第2話

 運命の日、僕は今回の実験の意義と重要性について、資料を元に説明した。当初は、いったい何人の人たちが、研究を理解できるのかと危ぶんだが、週刊誌の特集記事が出てからは注目を集め、僕らが成し遂げようとしている事の重大さに、関係者の大半の人が気づいていた。

 研究所長の吾妻博士は、分厚い実験室のドアを開けて中に入った。天井は高く、室内は幾つものデスクが配置され、上には数台のパソコンが載っていた。さらに、各種の計器やレバー、ボタン・スイッチのついた機械、配電盤、作業台の上には複数の大きさの違う工具箱があった。

 大きな窓の下には、部屋から一階分の段差がある作業室が見えた。そこには、溶液の入ったプールがあった。中百舌鳥製薬からは、米田博士が様子を見に訪れていた。 

「驚きましたね」と、米田は大げさなジェスチャーをした。

 作業服に着替えて、スニーカーを履いた米田は、手渡された資料に目を通し、各種の動物のフェロモン物質の化学構造式をチェックし、目の前にあるコンピューターのディスプレイを見て感嘆の声を上げた。

「ほほう。ここまで、完成度の高い実験装置をつくられるとは……」と、下の作業室の様子を見た。

 米田は、瓶底渦巻きメガネの奥の目を光らせると、野江の方に向かって「実験の作用機序のデータがとれれば、一刻も早く見せて頂きたいですな」と伝えた。野江が頷きかけたとき、吾妻所長が横から「勿論、そうさせて貰いますよ」と補足した。

 作業室のプールは三つに仕切られていた。一つはブタの実験用、もう一つはチンパンジー用、あとの一つは人間用だった。人間用の溶液プールが何故必要なのか、僕と野江が吾妻所長に尋ねたところ「トップ・シークレットだよ」と返答を拒んでいた。

 だが、米田博士に対しては「夫婦の倦怠期の解消や、用い方によっては、他の処置と併用して性機能の改善にも役立つでしょう」と説明した。

 野江は「人間に対する実験は、どんなふうに進めるのでしょうか」と、しきりに首を傾げていた。

 野江の疑問を聞き流し、吾妻所長は米田博士を相手に「生物史に残る実験結果を今日、あなたの前でお見せすることになるでしょう」と自信満々に告げて、顔色を窺った。

 米田は「理論的には明快かつ、確実性の高い方法であるのは、先ほどから資料を拝見し実感しています」と頷いた。

 吾妻は「いわゆるフェロモン物質の匂い付けと、理想の雌性を惹きつけるタイプのMHC型に体質の転換を行う。つまり……」

「あなたは、各動物によって、理想の雌性は異なる事実を指摘したいのでしょう? ブタは肉質、サルは知性、サラブレッドは脚質のすぐれた個体を生み出すのに、適切な組み合わせを考えている」と、米田は言葉を引き継いだ。

 束の間、僕の頭の中に嫌な予感が走った。もし、実験が失敗したら費やした時間や経費のすべては無駄になった。僕らは実験への期待感と知的快感に酔いしれていた。そこに、何か問題点はないのか――。 

 野江は、僕の不安そうな表情を見てとって「大丈夫よ、なるようにしかならないわ。今更、心配しても仕方がないじゃないの」

 その時「しかし、遅いな」と、吉岡主任は不満を言葉にした。

 初回の実験動物のブタとサルの到着が遅れていたのである。ちょうど一時間前に「道路が渋滞しているので、三十分遅れる」と、連絡があった。それから、さらに三十分が経過していた。

「なあに、心配などいらないよ。ここにある実験装置も綿密な計画も逃げはしない。何なら夜中までかかって実験したっていいから」と、吾妻は自信たっぷりに嘯いていた。

 渋滞の原因は、朝から降り続く雨によるスリップ事故だった。遠くの方で「ガラガラ、ドカン」と、雷鳴が聞こえていた。また、連絡が入った。ブタもサルも、さらに一時間内外到着が遅れる。そうこうするうちに、知らない男が実験室のドアを開けて入ってきた。

 吾妻所長は「やあ、君を待っていた」と、僕らに紹介した。吾妻は「彼にヒト型フェロモンとMHCの実験の被験者になってもらう。彼の奥さんは相当、淡白なのでね。どれだけ、改善するか実験のあと、毎日のレポートを提出してもらう」

 野江は様子を見て、呆気にとられていた。僕も人間まで実験対象にするのは、この日まで聞いていなかったので複雑な心境になった。しかも、動物たちと同じ作業室でなんて、まったく――。

 正午になっても、動物たちは到着しなかった。僕と野江を実験室に残して、米田博士を含む他の面々は昼食を食べるために部屋を後にした。僕らは、隣の控え室に移り、二人だけになった。僕は愛する野江とイチャイチャしていた。時折、僕がくすぐると野江は指先の動きを感じて小さな声を出していた。

 彼らが帰ってきたので、交代で食事に行った。食堂に用意されていた幕の内のご飯は、特注で赤飯だった。静岡の銘茶のティー・バッグも、いつもの実験のときと同様に用意されていた。野江は該博な知識で、現代の日本や世界が抱える問題を力説した。

「野江博士、君にはいつも感心させられるよ。チャーミングな唇に」

「それは、いいけどね。今日の実験は絶対成功すると思う。外の天候なんか、実験室の機械にも作業室の溶液プールにも何の影響もないし。万全ね」

 だが、そこが違っていたのである。問題点は、何故、もっと電気系統に注意を払い、停電したときのための対策を立てていなかったのか? 誰も予測できなかった事態とはいえ、今になって悔やまれる。

 外では稲光と雷鳴の間隔が短くなり、徐々に雷が僕らの研究所に近づきつつあるのを感じていた。しばらく、音が鳴り止んだかと思うとまた「ドカン」と雷鳴を響かせている様な具合だった。僕らが実験室に戻ると、研究員で医師の資格を持つ盛本道造が被験者の男性に注射しようとしていた。

 まさに、そのときだった。「ガラガラッ、バリバリバリッ、ドカン」と、凄まじいまでの轟音と、振動を感じた。屋上の避雷針を直撃していた。停電のため、周囲が真っ暗になった。

 被験者の男は僕の腕を引っ張り、自分は後ずさりした。

 盛本は僕の腕に作業着越しに注射針を突き立てた。そのまま僕の腕に薬液を注入した。僕は動いて針が折れるのを怖れるあまり、じっとしていた。

 暗い部屋の中で、盛本は吾妻博士に「どうします。実験は延期しますか?」と尋ねた。吾妻は聞き間違えたのか「ああ」と生返事をした。力のない声だった。

 盛本がアンプルを右手にし、吉岡主任が懐中電灯で照らし準備したあと、注射針を被験者の男に向けた。落雷の衝撃で、作業台に乗せていたトレイが傾いていたため床に転げ落ちた。「ガシャン」と音がした。

 男は驚いてうずくまった拍子に、前のめりになったため、今度は注射針が僕の肩に刺さった。僕は「うぐっ」と呻いた。が、針は折れていなかった。

 盛本は、僕に間違って注射針を刺したのに、無頓着な様子だった。注射液のMHCの型は、被験者の男の妻に対応したと知らされていた。「今度こそ三度目の正直だ」と、また注射をしようとした。雷が今度は研究所の近くに落ちた。「バリバリバリ」と、音がした。

