航大は「経営に遊び心は、必要やと思う。そやけど、現実の経営は遊びでは成り立たない。厳しい現実の世界や」と萌依の方を見ると

「敵とはいえ、青野さんは会社の利益を考えて、ええアドバイスをくれているよ。俺は、青野さんに一期か二期なら、社長を務めてもらってもええと思っている。しかし、彼は守りの姿勢ばかりで、経営ビジョンが見当たらない。だから、俺が社長の椅子に執着せざるを得なくなっているのや」と、思いのたけを述べた。

 宗教学も、哲学も、倫理学も、ビジネスの世界では通用しない――と、青野は主張すると同時に、唯一のバイブルは経営学書だと主張していた。

 航大は、青野のそういう側面を「玄人受けする考え方なので、自分にとっては参考になる」と、高く評価していた。

――夢のない考え方だな――と萌依は、嘆かわしく思い「経営にもっとも必要なのは、明日への希望やと思う。それ以外は、付属品なのよ」と反論した。

 敵であろうと、全否定しない航大のスタンスは、外交的手腕としては間違いではないと知りつつも、萌依にはまだ真似ができなかった。

 航大はいつになく、青野を庇いながら、萌依の顔色を窺うような目つきをした。

「どうすれば、ええの?」

「ここで、根性をみせたろうや。成果が出れば、誰も文句は言わんやろ」

「精神論よりも、どうやれば、それが達成できるかが問題なのよ」

「八所を潜入させたのも、事業計画に偽りがないかどうか、調べるために、お前のパソコンからデータを盗むつもりやったのやろな」

「それも憶測やけど、その線が濃厚やね」

 二人は、不信感と疑念と失望の入り混じった不可解な感情にとらわれながら、それぞれの部屋で眠りに着いた。

 萌依はその夜、夢を見た。夢の中では、力哉、青野、美津江を中心とした会長一派が、サンタ宅配便事業に失敗した萌依を責め立て、土下座を強要した上で大きな声で嘲笑っていた。長くて辛い夜だった。萌依は、目覚めると悪夢のせいで汗をかき、ベッドが湿っているのに気づいた。

 翌日は、萌依の心を映すように曇天だった。会社に出社した二人は、昼休みを終えて戻るときに、腹立たしい出来事に遭遇した。まるで二人を待ち受けていたかのように廊下をこちらへ歩いてくる力哉や青野常務、美津江の三人とすれ違った。美津江は目を赤く腫らし、髪型が僅かに乱れていた。

「航大社長、萌依社長、おはようございます」青野はどこかしら、嫌みに聞こえる口調で挨拶し、頭を下げると、上目遣いに覗き見て、さっと顔を戻した。

「おは…よう……ございます」美津江は弱々しく、挨拶した。

「ああ、おはようさん」航大は素っ気なく応えた。

「八所さん、昨日の件は……」と、萌依が声に出すと、航大は肘を引っ張り「それは、あとにしろ」と小声で命じた。

「うちの八所が、えらい世話になったのですな」

「どういう意味なの?」

「私の方から、失礼のないように、よう言い聞かせています」

「あたりまえやないの。どういうつもり……」萌依は、思わず語気を荒げた。

 航大が、また萌依の肘をつかむと「挑発に乗るな。堪えろ」と、囁いた。

「まあ、大げさにはしないでください」

 美津江が自宅の庭に潜んでいたのは動かぬ事実だったが、本人が口を割らない以上は黒幕が誰とは特定できなかった。美津江のやった犯行と言えば、刑法一三〇条の住居侵入罪だけで、実質的な被害は木の枝を折られた件だけだった。

 狡猾な青野は言葉巧みに美津江一人に罪をなすりつけ、自分たちは知らぬ存ぜぬを決め込む構えだ。

「覚えていてね」萌依が語気を強くして、告げると

「へえへえ、よう覚えておきますわ」と、青野は馬鹿にしたような表情で立ち去った。

 長雨の続く、鬱陶しい季節にも関わらず、来客が多く多忙な一日となった。

 夜遅くなり、萌依は書斎の椅子に座り、ノートパソコンの画面を見ていた。USBメモリーに保存しておいたデータを調べて、画面に出ているクリスマス関連資料から、サンタ・クロースの情報を拾い出し、それを別のレポートに転記してまとめていた。

