第15話 料理と常識とお願い

 俺は、万願寺優という人間がよく分からなくなった。


 怪しい宗教勧誘者かと思えばそうではなく、自分の考えを押し付けてくるような自己中人間かと思えばそうでもない。


 ただ一つ言えるのは……彼女は、ハッピーエンドを目指すつもりが無いということだけだ。「人は幸せに成るために生まれてきた!」なんて月並のことを云うつもりはないが、普通・・はそれを願わずにはいられないはず。



――普通。



 常識とは、18歳までに身に着けた偏見のコレクションでしかない。


 そんなアインシュタインの言葉を借りるのならば、その普通もまた、偏見なのだろう。


 そして、そんな偏見を持つ万願寺は今、キッチンでなぜか、偏見を持つ俺のために夜ご飯を作っていた……。


「お前、もしかして最初からそのつもりだったのか?」


 制服の上からエプロンを付ける万願寺に問いかけると、曖昧な返事のあとで照れ笑いが返ってきた。


「まあ、ね? 最円くんが料理してるのは分かってたからさ」

「わかってた……?」

「お弁当が手作りだったから」

「ああ、そういうことか。よく見てるんだな?」

「よく見てるっていうか、気になっただけかな? 家に親がいないのに手作りなのは、もうそれしかないし」

「言われてみれば、確かにそうか」


 それから万願寺は、手元へ視線を戻してしまった。


 正直、代わりに料理をしてくれるのはとても助かる。全身の筋肉が疲労で弱っているため動くのもきついうえに、そうでなくとも普段から料理は悩みの一つだった。


 もはや授業のノートなんて目じゃないほど、それは感謝すべきことではある。


 キッチンからは包丁が野菜を切る音と、鍋の沸騰音だけが微かに聞こえた。


「もしかしてさ、いつも一限に遅れてくるのって妹さんのため?」


 不意にキッチンからそんな質問がとんでくる。


「ん? ああ」

「やっぱりそうなんだ?」

「なんだ。それもお見通しなのか」

「遅刻するのにお弁当が手作りだから、家の用事なんだろうなって思ってただけ」

「なるほど……」


 それからまた、料理の音だけがしばらく続いた。


「家の用事だったらさ、もっと早くに登校できない?」

「桜が起きてくるのが七時半なんだよ」

「桜ちゃんを起こせばよくない?」

「俺の都合で桜に無理をさせたくない」

「じゃあ、食事を作り置きしておくのは?」

「昼はそうやってる。だが、朝までそれをするつもりはないな」

「なんで?」

「なんでって、可哀想だろ」


 休み時間に弁当を食べているとき、ふと思ったりする。今頃、桜も昼飯を食べているんだろうか、と。


 誰もいない家の中で、ひとり机に座って食事をする桜。その光景を想像すると胸が痛んだ。


「可哀想ってさ、それ最円くんが勝手に思ってることじゃない?」


 それは、さっきの意趣返しなのだろうか。


 万願寺は動きを止めることなく、そんな皮肉を言ってきた。


 確かに……俺は桜に対し、一人で食事する気持ちを聞いたことはない。


 しかし、そんなのは関係なかった。


「俺が可哀想だと思うから一緒に食事してるんだよ。それに、それが勝手な想像だからこそ、俺の都合を桜に押し付けたくないんだ」


 桜をもっと早く起こせばいい、それが出来ないなら作り置きしておけばいい……。そんなのは、とうの昔に考えたことだった。そして、そんなを思案をしてもなお、それを選択できなかったからこそ、俺は一限目を切り捨てると決めた。


 万願寺の問いはもはや、愚問でしかなかった。


「でもさ、今のままじゃ良くなくない?」

「良くないな。だから、次の投票で元のクラスに戻らないといけない」

「戻れるの?」

「わからない。たとえ戻れなかったとしても、今の生活サイクルを変えるつもりはないな」


 それに万願寺はしばらく黙っていた。やがて、小さく「そっか」と呟くような声が返ってくる。


 その時、炊飯器が炊きあがりを知らせる音を鳴らした。


「……もうすぐできるよ」

「そうか。じゃあ、桜を呼んでくる」


 そう言って、俺はリビングを出た。


 万願寺がどういう人間なのかよく分からないが、考えてることは容易に想像できた。おおかた、俺の境遇を理解した気になって不憫だとでも思っているのだろう。



 そんなことは全然ないというのに。



 だが、それをわざわざ言ってやる必要はなかった。


 俺がどんなにそれを否定したところで、万願寺がそう思ってしまう気持ちを変えることはできないのだろう。


 俺も万願寺も、頭の中で考えることはただの偏見だ。偏見は、分母を揃えることも単位を揃えることもできない。小学校で習った算数と同じ。人の価値観は、比べることができなかった。