 僕は慌てて、そこを離れようとしたが、三度目の注射針は、お尻の肉を鋭くとらえていた。盛本が雷鳴に驚いて吉岡の足に躓いて、転びそうになった。僕は、自分の何かが変化したような気がしなかった。それよりも、作業室の様子が気になった。階段を下りて、溶液プールのヒト型フェロモンの入っているところに近づいた。

 わが目を疑った。ヒト、ブタ、サルの仕切りが電気系統の故障のため無くなり、溶液が混じってしまっていた。これでは、実験は中止せざるを得なかった。さらに、近づくと外に溶液がかなりの量でこぼれ出しているのに気づいた。僕はつるりと足を滑らせて、溶液プールの中に落ちた。

 それは、たった三十秒の出来事だった。溶液プールは、特殊な電気パルスを利用していて、皮膚の下の生体細胞膜まで液体が浸潤するよう通過性を高めていた。エステなどでやっているエレクトロポレーションを応用したものだった。プールから這い出たあと、僕は呆然自失していた。

 僕は実験室に戻る前に、控え室に入りシャワーを浴び、作業着や下着を予備のものと着替えた。ヘッド・ランプは濡れていたものの、故障していなかった。だが、これも電池を取り出し、他のものと交換した。

 実験室は昼間でも、薬品の酸化を防止するため、採光用の窓はあるもののカーテンで締め切っていた。が、相変わらず雷鳴が響いたあとで、稲光が僅かに差し込んでいた。

 ようやく、吾妻所長の許可を得て、分厚いカーテンを開けた。酸化する薬品類は保管庫に仕舞われた。しばらくして、雨が止み晴れ間が見えてきた。

 研究所員はヘッド・ランプや、手にしていた懐中電灯を作業台に置くと、顔を見合わせた。

 そこに、動物たちが到着した。「やっと、猪八戒と孫悟空のお出ましだ」と、盛本は野江に向かって声をかけた。ブタは、肉質の良いバークシャー純粋種の黒豚。サルは、ナイジェリア、カメルーンに生息しているものの絶滅が危険視されるニシチンパンジーだった。猪八戒より上等な黒豚と、孫悟空より知性の高いチンパンジーともいえた。

 実験できる状況ではなかった。この日は引き取ってもらい再挑戦に臨む事になった。ニシチンパンジーはいかにも利口に見えた。何とか助けてやりたくなった。僕の体内には、バークシャー種の黒豚と、ニシチンパンジーのオスのフェロモンが浸潤していた。が、何の異変もなく、僕は首を傾げていた。動物が檻の中からでもうなり声を上げたら、僕はすぐに退散しようと思っていた。

 落雷の衝撃で電気系統がやられ、オフィスの入り口の自動ドアの開閉さえ、ままならなくなっていた。

 吾妻所長は吉岡主任に命令して、損害保険会社に電話を入れさせていた。落雷事故に対応するかどうか、実験中の事故に該当するかどうか確認していた。尋ねた結果、通常の火災保険の適用範囲だった。MHCのアンプルは、僕が注射された三本が損失に当たった。これは保障対象になるのかどうか分からないとの説明だった。

いずれにしても、多額の損失は免れていた。

 吾妻はやっと僕の方に来て「どうだ。大丈夫か?」と尋ねた。盛本は、僕に三本もMHCを注射した不始末を告げた。吾妻は明らかに青ざめていた。

「被験者の彼のために」と、そちらを一瞥したあと

「三種類のMHCを準備しておいた。左から数えて二本はオーソドックスに作ったもの。三本目は日本女性の三割に対応している。三本の注射で五割に対応する」

「所長、じゃあ僕はどうなるのでしょう?」

「まさか、三本打つとは、溶液プールも十秒間沐浴すれば効果の出る計算だ」

 僕らの話す様子を横目に見て、MHCの被験者は「もうこりごりです」と帰ってしまった。被験者の男を何らかのかたちで傷つけたか? いや、傷ついたのは僕の方かも知れなかった。これから、どうなるのかと、思うと怖くなった。

 米田博士は「不可抗力だし止むを得ない。また、やり直しましょう」と帰っていった。白鳥取締役はどう判断するのかと、僕は思った。

 気がつくと、野江は僕の横に立って慰めるように背中をさすってくれていた。

 落雷による停電から復旧までにかかった時間は、四十分だった。それにもかかわらず、電力会社の社員が作業に来た様子はなかった。発電所から変電所を通って、研究所までの送電ルートは複数あった。つまり、送電ルートの変更が、比較的に速やかに実施されたため、復旧も早かった。

 予定通りなら、一~三回目の実験が、すべて終了する午後三時三十分になった。実験といっても、注射と溶液プールの沐浴を繰り返すだけだった。従って、事前の説明から、後片付けの時間や反省会の時間も含んでいた。同時刻までは関係者以外、立ち入り禁止だが、ちょうど三時になったあたりから、研究所の周りにジャーナリストたちが集まり始めていた。

 会議室に集まってきたのは、総勢で三十人だった。全員が記者ではなく、生物学者や中百舌鳥製薬のライバル・メーカーの薬剤師や薬学博士も訪ねて来ていた。彼らは、実験結果を知りたがった。中には大学の研究所で「サーベル・タイガー復活プロジェクト」の陣頭指揮をとっている報道等で有名な、田所英光教授の姿も見受けられた。

 吾妻所長は「皆さん、お集まりいただいて恐縮です。が、落雷などのアクシデントで実験は順延になる予定です。研究所の損害額は些少のもので、次回の実験で予想どおりの結果を説明できるものと確信しています」と、ゆっくりとした口調で話した。

 突然の停電のときの様に、うろたえてはいなかった。もともと、今回の実験が成功したか否かは、即日に分かるものではなかった。だが、訪ねて来た学者や記者連中は、一刻も早く成否の雰囲気を感じ取り、次の展開に備えたかった様子だった。

 吾妻は記者たちに「匂い付けに例えると、蕉風の俳句を思い出す向きもおありでしょう。しかし、それが情趣を表現しており、実際の匂いを伴わないのと似ていて、フェロモン物質は、嗅覚レセプターに作用するものの、強い匂いがあるわけではありません」と説明していた。

 野江は「順延になったから、早く皆さんを帰してあげればいいのに……」と、呟いた。

 盛本は「僕も同感だよ。でも、あれも所長の道楽だからさ。大目に見ておこうよ」

 僕は心なしか、身体にだるさを感じていた。外来者が出て行ったら、この日は定時の五時三十分には研究所を出て、早く自室で一人になりたかった。僕はこれから起こる凄まじいまでの異変に、気がついていなかった。

 しかし、何かがおかしいと思ってもいた。まったく、身体の様子が変質しないとも思わないが、同時に極端なものでもないと、タカをくくっていた。

 年の瀬が近く、町の中はざわついていた。電車から降りると、コートに身を包み、肩をすぼめて行きかう人の群れの中を通り、僕はやっと一人暮らしのアパートに戻ってきた。

 毎年の十二月二十七日まで実験をするのは、国立生化学研究所の慣わしだった。特に関係者の耳目を集めるような画期的な研究をこの時期に予定していた。それは、吾妻所長の宣伝戦略だった。大晦日のテレビ番組では、ここ数年「今年の国立生化学研究所の実験では……」と紹介されていた。サイエンス誌の新年号にも常連として掲載されていた。

 そんな甲斐あって、企業などのスポンサーも増えていた。

 仕事納めは毎年、二十九日で正月の三が日までが休み。四日から企業への年始の挨拶周りを実施していた。つまり、後二日すれば年末年始の休暇だった。いや、二十九日は大掃除だけで半ドンなので、実質一日仕事をすれば羽を伸ばせた。