 サンタ・クロースやトントゥの衣装の値段や、トナカイの橇の形状、馭者に必要とされる技量まで、ランダムに集めた情報を整然と並べ替えるのは、予想よりも時間がかかった。

 階段を上る足音が部屋の前で止まり、ドアがノックされると「入っていいか?」と尋ねる航大の声が聞こえた。

「頑張っているなあ。なんか、ええ話を見つけたか?」

「今、思案中なのよ」

「俺が事業計画書を見た限りでは、上出来やな。一年目はあんなもんや」

「サンタ宅配便を稼働させるには、まだまだ、見直さなあかん面があると思うのよ」

「まあ、あんまり根を詰めんようにな。ほどほどがええ。経営者は、自分を労わるのも必要や」

       ※

 休日明けの月曜日に、宣伝用のポスターの撮影を行った。説明用のパンフレットのサンタ・クロースやトントゥは、芸能事務所の所属タレントにモデルをしてもらっていたが、評判が今一つだったので、今回は萌依が人選も担当した。

 ウエイトレスは、銀の盆を傍らに置くと、金属製のポットから二つのカップに温かいコーヒーを注ぎ淹れた。香ばしい匂いが辺りに漂った。カップの横の皿には、フィナンシェが二つ置かれていた。

 萌依はコーヒー・カップをテーブルに置き、フィナンシェを口に入れてしばらくしてから、華音に話しかけた。

「写真撮影の件なのやけど……。華音ちゃんに、トントゥ役でモデルになって欲しいと思うてるねん」

「この間、見たら可愛らしいトントゥさんが大勢いたのに、私を選んでくれるのは、何でかしら……」

 華音がびっくりしたような顔をしたとき、萌依は説明した。

 トントゥは、フィンランドの森の中の小屋に住む可愛らしい妖精たちで、人の暮らしを支え、サンタ・クロースの手伝いをするための役割分担が明確に決められている。ある意味で、トントゥはサンタ・クロース以上に重要な役どころだ。華音のように、品よく、美しく、気遣いのできる個性は不可欠と言って良かった。

 中でも、しっかり者のトムテ役は華音のイメージにそっくりだった。萌依は、華音の顔を観察するようにじっと見ると

「トムテにぴったりな上品な雰囲気では、他の女の子とは別格なのよ」と明かした。

 華音は、明るい表情をすると「分かりました。萌依ちゃんの頼みなら断られへんし……」と、はにかむように承諾した。

サンタ・クロース・カンパニーの社長に就任してから、周囲では彼女を萌依社長と呼んでいた。唯一の例外として、華音は「萌依ちゃん」と呼ぶのが許されていた。

 ポスターの出来栄えは、サンタ・クロース・カンパニーの誰もが感心するほど、見事だった。クリスマスが一年の内でも特別の日であり、サンタ・クロース伝説の魅力や子どもたちの喜ぶ姿がうまく演出されていた。なかでも、妖精トントゥたちの中心に立つトムテ役の華音は可憐で、誰もが足を止めて見直すほどの見栄えの良さだった。

       ※

 サンタ・クロースとトントゥや赤鼻のトナカイのときめきの物語を――萌依は、大人になった今でも、ありありと想像できた。豊かな暮らしはファンタジックな空想癖を生み出し、生活に夢と潤いをもたらしていた。

 冷蔵庫の中は、いつも十分な食糧で満たされ、冷暖房完備の部屋の中は季節を問わず、快適に過ごせた。萌依は時折、恵まれた自分の境遇を後ろめたく感じていた。弱い立場の人に、優しく救いの手を差し伸べた、聖ニコラオスの愛の物語に自分を重ね合わせる営為こそが救いでもあった。

 サンタ・クロースと共に仕事をしたい――という子どもじみた願いは、萌依にとっての悲願となっていた。

 萌依たちは十四階のエレベーター・ホールで上りのエレベーターを待ったが、すぐには来そうにもなかった。萌依が促すと、のろのろと南郷は、華音のあとから階段を上った。十六階の資料室には、航大が待っていた。

 南郷がデスクトップを開き、業務日誌を書いている間、華音はぼんやりと窓の外を眺めていた。膨大な資料を整理して、サンタ宅配便の可能性を検証した。華音には、先入観なしに第三者としての意見を求めた。

 稼働時間をどうするか、サンタ・クロースやトントゥたちの衣装や、橇の飾りつけ、得意先への告知手段、広告宣伝、安全管理など、多方面にわたり、意見が出されたが、最終的な判断は萌依に委ねられていた。

 何度も資料を検証し、意見が交わされて方向性が決まると、営業強化のために萌依は南郷とともに足繫く出かけた。

 駐車場に停車していたポルシェのハンドルを握ると、萌依はアクセルを踏み素早くクルマを発進した。クルマに乗ると暑さでむんむんしていた。席に座ると汗が噴き出したが、窓を開けて走り、熱気を外に逃がし、再び窓を閉めてからカー・エアコンが効き始め、涼しくなった。

 萌依は、手を伸ばすとバック・ミラーの角度を変えて、そこに映る自分の顔を確認した。営業先回りで外出する機会が増えるうちに、日に焼けて見えた。夢の実現のために、なりふり構わず努力して来た自分には、もう後戻りができなかった。