 もしも、それを揃えることができたのなら、俺たちはきっと追放されてはいない。誰もが考えること、誰もが感じること……そんな大衆の価値観に準ずることができなかったからこそ、俺たちは価値なしとされたのだから。



 ◆



「おいしい……」


 そんな桜の感想に、俺は危うく箸を落とすところだった。


 おいしいなんて言葉、桜の口からは久々に聞いた気がする……。


「冷蔵庫に入ってたものだから、ありあわせだけどね?」


 万願寺はそう謙遜してみせたものの、わざわざ食べるまで待っていたところを見ると自信はあったのだろう。


 それは水炊き鍋。


 彼女の言う通り、冷蔵庫のなかの余り物で作った料理ではあったものの、ダシがとてもよく効いている。


 もちろん、これまで桜は「おいしい」と言わなかっただけで、俺がつくった料理が不味かったわけじゃない。


「本当に美味いな」


 万願寺の料理がよく出来すぎているだけだ。


 しかも、桜が言葉をどもらせなかったということは、顔色を窺ったお世辞じゃなく、心からの感想に違いない。


 だから、俺は驚いたのだ。


「なぁ……万願寺」

「なに?」

「たまにでいいから、飯をつくりに来てくれないか?」


 そして、気がつけば彼女にそんなお願いをしていた。


「えっ!? それって、どういう……」


 戸惑う万願寺を前に、俺は箸を置く。


 すこし唐突だったかもしれない。だが、桜を「おいしい」と言わせた人材をここで逃したくなかった。


「金なら払う。軽いバイトだと思って料理をしにきてくれ」


 俺が楽をしたいからじゃなく、桜を楽しませたいから。


 そのために膝に手をついて頭をさげた。


「……」


 万願寺は何も言わない。……やはり、いきなり過ぎただろうか。


「あ、いや……、その……別にお金とかは要らないんだけどさ……」


 顔を上げると、彼女は口元に指を押しあてながら口ごもっていた。


「毎日じゃない。負担にならないよう暇なときでいい」

「その、時間とかも……別に大丈夫だと思うけど……」

「料理をつくるのは好きじゃないとかか?」

「嫌いじゃない……けど」


 彼女の返答は、どうも煮えきらない。どう断るべきか迷っているのだろうか?


「イヤならイヤでいいぞ? これは、あくまでもお願いに過ぎない」


 そう促したら、間髪入れず首を横に振る万願寺。


「その……イヤじゃ、ない……」


 そして、やはり口元に指を押しつけたまま、そう言って声が小さくなっていく。


「オッケーってことでいいのか……?」


 確認したら、彼女は一拍置いてから、小さくこくりと頷いた。


「ありがとう」


 その返事に心底ホッとして、また頭をさげる。


 それから顔をあげて桜のほうを見ると、呆然としたまま俺と万願寺を眺めていた。


「い、いひひ!」


 それを誤魔化すように桜は笑った。


 それに俺も笑みを作って返す。


 桜が何を思ったのかは知らない。むしろ、それを知ったところで、俺が桜に向ける表情が変わることはない。どんな反応をされたにせよ、きっと俺は笑みを返すはずだ。


 なら、それを訪ねることに意味なんてなかった。


 桜が「楽しい」と言ったら、それだけで幸せになれた。


 桜が「悲しい」と言ったら、それだけで絶望できた。


 何が楽しいだとか、どんなことが悲しかっただとかは理解を深めるための説明にすぎない。

 


 だから、俺は桜が「おいしい」と言った事実だけがなによりも大切だった。

 


「――じゃあ、またね」

「ああ。またな」


 食事の後、玄関で万願寺を見送るとき、彼女はどこか浮かない顔をしていた。


「どうした?」

「いや、なんでも……」


 さっきとは様子が違うことに違和感を覚えていると、万願寺は靴を履いてから、躊躇ためらいがちに口をひらく。


「あのさ、食事をつくりに来てほしいっていうのは……桜ちゃんのため、だよね?」

「当たり前だろ?」


 他に何があるというのだろうか。


「だよね、うん! それだけだから!」


 それから急に笑顔になって、ばいばいと手のひらを俺に向けてから、万願寺はドアを開けて出ていく。


 そして、ガチャンと扉は閉まった。


「……なんだったんだ」


 その笑顔が、咄嗟にこしらえた作り物であることに俺は気づいていたものの、やはり、その理由を知る必要はない。


 俺は疑問のまま、その場に取り残された。

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