 僕は頭がのぼせ、汗びっしょりになり、苛立っていた。僅かな吐き気も感じていた。だが、明らかに病気のために苦しんでいる自覚はなかった。アパートの自室に入ってすぐにトイレのドアを開けた。便座にしばらく、腰を下ろした。やや、気持ちに落ち着きが出てきたものの、頭の奥の方に今まで感じた経験がないような違和感を覚えていた。

 洗面所で水道栓をひねり、冷たい水で顔を洗った。すぐにタオルで拭いた。頭痛薬を所定の量だけ飲んでみた。鏡に自分の姿を映してみると、まだ汗をかいていた。風呂場に入り、浴槽にはつからずにシャワーだけ浴びてみた。

 汗が引き、頭の具合も良くなったものの、心臓がどきどきしたり、息が苦しくなったり、手足が震えたりし始めた。狭い自室が何故かふいに怖くなり、アパートの外に飛び出したくなった。アパートの中は空気が冷たくて、居心地が悪かった。エアコンの温度を高めに設定し外へ出てみた。

 いつもよく見かける猫が、僕の革靴に一瞬飛びかかろうとして身構えていた。だが、僕の視線を感じて断念した。猫は今まで耳にした記憶にない声で「ミャー」と鳴いていた。

 夕食のために、近くのファミリー・レストランに入って注文した。抜群のプロポーションのウエイトレスが席まで来ると僕を見て微笑んだ。目の奥がきらりと光り、心地良さそうな表情を浮かべていた。

 ウエイトレスとは、レストランに入ったときに僕と目が合っていた。眉毛を上げて、悪意のない心理状態を示すように口元をゆるめていた。いつになく、親しみのこもった声で話しかけてきた。何かが変化しつつあった。

 オムライスが運ばれてきた。身体の不調から回復し、空腹を感じていたものの、まだ大食する気がしなかった。食後もコーヒーを飲む気がしないので、胃にやさしいミルクティーを飲んだ。店内は、ほぼ満席で、客の半数が女性客だった。僕は異変を感じていた。強い恐怖心に襲われた。

 それは――店の女性客の大半と店員たちが、僕の方を見ていたのが原因だった。当初、後ろの席に誰がいるのか、と思い振り返ってみた。だが、有名人らしき人物は見当たらなかった。ひょっとすると一見、凡庸そうに見える――、後ろのスポーツ新聞を広げているサラリーマンっぽい人物が、実は知る人ぞ知るような偉人か?

 しかし、疑問はすぐに氷解してしまった。女性たちの視線は、すべて僕をとらえていた。そんな様子を勘違いしたのか、一人の少女が僕に「ここにサインして貰えませんか?」と、大学ノートの表紙を指差した。

「ファンなんです」

 いったい何のファンだと首を傾げていると「検児さんですよね」と尋ねてきた。

「違うよ」と僕は首を振った。僕は過去にも、漫才トリオのリーガル判児、検児、法児の検児に似ていると指摘された。そんな風に話したのは、たった二人だけだ。僕は似ているとは思わなかった。

 リーガルズの三人は、そろって法科大学院の修了生で、判児と法児は弁護士になり、イケメンでもっとも人気の高い検児は、受験に失敗すると早々に再挑戦を断念し、タレント業に専念していた。彼らは「誤認逮捕で六人逮捕! それってびっくりだよねー、だよねー」のギャグで一躍有名になった。

 だが、十月頃に彼らの所属する弁護士会からクレームがつき、進退を迫られる展開になった。誰もが法律家を目指すと信じた。しかし、大半の予想を覆し、彼らは根無し草のような芸能活動を継続する方を選んでいた。法律家や学者、評論家の批判にさらされたものの、逆に人気はうなぎのぼりになり、テレビの出演依頼が殺到した。

 それと引き換えに、法廷や法律のあり方を揶揄した漫才は禁止され、今では社会風刺ネタが主になっていた。

 だが、彼らの動向よりも、僕には目前の状況が気になっていた。僕は異変が、実験によるものだと確信した。吾妻所長の診立てでは「ちょうど、二十四時間が経過した明日の昼頃から、体調に何らかの変化が現れる」との話だった。吾妻は目測を誤っていた。

 サインをせがむ少女は、中々引き下がりそうになかった。僕は少女の差し出したノートを手に取ると「裕司」と字体を崩して書いた。少女は「やっぱり、そうだった。サインを変更したのですね」

 店内の客のうち十人が僕の席に来た。しまった――と、心の中で悔やんだ。が、こうなると仕方がなかった。「裕司」「裕司」「裕司」「……」と一人ひとりのノートにサインした。中には色紙を持っている女性もいた。色紙には「○○さんへ」と書いてあげた。経営している喫茶店の壁に飾るそうだ。携帯電話で写真も撮られてしまった。

 気がつくとウエイトレスどうしが、いさかいを始めていた。聞こえてくる会話は「私が水を運ぶ」「いいえ、私に行かせて」と、バーゲン・セールの死闘を彷彿とさせる声で争っていた。二人の視線の先には、僕が存在していた。

 食事を終えてレジで支払いを済ませ、店を出ようとすると二人のウエイトレスと目があった。「有り難うございます。またお越しください」と、紋切り型な口上の後で一人のウエイトレスが「絶対よ」とウインクした。

 店を出てしばらくして、後ろを振り返ると数人の女性が僕のあとをつけていた。目と目が合うと皆、にっこりと笑った。アパートまでの道を十五分歩いた。もうあと、二分ほどで着くときに、背後の様子を見ると女性たちは四十人前後に増えていた。

 時折、聞こえてくるのは「キャー」とか「ステキ」と叫ぶ声ばかりだ。中には「あれって誰だ」とワケも分からないままつき従う女性までいた。ただし、適齢期のうら若い女の子だけではなく、中年女性が六、七人、初老の女性が二、三人、年齢不詳の老女が一人混じっていた。

 やっと、アパートに着いたのでドアを開けて、素早く中に入り後ろ手に閉じると、すぐにカギをかけた。僕はパニックに陥りそうになった。心臓が激しく鼓動していた。不定愁訴ではなく、心理的な要因だった。部屋の中は、暖房が効いていた。だが、女性たちの変貌ぶりに怖くなっていた。

 携帯電話が鳴ったので、出てみると野江の声が聞こえた。「どうしたの? 何度も電話しているのに……」見ると、着信履歴に三回も野江の名前が表示されていた。

「身体に異変を感じたので、ちょっと外の空気を吸いに出て、食事をして今、帰って来たばかりだ」と、言い訳がましく説明した。しかし、この状況をどう伝えるのが妥当なのか思いつかなかった。

 僕はこの様な激しい変化は一時的なものに過ぎないと自分を宥めた。考えてみれば、実験は被験者の男性とパートナーの関係良化を目的とした処置に過ぎなかった。動物実験の方も、それぞれ繁殖が目的だった。所定の量より多く注射し、長く沐浴したとしても、僕自身の罪ではないが、どこか背徳の匂いがした。

 野江には心配をかけるまいと思い、たった今起った状況については説明しなかった。窓の外を見ると女性たちの様子は、三階の部屋からもはっきりと分かった。窓の近くに立つ僕の姿を見つけた途端に「キャー」と叫ぶ声がした。

 いったい何事だと思ったのか、二階の住人が窓から顔を出してキョロキョロしているのが見えた。

 異性にチヤホヤされるのが、どんな状態なのか、僕は実感として分からなかった。もし、僕が「女の子に好かれて困るけど、どうすればいいか、何か名案はないか」と、相談したとしたら、イヤミな男だと嘲笑されるか、単なるジョークとして聞き流されるのは予測できた。