 クルマを下りて、会社のビルの正面まで来たときに「朝から、萌依社長にご同行願いたい先があるのですわ。よろしいでしょうか?」と、南郷が尋ねた。

「今日なら、都合がつくから大丈夫よ」

 エアコンのきいた事務所を出ると、二人はふたたび暑い日差しの中に出て駐車場へと急いだ。太陽は青い空や白い雲と同じ上空にあった。真夏の太陽は、うんざりするほど暑く、萌依の頭上に射るような日差しを叩きつけていた。

 クルマを走らせて向かったのは、いずれも南郷が開拓した営業先だった。南郷の紹介を受けるたびに、萌依は笑顔で応接し名刺交換をした。たいていの場合、好意的な反応が返ってきたが、時に虫の居所が悪いのか、横柄な態度で臨む相手先もあった。

 聞いている者が、これはつまらないとか、たいして魅力的ではないと、疑いを差しはさんだ時、萌依はサンタ宅配便の素晴らしさを説明するのに、写真などのビジュアルに訴求する資料を使った。

 終日、営業先回りに付き合って責任者と会話するうちに、萌依にも取引先のニーズが理解できるようになった。

 萌依は、営業周りで聞き及んだ内容をまとめて、サンタ宅配便事業に生かす方針を立てた。一.クリスマス・プレゼントの斬新な渡し方には、好意的な反応があった。二.得意先の多くは、マーケティング調査による正確なニーズの把握を望んでいる。三.コスト負担増は望まないが、それ以上の見返りがあれば利用したいと考えている等々……、これらは、額に汗を流しながら、南郷と同行したので判明していた。

 萌依は、各先ともサンタ宅配便の宣伝効果を勘案して、ノー・リスクならロー・リターンでも利用したい考えだと、分析した。

 冷蔵庫からキンキンに冷えたアサヒ・スーパー・ドライのロング缶を取ってきた航大は、キッチンを出てダイニング・ルームに移動すると、グラスにビールを移し、口をつけた。テーブルの前に腰かけて「今日は、鷹司産業の仕事で頭の中が溢れ返りそうやから、他の件は考えたくない」と、萌依が話しかけるのを避けるように答えた。

       ※

 パブの店内は、ちょい飲みや軽食のために訪れた客で賑わっていた。南郷はビールを飲み終え、手を上げてもう一杯注文した。

 しばらくの間、有線放送から流れる音楽を聞きながら、楽しく飲んだ。酔いが回ったのか南郷が、カウンターの内側に入り、グラスにビールを注ぎ、店員に向かって「勘定はちゃんと、つけといてください」と、大声で伝えた。

 店員は顔なじみの南郷の悪ふざけに、苦笑いを浮かべながら、渋々のように「分かりました」と返答した。

 店内は、冷房がよく効いていて涼しく、心地いい時間を過ごせた。狭いパブなので、店内はさほど混んでいなかった。よく冷えたビールと枝豆、ペッパー入りチーズがテーブル席に置かれ、六人で歓談した。

 ビールの次に、水割り、さらに日本酒という具合に、アルコールの量が増えると、六人は本音で遠慮なく話し始めた。

 会話の内容がクリスマスとサンタ・クロースの話題なのは、猛暑の日の夜にはそぐわないので、萌依は周囲の客の視線が気になった。

「今日はね。皆にクリスマスに関する夢を話して欲しいのよ」

「今のタイミングで、仕事の話はどうなのでしょう?」冬村が疑問を呈した。

「私は、優れたアイディアは、職場のデスクの前や会議室で出てくるとは、思うてないのよ」

「こんな暑い日に、クリスマスの話題をしても、ピンと来ないのは分かるよ。仕事は仕事やから、想像力を駆使して乗り切らなあかん」

「トナカイの橇も、雪の積もるもみの木も、思い浮かべなあかんのですか?」南郷は首を捻りながら、妙案を思い浮かべようとしていた。

「オーストラリアでは、毎年夏のクリスマスをお祝いしているわ」

 南半球のオーストラリアでは――十二月二十五日は真夏なので、クリスマス・ツリーにも、雪をイメージした綿を飾り付けない――と、萌依は側聞した記憶があった。

「そうそう、固定観念を捨てて、何か意見を言ってくれへんかな」

「玩具の宅配便だけに、こだわらずに大きなイベントを企画したらどうでしょう?」

 華音は、大きな目を輝かせて提案した。

 不充足感は、人々を行動に駆り立てる。多くの人がミステリーに出てくる名探偵に憧れるのは、不正行為に不満を感じ、悪人を糾弾したくても、非力な自分にはできないので、夢を探偵に託しているからだ。