 ドアに鍵がかかりチェーンをかけているかどうか確認し、畳の部屋に布団を敷いた。しかし、これほどまでに、長い一日があったものか? 洗面所に行って歯を磨き、口を濯いですぐ布団の中に潜り込んだ。疲れがたまっているのに、神経が冴えて眠れなかった。

 いつの間に、眠っていたのか知らないうちに――、朝が訪れていた。目が覚めたのは午前八時五十分。中野区のアパートから、国立市の研究所まで五十分かかった。九時までに出社するのは不可能だった。

 昨夜、セットした目覚まし時計が鳴らなかったのは、僕が疲れのせいで無意識に止めていたのが原因だった。カーテンを開けると、東から差し込む朝日をいつもよりも眩しく感じた。

 研究所に電話を入れてみた。受付の女の子は「まだ、朝礼が済んでいないので、所長は席に戻っていません。あと、二十分後に電話してみて下さい」と伝えた。野江も吉岡も空席だった。

 全身がだるかった。窓の外を見ると、昨夜僕のあとをついてきた四十人のうち、十五人近くがいた。冬の夜を一晩、凍えながらアパートの前に張り込んでいたのか? 中高年の女性の姿はなくなっていた。僕の住む中野区は、都内でもっとも人口密度が高かった。三十万人の人口の中で、世帯の半数は単身者で、二十代の女性が多く住んでいた。

 僕はここに住んだ当初は、新宿にも近く、なんて住み心地の良い場所だと思った。だが、逆に、この状態が続くと、どんな展開になるのか、不安が僕の心を鷲づかみにしていた。だが、妙におなかがすいていた。あいにく、朝食用のトーストを切らしていた。そこで、アパートから徒歩五分のところにあるコンビニに行った。

 ドアをそっと開けた。そこには人影はなかった。アパートの前に出たところ、女性たちは一斉に動き出した。僕は百メートルを十秒台後半で走る実力があった。マラソンに出場したときは、二時間四十五分でゴールした。高校、大学と通じて陸上部に所属していた。走り出せば、女性の集団をうまく振り切れると踏んで、走り出した。

 早く走れば走るほど、太った女性や年輩者が脱落していくのが分かった。

 睡眠不足による眠気と、身体のだるさに抗いながら僕は遮二無二走ってコンビニに着いた。トーストに食パンを入れて焼く手間すら面倒な気がした。袋入りのロールパンとパック牛乳を買った。さらに、変装するためマスクを買った。レジで清算しようとしていると、追いついた四人の女性に囲まれていた。

 僕は状況判断に努めた。とにかく、冷静に考える必要があった。

 少なくとも僕は、いきなり抱きつかれたり、口づけされたり、やたら身体にべたべた触られたりはしていなかった。じっとしていれば、嵐が過ぎ去るのが分かった。僕がもし堅固な建物なら、壊されずに生き残れた。動かないでいても、大きな傷跡を残さずに済むと、考えていた。

 恐怖にとらわれて、自分を見失ってはいけなかった。女性に思いを寄せられるのは、男なら誰でも羨ましがるような状態ではないかと、思っていた。しかし、事態はそう甘くはなかった。

 四人のうちの一人が、周囲を構わずに僕の右腕に抱きついて来た。娘は、僕の好みのタイプだった。柔らかな感触が心地良かった。何とかしたい衝動に駆られた。店内の客の目は男も女も皆、僕の方を見ていた。

 突き刺さりそうな視線に委縮して「助けてくれ。いや、お願いだから、やめてくれ」と、声が喉の奥の方から出そうになった。そんな愚行は、無駄な悪あがきに過ぎず、かえって注目を集めるだけだった。

 僕は乱暴な男にいきなり襲われたとき、パニックになる女性心理が生まれて初めて理解できたような気がした。僕は男だから妊娠しない。さらに、男だからたいていの女よりも力が強かった。しかしながら、夥しい数の女が僕の後を追いかけて気はしまいかと思うと、底知れぬ恐怖を感じた。

 気がつくと、コンビニ店内にいた七人の女性のうち、五人が僕の方をうっとりと見ていた。皆、何故かどちらかの肩が下がり、身体のバランスが僅かに崩れていた。右腕に絡めてきた女性の腕を振りほどくと、僕はコンビニ店内の男子トイレに駆け込んでいた。

 こんなときは、男子トイレは避難するのにうってつけだった。女人禁制の修行場のような気さえしていた。ここでなら、監視されずに変装ができる。僕はポケットに入れてきたサングラスをかけ、マスクをつけた。そのときは、これが効果をもたらすのか不明だった。

 僕を求めて追いかけてくる女たちは、嗅覚レセプターに、MHCや雄性のフェロモン物質を感じて、反応していた。

 こんなところで、いつまでも時間を過ごすわけには行かなかった。そろそろと様子を見て、トイレから出て、コンビニ店内からも脱出した。するりと、忍び足で抜け出したつもりだったが、目ざとく見つけられ、また追いかけられた。僕の敵は特定できなかった。つまり、大勢の女が反応し、追いかけてきた。

 アパートに帰ったときは、女性の集団は六十人に膨れ上がっていた。ドアを開けて、部屋の中に入ろうとしたが、つけてきた女たちがなだれ込んできた。恐るべき状況になっていた。

 通りを駆け抜けて、アパートの一室に入るまで、僕は少女を中心とした女性の群れに「ケンジ、ケンジ」と名前を呼ばれ続けた。自分でも、もしやと思ったが、素顔のままよりもサングラスとマスクをつけた方が、リーガルズの検児っぽく見えた。コンビニのトイレの鏡で目視確認したところ、まるで検児が変装している姿に、錯覚するから不思議な気がした。

 部屋の中になだれ込んできた女たちは、僕を揉みくちゃにした。耳に熱い息を吹きかけ、両手はそれぞれ左右にいる女が握り締めていた。後ろから、ギュっと抱きしめてくる娘もいた。「死んじゃうじゃないか」僕はありったけの声を込めて叫んでいた。

 頭の片隅には妙だなと感じる、言葉にならないイメージがあり、そいつが、グワーッと膨張しつつあった。女の群れは足の踏み場もないほど、アパートの一室を占領していた。恐怖感を払拭し、精神集中するために目を閉じてみた。僕の様子の変化を見て、彼女たちは少しだけ身体を離してくれた。

「きゃみたち」言葉がもつれてしまった。「いや、君たち、僕は漫才トリオのリーガル検児じゃない。平凡な一市民に過ぎないよ」

 入り口付近にいて、表札で僕の名前を確認した少女が「ケンジじゃなくて、この人の名前はユウジ」と、告げると即座に「ユウジ」「ユウジ」「キャー」と口々に叫んでいた。

 僕の何が魅力的なのか、彼女らは気づいてもいなかった。僕は、華麗なステップでダンスを披露してはいなかった。いや、そんな芸当はできなかった。マイク片手に熱唱したり、名演技で涙を誘ったりしたわけでもなかった。さらに言うと、リーガルズの話術を真似て、満場の観客を爆笑の渦に巻き込んだわけでもなかった。

 つまり、考えたくはないが、僕の魅力には実態がなかった。とにかく、落ち着きを取り戻す必要があった。いつかの新聞記事では、コンサート会場で将棋倒しになった女の子が重傷を負った事故が書かれていた。過去には、何かのイベントで群集に押しつぶされて何人もの観客が帰らぬ人となった事件があった。