 萌依の考えでは、サンタ宅配便によって子どもたちの正体不明のサンタ・クロースに遭えない不充足感を解消し、将来への大きな望みにつなげたかった。

 ビールで乾杯を終えると、航大は一息にビールを飲み干し水割りを注文した。航大の隣席の冬村は、対照的にちびちびと、グラスをなめるように飲んでいた。

「本来、私はアルコールが苦手な質でして、いつも一杯だけいただいたら、ウーロン茶にしていますねん」

「サラリーマンの楽しみの一つがないやなんて、冬村さんは気の毒な人やわ」

「お蔭さんで、ウーロン茶を飲む楽しみは、他の人よりもよう味わっています」

 航大は、濃い目の水割りに軽く口をつけると、カラカラと氷の音を耳で確認した後で、ぐっと飲み干した。

 具体案は出なかったものの、仕事中と異なりアルコールが入ると、意見そのものが四角四面にならなかったので、萌依は雰囲気を存分に楽しめた。

 パブから出ると、タクシーが待っていた。萌依は、北山に行ってくださいと言うと、正確な自宅の住所を伝えた。運転手は不愛想な男で、行き先を告げた後は、何も話しかけて来なかった。

「営業成果は、上々ですわ。もうあと、半月もすれば宅配先のノルマは達成します」

「よう頑張って、くれはったなあ。南郷部長の実力は本物や。他の者とは、腕が違うねえ」

「恐縮ですわ。皆、夢に向かってまっしぐらですわ。仕事がこんなに楽しいなんて、変ですかね?」

「変ではないよ。慌てず、さぼらず、熱心にやってくれているのは、感謝しているのよ」

 酒杯を重ねるうちに、社員間に連帯感が生まれビジネスに生きてくる――というのは、萌依の方針ではなく、航大の意見を受け入れていたが……、予定した通り、確実に結束が強くなっていた。

「ほな、皆、帰り道は気を付けてね。明日も頼みます」

「萌依社長、ありがとうございます」

「俺には、感謝の言葉はないのかな?」航大が、とぼけた様子で確認すると、冬村は

「私らは……、萌依社長の部下ですさかい、勘弁してください」と応じた。

 航大は、気を悪くするどころか、それを聞いて爆笑していた。

 北山に戻り、萌依は運転手に料金を支払うと、航大と一緒に家の中に入った。

 翌日、眠い目をこすり出社すると、萌依はさっそく社員の意見を検証してみた。だが、画期的と言えるほどの現状打開策は、誰の口からも出てはいなかった。

 萌依は、席を立ち社長室の窓のそばに近づくと、椅子の背やデスクに強い陽ざしが当たらないようにブラインドを閉じた。デスクに戻ると、今日の会議に使う資料の見直しをした。実りのない会議を重ねるのは、無理と無駄のある愚行だ――と、萌依は考えていた。

 会議が始まると、会長派の役員たちは、いつもと同じスタンスで臨んできた。くどくどとした質問、あてこすり、嘲笑を戦術のごとく使うと、揺さぶりをかけ、戸惑う様子を楽しむ算段に思えた。長い時間が無駄に過ぎて行った。

「質問の範囲と、意図を明確にしてください」萌依は鋭く、青野や美津江の顔を見ると、矢継ぎ早に出てくる質問に対して、反論するだけではなく、逆質問で臨んだ。

 会議のムードを変えるため、萌依は事業の別の側面に切り込んだ。力哉が不満に思う点――事業採算性の確実な裏付けがない指摘について、逆に質問を重ねてみた。

「鷹司産業の事業はすべて、採算の裏付けがあったんですか?」「例外が認められるとしたらどんなケースでしょうか?」「初年度は赤字スタートで、その後、大事業に発展したものは何もないと、思われているのですか?」

 青野は、攻めの一手しか考えになかったのか――疑問に思う根拠――を何度も問われると、勢いを失い、しどろもどろの受け答えになった。

 力哉は腕時計をちらっと見た。

「時間が大分、押しているなあ」

 人差し指でトントンとデスクを叩くと、力哉は表情のない視線を萌依に向けた。

「今日は、そろそろ、会議をやめて次回に持ち越しにしようや。どや、社長?」

「いえ、もう少し、質問させてもらえませんか?」

「こちらに質問するより、まず尋ねた内容に答えてくれないか?」

「いや、常務のおっしゃるのも分かるのですが、質問の趣旨が明確でないと、答えようがないのですわ」

 会議室を沈黙が支配し始めると、無駄に時間が過ぎて行った。

「しゃあないな。今日は、これで……」航大が告げると、全員が席を離れ始めた。

 萌依にとって目標としているのは、人間的な成長であった。彼女は自分や周囲の人間に健全な関心を持っており、たとえ疲れ果てようとも、自分の理想を追い求めたいと思っていた。

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