 僕は「皆さん、落ち着いてください。怪我人を出さないためにも注意して、僕に何をして欲しいのですか」と、大声で指示した。小声だと、彼女らの声にかき消されるところだった。すると、一人の筋肉質で図体が大きい女性が、周囲を押しのけて進み出た。スカートをはいているが、どこか男っぽかった。まるで、見た目は女子プロレスラーだった。

 風貌に似合わない女らしい声で「裕司さん、これ受け取ってください」と手紙とプレゼントをくれた。女子プロレスラー風の女が昨日のファミレスにいたのを思い出した。五番目にノートにサインしてあげた相手だった。「キャー、裕司」と、声はますます大きくなった。どこか、陰湿な嫉妬心を含んだ嫌な感じの声だった。

 このままの状態が続くと、間違いなく不祥事を起こすのが分かった。研究所にも遅刻した理由を連絡しないといけなかった。それよりも、一刻も早く野江の声が聞きたかった。僕はぞっとしていた。野江もこうなるのかと考えると、正気ではいられなかった。

 それは、僕がそれまで望んできたモテモテの理想状態だった。しかし、こんなかたちで実現したくなかった。早く現状から逃れ出たい。一心にそう念じていた。

 僕は中野区のアパートの自室にいた。しかし、目の前に展開しているのは、いつも見る光景とは明らかに異質だった。狭い部屋の中で、女の子たちは甘い声を出して、こんな僕にでも迫ってきていた。人間は、理知的動物だ。それにもかかわらず、僕に積極的に接近してくる女性ほど本能に支配されていた。

 僕はいったい何者になろうとしているのか、何処へと向かおうとしているのか、自分に問いかけてみた。僕がもし、背中に翼の生えている天使なら、あるいは仏道修行を達成した菩薩なら、聖人君子の類だとしたら、決して取り乱さず、彼女らを教え導けた。だが、僕は誘惑の甘さと、現実のほろ苦さの間で葛藤し、迷いに迷い、頭がくらくらしていた。

 ポケットの携帯電話が鳴り出した。両手を左右から握り締められているため、手に取れなかった。「ちみたち」言葉が声にならない。「ちょっと、携帯電話がかかっている。出て話がしたい」

 声は哀れみを誘うに十分なほど、情けなくも弱々しかった。左にいる中年女性は、ホステスのような派手な身なりをしていた。中年女性は「ねえ、あなたにあげたいものがあるのよ。今度、家に来てくれないかしら」と耳元でささやいた。

 右の女子大生風の美人は「私にキスして、ほんのちょっとでいいから、頬に触れてみて」と誘惑してきた。僕は自分が詐欺師のたぐいか、さもなければ変態じみた破廉恥な男に思えてきた。この状況で、研究所での出来事を一から説明し、すべて納得させるのは不可能だった。もし、理解できたとしても、中の大勢の女たちは、行為でそれを示してくれそうにもない状況だった。

 僕はここで死ぬのか? 僕の人生をそっと振り返ってみたとき、何故もっと人に優しくできなかったのか、何故クラスメイトのあいつと喧嘩してしまったのか、もっともっと、やっておけば良かった、身の処し方をいくつも思いついた。人に十分な施しをして、禁欲的で志の高い生き方をしていたらと、考えると悔やまれた。

 彼女らは、僕を愛する気持ちを言葉にしても、暴徒の凶暴さで、腹にパンチをめり込ませたり、股間を蹴り上げたり、虐待を目的にしてはいなかった。少なくとも、僕を憎んではいなかった。落ち着いて考えると、すぐ死ぬ可能性はないのが分かった。

 僕らがいた十畳のダイニングには、テーブルや椅子や簡易ソファがあった。そこに四十人の女性たちが 押し合いへし合いしていた。床がミシミシと音を立て始めた。こんなに大勢が集会する部屋なら、構造的に補強が必要だった。一人一人の女性がもっと、冷静なら、気持ちをそれぞれ聞いてみたくなった。

「何故、見ず知らずの僕に好意を寄せてくれるの」とか「僕のどんなところが好きなの」とか「もしも、僕と二人でデートするとしたら、どんなところがいいの」と、尋ねたかった。周囲を何人もの頭越しに見回したが、それは、聞き出せそうもない――と、思っていたとき、パトカーのサイレンの音が聞こえた。

 パトカーは、アパートの前に停車した。

 僕は変な集会を催し、風紀を紊乱したかどで警察官に逮捕されるのか――誤解を解く手立てが思いつかなかった。 

 警察官は二人いた。玄関のドアからあふれ出した女の子に何か質問していた。ざわついていた部屋の中が静かになった。外の声に耳を傾け出したのが気になる様子だった。警官の一人は「中で何をしているのですか」と尋ねた。聞かれた娘は「さあ、何だろ」と答えていた。

 すると、もう一人の警官が険しい口調で「目的は何なのかと聞いている」と問いただした。「私にもよく分からないのです。裕司さんが素敵な人なので、ここに来て……」

「つまり、部屋の主は芸能人なのか」警官は続けて尋ねた。「歌手、俳優、それとも、いったい何をやっている人だ?」

「それが、よくは知らないのです。最初はリーガルズの検児さんかと思ったのですが」

 僕が彼女らを誑かして、何か良からぬ所業をやっていると、邪推されなければいいが――服装が僅かに乱れてはいたが、少なくともここで妙なパーティーをやっていた様には見えるまいと考えた。集まった女性たちにしても、そうは見えなかった。

 よく見ると、ズボンのファスナーが半開きになっていた。いつ開いていたのか気づかなかった。左右の二人が僕から少し、身体を離した隙に慌てて上げておいた。一縷の希望を無闇に捨て去るほど、僕は愚か者じゃなかった。警官たちがうまく、中の女たちを誘導して煉獄から救い出してくれないとも限らない――むしろ、それを期待した。そう思って、サングラスとマスクを外し、髪のセットを改め、シャツをピンと伸ばしておいた。

 警官は女性たちを左右に分けて、部屋の中に入ってきた。僕の方に近づいてくると「ここで、何をやっているのですか」と、部屋をぐるりと見回した。とにかく、空虚な説明のために時間を割きたくはなかった。

 僕はとっさに「この娘たちと、ここで親睦会をしていたのです。予定していたより、大勢が集まり過ぎちゃって、立錐の余地がないとか、芋を洗うような混雑とは、この事でしょうね」

 民法九十条では「公序良俗違反」について定めており、強行規定もあった。しかし、ただ単に人が多く集まっているだけで、逮捕者が出るわけではなかった。刑法違反はしていなかった。僕は、女の子に手を出してはいないし、それに、ここで乱闘騒ぎがあったわけでもなかった。

 免許証や、研究所の身分証明書を見せて、僕が普段どんな日常生活をしているか伝えた。すると、警官は「大家さんから、通報を受けて来ました。ここで騒ぎを起こさないためにも、早々に退去してください」と、威厳のある大きな声で指示してくれた。

 それと同時に、女性の群れは部屋を出て行き、アパートを去っていった。二人の警官は、全員が出て行って、姿が見えなくなるまで見送ってくれた。

 やっと、助かった。僕の目に、ジワーッっと涙が浮かんでいるのが分かった。しかし、僕の症状はいつまで続くのか分からなかった。これから、何があるのか知る手立てもなかった。絶望と虚無に立ち向かうには、野江の存在が必要不可欠だった。良からぬ連想に終止符を打つには、切り札として野江がいた。

 この状況から一刻も早く脱出し、酒を飲みダンスを踊るがいい――と、僕は自分を励ました。希望の灯火は、国立市にある生化学研究所にいて、天使のように微笑んでいるに相違なかった。そう思い直して、研究所に電話してみた。

 暖房を高めに設定していたため、部屋の中は熱気を帯びていた。研究所に電話を入れてみた。すると、いつもの受付の女の子が出て「皆、あなたの状態を心配しているわよ」と、所長室につないでくれた。

 吾妻所長は「ほほう、そんな展開になるとは。じゃあ、研究所まで来るのは難しいな。しばらく、有給休暇をとればいい。くれぐれも、無理しないでくれ。年末だし、対処できるのは一月になってからだ」と電話を切った。予想していた通り、すぐには解決できそうもなかった。

 僕はまだ、事態の全容が飲み込めていなかった。つまり、この後どんな変化が起りそうか、いつまで続くのか、解決の糸口をつかむために何をどうするか、何も見えていなかった。愛する天使に電話してみた。野江に対しても、所長に報告したのと同じ内容を話した。

 野江も困惑していた。野江は「できる限り克明に日記をつける。何か必要なものがあれば携帯電話に連絡する。近寄ってくる女性には、決して乱暴しない。相手の気持ちを宥めるつもりで接する」と僕に指示した。「所長にもうまく説明し、研究所でのあなたの立場を悪くしないために、交渉しておく」との話だった。

 少し元気が出てきた。それに前向きな気持ちにもなった。だが、いつ僕のアパートに来てくれるのか尋ねても明言してくれなかった。「先に解決しておかなければならない一件がある」としか答えなかった。野江は利発だが、冷徹なタイプではなく、僕の窮状を見て放っておけるわけがないと思った。

 僕の心と身体を凍りつかせていた呪縛から、気休めではなく救いの手を差し出してくれるのは、吾妻でも吉岡でもなく、やはり野江しかいなかった。ぞっとするような話だが、浮名を流すのを怖れるあまり、女を遠ざけ続けると、性的不能になる可能性があった。そうならないためにも、野江の胸の谷間や腰のくびれや、色っぽい唇は必須項だった。

 しかし、僕の考えの正当性をどうやって証明し、どんな風に告げるのか深く考える必要があった。僕がこうしている間に、愛しの野江が、他の男の胸に抱かれる光景なんか、おぞましすぎて、思い浮かべる気にもならなかった。世界は相変わらず闇に包まれており、人間の心底には残酷な魔物が住んでいた。

 こんな状況が続くのなら、僕の新たな存在意義をどう確立し、何を拠り所にし、心の愉楽を求めたものなのか見通しが立たなかった。僕は決して、不老不死の妙薬の屠蘇を飲んだわけではないのだった。ずっと、こんな生活を続けるわけにはいかなかった。

 あれこれ考えているうちに、また気が滅入りそうになった。僕は、まるで金魚鉢の中で泳いでいるかのような錯覚に陥った。どこまで遊泳しても、どんなに喘いでも、女たちは性懲りも無く追いかけてきた。本来なら喜びに満たされるケースが、苦痛に思えてきた。

 僕は一日を生きているのではなく、明日を思い煩い、一週間後に思いをはせ、一カ月後、半年後、一年後、数年後と徐々に想像を膨らませていた。

 女たちに思慕されるのが悩みであり、たまらなく嫌だと話すと、そんな馬鹿なと、男なら大抵、不審がった。僕は野江に心から惚れていた。いや、惚れているなんていう安っぽい言葉ではなく、大好きだった。いや――愛している。恋している。二人の将来を夢見ている――、僕の心の中を説明できるのは、そんな言葉だけだった。

 一月になって出る研究所の結論を待つ前に、怯えるのをやめて、何か手を打たなければならなかった。また、空腹感が僕を襲った。ろくに睡眠をとらずに考えたせいなのか、正午頃には腹ペコになっていた。僕は、またコンビニへの道を走ろうかと思った。耳を澄ますと、オートバイの「バリバリバリッ」という、音がだんだん近づいてきた。アパートの前で止まると、部屋にツナギの服を着て、茶髪に染め抜いた女が、七人ドアを蹴って入ってきた。

 僕は、気が立っていたためか、二つのミスを犯していた。一つはドアの鍵のかけ忘れで、あとの一つは年末なのに、食糧の買いだめをしなかった怠慢だった。二日間でスーパーに出向く機会はあった。なのに、行かなかった。それが、修羅場を招いた。目の前にある危機をどう乗り切るべきか、科学者の頭脳の見せ所だった。

 女たちは暴走族のレディースだった。リーダーの女が鼻を僕の鼻に近づけて、くんくん匂いを嗅ぐマネをしたあと、サッとしゃがみ込み僕のズボンのベルトをスーと抜いていた。僕は女たちに何をされるのか、直感した。が、予想は見事に外れていた。リーダーの女は「あたいらの仲間に何した。部屋に入った後、サツが来て追い払われた」と凄んだあと、僕のベルトを輪にしてパチン、パチンと弾いた。

 また、僕に顔を近づけてくんくんと鼻をヒクつかせた。それが影響したのか、鋭い目つきがトロンとしたと思うと「あたいとドライブしてくんないかな」と口説かれた。ベルトを振り回し、殴るそぶりをしたあとなので、後ろの六人はジョークかと感じた様子だった。一斉にずっこけていた。が、七人中五人は同様に「キャーキャー」と叫び始めた。 

「良く見りゃあさ。あんたって、可愛いよな」。

 何故か、後の二人は息巻いていた。とっさに、実験日の吾妻所長の言葉を思い出した。吾妻によると、MHCは日本女性の五割に対応していた。だが、身体にはフェロモン物質も浸潤していた。七人中五人に影響が出ているのは、七十一.四%だった。

 統計値としては、サンプルが少なすぎるが、それまで目にしてきた光景を思い出すと何か、符牒の一致を見たような気がした。

 半径何メートルまで効果があり、どんな理由で反応に差が出るのか? そう思っていたら、僕にプレゼントと手紙をくれた女子プロレスラー風の娘が舞い戻ってきた。周囲を見回すと「おいおい、おめえらウダウダ御託を並べると、ひっぱたくぞ」と、仁王立ちし睨みをきかせた。

 レディースたちは、すでに戦意を喪失していたため、くるりと身体を反転させて帰っていった。「裕司、絶対、あたいらとドライブしような。今度来て、連れ出すからな」と去っていった。

 図体の大きな娘は一人で残っていたが、僕には甘ったるい声で「また、手紙とプレゼント持って来ちゃったあ」と明るく微笑みながら、置いて帰っていった。律儀な娘だった。中には、十人分の手紙とプレゼントが紙袋に入っていた。友達から預かったと話していた。

 意を決し、年末の買出しに出かけた。そうしないと籠城できなかった。

 そろそろとアパートを抜け出して、周囲の様子を見てみた。警官に追い払われたためなのか、女性たちの姿は、すぐ近くには見えなかった。しかし、スーパーまでは徒歩で二十分もかかった。僕のクルマはスーパーの僅かに手前の月極駐車場を借りていた。だから、必然的にそこまでは自力で行かなければならなかった。

 僕が歩き出すと、すれ違った女性の大半は何らかの反応を示した。あっと、驚きの表情を見せる者や、目の輝きが変化する者、肩をすぼめて女の子らしく見せようとする者など多様だった。が、振り返ると、僕の後ろについて来ていた。

 三~五メートル後ろの女性たちは、皆、僕の後姿の腰から尻のあたりを見ている気がした。僕が振り返ってじっと見ると、すぐさま視線に気がついて、顔を赤らめる女性も多かった。ずっと、ついて来られるのも困った。何度も、騒動になっても災難だった。

 スーパーの店内は、年末の買出しのために訪れた主婦が通路のあちらこちらに散見できた。僕ははっとした。つまり、老いも若きも僕の後についてくる女たちは、すべて独身と錯覚していた。全員が彼氏のいない娘ばかりだと――。そんなわけがなかった。勘が正しければ、彼女らの恋人や夫たちから恨まれる展開も予見できた。

 どんな手を尽くすべきなのか、熟考を要した。変装しても、匂いを感知された。アパートのパソコンでネット検索したところ、通販サイトでパーティー・グッズとして着ぐるみが販売されていた。着ぐるみを着ていたら、女性の嗅覚レセプターを刺激しないのではないかと考えた。

 年の瀬なのですぐに注文しても、正月明けでないと届かなかった。そこで、スーパーを出た後、駐車場まで走り、通販会社には、クルマで出向いた。

 スーパーのビニール袋を両手に提げた僕は早く走れなかった。手ぶらの女たちをうまく撒けなかった。クルマに乗っても、女性たちは「キャー」と叫んでいた。

 まるで、誰かに助けを求めている声だった。追っ手を振り払い、クルマを走らせた。僕のクルマのナンバーをメモしている娘が十人いた。女の執念は凄まじかった。惚れられる男になりたいと考えて、歌やダンスのレッスンに、明け暮れる連中の気が知れなくなった。

 通販会社のビルに着いたのでエレベーターに乗り、事務所がある三階に行った。受付に頼み込んで現金払いで着ぐるみを買いたいと伝えた。

 事務員の女性は、僕を見て「こっちに来てぇー」と可愛い声で、おいでおいでとばかりに手招きしていた。事務員は小さなメモに自分の携帯番号とメール・アドレスを書いて「連絡してね」と優しそうに笑った。倉庫に行くと、いくつもの着ぐるみがあった。

 ウサギやリスは、僕には似合わないし照れくさかった。ディズニーキャラのプルートかグーフィーを購入するつもりでいた。忘年会シーズンなので、宴会用で人気商品だった。あまり、パッとしないのが残っていた。僕の身体のサイズに合うのは「赤頭巾ちゃん」に出てくるオオカミのようなやつだけだった。牙をむき出しにしていてみっともないものだった。

 だが、僕には無いよりはましだった。五万円を支払って購入した。これで、誰も僕だとは気づくまいと思った。

 通販会社を後にして、クルマに乗り今度はスポーツ用品店に行った。ここでは、股間用のプロテクターのファール・カップを購入した。万一のときのためだった。

操は守り通さなくては――。

 また、クルマに乗りアパートへ向かって発進した。駐車場に戻ってすぐに、クルマの中でオオカミの着ぐるみに着替えた。周囲の目が気になったが、逆に連中は、僕が誰だか分からなかった。

 オオカミの着ぐるみは、一見して滑稽な感じがした。目つきは鋭いのに間が抜けていて、長くて赤い舌は、顎のあたりまで、だらしなく垂れ下がっていた。一人では着ぐるみのファスナーをうまく上げられなかった。

 そこで、駐車場にいた男性を見つけて「イベント会場に行く途中なのですが、後ろのファスナーを上げてくれませんか」と頼んだ。

 最後にオオカミの頭部をかぶった。思ったよりも、視野が狭くて動きにくかった。

 オオカミは、蟹股で爪と牙がやたらと長かった。これを着ると、どんなイケメンでもひょうきんに見えるのが分かった。中の男が誰なのか、どんな風貌なのか、分かるとしたら変に思えた。全体の雰囲気からすると「ガオーッ」と吠えても、とんまに見えるため、笑いを誘った。

 さらにいうと、両手を挙げてグッと構えて睨みつけたとしても、子供をあやすようなムードが滲み出ていた。

 着ぐるみを着ていると、全速力で走れなかった。かぶり物が重いので、首を動かしてさっと声がした方を見るのも困難だった。アパートまでは歩いて帰った。年頃の女性は、あまり近づいて来なくなった。親に連れられた幼稚園児や小学生らしき子供が、僕の身体をポンポンと叩いてきた。中には拳骨を当てる子供もいたが、小さな手で触れられても大して痛くはなかった。

 女子高生が五人、向こうから歩いてくるのが見えた。慌てて走り出さず様子を見た。が、「キャハハッ」と笑い「変なのがいるよ」と指差すと、僕の様子を「へんてこオオカミ」と名づけて通り過ぎて行った。しめたっ――これなら使えるぞと思った。

 それにしても、オオカミのいでたちでスーパーのビニール袋を手に持つ姿は異様だった。袋から、大根とネギが長く伸びて 突き出ていた。僕は、へんてこオオカミに相違あるまいと思った。着ぐるみを着ると汗だくになるイメージがあった。

 予想に反して寒くて仕方がなかった。オオカミの着ぐるみは、ダウン・ジャケットとセーターを脱いで、ボタン・シャツの上に着ていた。

 女たちは、後ろからついて来てなかったものの、アパートに到着した頃には身体が芯まで冷えていた。アパートの通路にはプレゼントが二百個近く置かれ、郵便ポストからあふれ出した手紙は三千通を超えていた。部屋に入って気がついたが、奥の方に何故かサイズの違う女物の下着が十五もあった。

 部屋の中は冷え切っていた。エアコンの温度設定をしながら、着ぐるみを脱いでシャツの上にセーターを着込んだ。チャイムが鳴ったので開けてみた。外には野江が立っていた。

 野江は、僕が部屋の真ん中に持ってきていた女物の下着に目をやると口を尖らせて「まさか、こんな事態になるなんて」と唖然とし、僕をキッと、鋭い目つきで睨みつけていた。

 女物の下着の中には、特大サイズのものがあった。手にとって広げて見せると、お冠だった野江が楽しそうに笑い出した。「カバやサイが穿く大きさだね。野江の二人分の大きさかも。大勢の女の子が来たときに、感極まって脱いじゃった様子だ。気がつかなかった」

 僕は気がつかなかったけど、部屋の中では、明らかに興奮状態になっていた娘たちがいた。「今回の実験ってさぁ、女性の立場を無視した横暴なんじゃないかな。彼女らは、僕の何に魅力を感じているのか、自覚すらしていない」

「そうね、男女が逆のケース。つまり、男性を惹きつけるフェロモンの実験をして同じ展開になったら、男たちから乱暴されて大怪我している」と、野江は主張した。

 僕は首を傾げながら「僕に対しても、男が襲いかかってくるかな」

「私が想定したのは、女性被験者の場合に、男に追いかけ回されて、脅威になる事態なの。それに比べれば、女性心理は、攻撃欲が相対的に小さくて優しいから、あなたも生きていられるのよ。それと、実験は、有効だと思うわ。でも、当面はヒト型フェロモンの実験は中止する」

 野江は部屋に入ってから、クロゼットに入っている、へんてこオオカミの着ぐるみを見つけて笑うと、手紙やプレゼントの多さに驚いていた。ふと、僕はMHCやフェロモンが野江に作用していないのではないかと、勘繰ってみたくなった。

「実験前の約束を覚えているかな。無事に実験が終わったら、僕の願いを叶える約束だよ」

「それは、実験が終了するだけじゃなくて、成功した場合でしょ。それに、サルとブタの実験は年明けに再挑戦する」と、眉を曇らせた。

「僕らが、同じ夢を共有するためには、恋人として、契りを結ぶのは必須だよ」心をこめて僕は思いを告げたつもりだった。

「そうかしら」

「もし、大勢の女性から迫られながら、我慢し続けると、性的に不能になる可能性があるって知っているか?」

「ED治療には、男性の陰茎の海綿体への自己注射による方法と、バイアグラのようなED薬の併用治療で、勃起時間に改善が見られるそうよ」と野江は答えた。

 僕は野江が「陰茎の海綿体」と、話したタイミングで、僕の下半身をチラッと見て「勃起時間に改善」と言葉にしたころには、鼻息が荒くなっているのに気がついた。いつもと反応が違っていた。野江は自分の気持ちを理性で押さえ込もうとしていた。

「野江、お願いだからさ、好きだ」と、肩をすりすりと擦ってみた。

「私が好きなのは」と微笑み「あなたの頭脳でも、オトコのコのトコロでもなく、あなたのここ、つまりハートなの」とおどけた。野江は「頭脳」「オトコのコのトコロ」「ハート」と、僕の頭と、ある部分と、心臓をそれぞれ指差していた。

 僕をはっきりと好きと、告白してくれた。それまでなかった反応だった。

「言っとくけどね、野江、僕は研究所に行くにも行けない。ここで君と暮らしたい。でも、それもできない。なのに、何故」

 野江は、まるで童女の笑顔を憑依させた面様で「仕方がないわね。シャワーを浴びてくるから、歯磨きしといてね」と、浴室に行った。

 シャワーの音が聞こえてくる。こんな夢のような幸福な時間があっていいものなのか。美しくて甘い感じがする野江は、まるで南洋の果実だった。パパイア、マンゴー、パイナップル、アボガド、グァバ、ココナッツ、バナナ。空想している間に、野江はバス・タオルを巻いて、浴室から出てきた。

 だが、僕らの夢を壊すような事態が発生した。また、あいつらが戻ってきた。

 ドア・ノブの音がガチャガチャと鳴ったかと思うと「裕司」と、叫び声が聞こえた。警官たちにあれほど注意されたのに――と、思いながら、ドア・スコープから外を覗いてみた。すると、警官に追い払われた連中とは、別の女たちが集まっていた。

 ドアは中から鍵をかけ、チェーンもしっかりと差し込んでいた。僕はドアを開けて外へ出るべきか、さっそく籠城作戦を始めるべきか思案した。しかし、まずは連中を宥めようと思い「静かにしてくれー。近所から苦情が出ている」と大声を出した。

 外でざわつく声は、予想以上に大きかった。僕の声では、かき消された。彼女らが悪いわけではなかった。僕の症状が、彼女たちを惹きつけていたのは明らかだった。だが、やむを得なかった。警察署に電話を入れ「僕のアパートの部屋の前に女の子たちが集まって迷惑しているのです。何とかして下さい」と頼み込んだ。

 後ろを振り向くと、裸の身体にタオルを巻きつけていた野江は、セーターを着込みスカートを穿いていた。野江は人を魅了せずにはおかない笑みを浮かべ「ごめんなさいね。部屋は暖まってきたけど、湯冷めしちゃうでしょ」

「今の調子だと、ここを出て行くはめになるよ」

「それだけどね。冷静に考えましょうよ」

「どこでなら、安全に暮らせるかな」

「女性の寄り付けない場所は、山奥でテント暮らし、女人禁制のお寺、刑務所の中、男子校の寮、いくつも思いつくけど。そんなところで暮らせるかしら」

「まずは、無理だと思う」

「人里離れたところなら、暮らせるかな」

「いずれにしても、年末年始は大家が面倒がるから、正月明けになる」

 野江は何か思い出したのか「日記はちゃんとつけているの」と尋ねてきた。

「それは、どうでもいい」

「日記があとで役に立つかも知れないでしょ。ちゃんと数値化し、実験日からの時間経過を計算し、MHCやフェロモン物質の作用をあとで分析するのよ。ずっと、研究所に籍を置いて、外部で研究に参加している体裁にしてもらう」

「できるのかな」

「吾妻所長は、もし三カ月以上の長期欠勤をするなら減給し、六カ月を超えるようなら辞めてもらうと無茶を言うから、喧嘩しちゃったの」

「それで……」

「これは研究所での事故だし、本人の責任よりも、使用者責任の方が重い。むしろ、補償問題が残っているって指摘したら、考えてくれたの」

 外では、まだ騒がしかった。

 警官が到着し彼女たちをまた追い払ってくれた。

 籠城作戦は、正月明けで打ち切りになった。食糧がそこまでしか持たなかった。何度も買い物のために外出すると、また女性たちが殺到してきた。そうなると、アパートを出て行くのも時間の問題だった。

 夕方になったが、多忙で昼食も食べていないのに気がついた。野江は僕のために夕飯をつくってくれた。鍋の中に包丁で刻んだ野菜を入れて、水炊きした簡単な料理だった。二人でぽん酢をつけて食べた。野江が調理してくれただけで何よりも美味しかった。

 買ってきた発泡酒を注いで飲んだ。どんなレストランのどんな料理よりも旨く、どんなショーを見るよりも充実した時間に感じられた。一生、こんな満ち足りた時間が過ごせないかと思った。

 僕は、ほんの三日前までは、自分の容姿を醜いアヒルの子だと思っていた。決して、人を惹きつける魅力は感じられなかった。しかし、今は白鳥として生まれ変わっていた。ちょうど、魔法でカエルに変えられた王子が、魔法が解けてから、王女と結ばれていたのと同じだった。

 僕の状態が、幸福なのかと胸のうちに問いかけると、むしろ寂寞とした気持ちが押し寄せてくるだけだった。実験の日は、雷鳴が鳴り響いていた。過去何年間も、十二月の年の瀬に雷が鳴り響いたのを覚えていなかった。

「野江、今回の実験は呪われていたと思う。風神、雷神の怒りを買ってしまったのかも」ニヤニヤと、わざと愚かに見える笑顔を見せてみた。

「日本では、雷は積乱雲が発達する夏の現象ね。でもね、例外的に東北や山陰地方では、冬でも雷雨の日はあるようよ。あくまでも、今の時期の雷雨は異常気象のせいであって、呪いとか祟りのせいではないわよ。あまり、神経質にならないでね」と野江は心配してくれた。

 それは、僕の甘ったれた気持ちを揶揄するかのような語感だったが、深い愛情がこもってもいた。愛しの野江が帰ってしまった。また、不安感と譬えようもない寂しさが心の中を占領していた。僕は、喧騒の中の孤独を経験していた。

 僕が外出すると、また女性たちが怒涛の有様で攻めてくるのが予想できた。さらに、オオカミ男に変身すると、着ぐるみの中で寒さを我慢しなければならなかった。

 一計を案じ「ここでたむろされると、アパートおよび周辺住民に迷惑がかかります。さらに執拗に訪問が続く場合は通報し、警察官が立ち寄ります」と書いて、ドアの外側に貼り付けた。こんな簡単な方法に、どうして気がつかなかったのか後悔した。

 野江から電話がかかって来た。「また、会いに行くからね。あまり悩んでばかりいないで楽しみにしていてね」僕は悩んでいる風を見せたがらない方だった。が、野江は僕の気持ちを推し量り、ちゃんと心の内を読んでくれていた。

「ありがとう、君こそ心配しないで。こうして話ができるだけでも嬉しいよ。でも、野江、今度来るときはコートの中は、下着だけにするとかさ。ちょっとは、僕を喜ばせてよ」

「考えておく、あなたを助けたいから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る