世之介症候群

美池蘭十郎

第1話

 僕は、東京都中野区の五階建てのアパートの三階に住んでいた。築二十年のアパートは外壁塗装が剥げ、雨の日はみすぼらしく見えたので――そろそろ引っ越しをしよう――と、考え始めていた。

 事件の日までは、JR中央線の「中野駅」から満員電車に揺られて、国立市の研究所に通っていた。休日は、中野サンプラザや中野サンモール商店街で買い物をしたり、新宿や渋谷や六本木に出たりして恋人とデートを楽しむといった平凡な日々を過ごしていた。

 だが、ある日を境にして僕の経験する出来事は、奇想天外なものになった。少なくとも、僕を見てどんな風か外見だけで、想像がつくものはいなかった。部屋に入っても、僕の姿を見つけた来客は、何も変わった事を感知しなかった。しかし、僕の部屋の机の上を見ると同時に、異変に気が付いていた。

 彼らは異口同音に「一体、お前に何があったのだ」と、問いかけた。僕が説明しても、たいていの者は半信半疑だった。そこで、摩訶不思議な僕の経験について、科学者としての膨大な記録と、僕の個人的な日記帳をもとにして、事の次第を振り返った。

       ※

 手紙がおびただしい数で山積みになっていた。離れたところから見ると、分からないがすべて女の子からの手紙だった。                

 隣の部屋全体に、リボンがついたままのプレゼントの箱が、足の踏み場もないほどに溢れ返っていた。僕はタレントでもなければ、人気ホストでもなく、ついこの間までは、実に平凡な青年に過ぎなかった。

 その日も、窓の外に目をやると、無数の女の子たちがいて、僕が家から出てくるのを待っていた。誰でも、僕の住む安アパートに入る前に、かなりの人だかりを目にした。

 僕は、状況を素直に喜べないでいた。世間一般の男なら、それこそが理想だといえるような、つまりモテモテ状態だった。だが、ちょっと待って欲しい。僕は夢のような宮殿をつくり、美女たちにかしずかれて、暮らしているわけではなかった。僕よりずっと、利口で世渡りがうまく、口説き上手な男なら、誰でも酒肴と女に囲まれて暮らすのに憧れているのは知っていた。

 残念にも、僕は凡庸な人間だった。僕の名前は、井伏裕司で二九歳、研究所に勤務していることのほか、特に異性に魅力的に見える点など何もなかった。

 恋人の芥川野江は、僕の様子を最初は首をかしげていただけだった。日が経つにつれて、人だかりが増え続け、ちょっとやそっとでは、僕に寄り付けなくなった。

 野江も、アパートを訪ねて来て異変に気づいたときは、僕の浮気を疑いそうになっていた。だが、もう手紙は三千通を超え、床に転がるプレゼントは二百個、おまけに何故かサイズの違う女物の下着が十五もあった。それを見た人は慄然とし、何事があったと、疑わずにいられなかった。幸いにも、野江は浮気なんて生易しいものではない何かがあったと勘付いてくれた。

 僕が経験してきた奇妙奇天烈な有様には、誰しも好奇心を刺激されて近づいてきた。羨望のあまり、僕を捕まえて打ちのめそうとした者まで存在した。僕がこうなってからは、気の休まる暇はなかった。最善の策が、僕には何だか分からなかった。僕は、それを求めて前進し続けた。

 一刻も早く、元の状態に戻りたかった。だが、本当に安全確実な解決方法があるのか――と、迷い続けた。僕の知性や道徳観は、平均的日本人と大差がなかった。だから、そのころの僕は、記録をもとにして青春を回顧してみたり、僕の固有の哲学を語って聞かせてみたりするつもりなどはなかった。むしろ、科学者がもっとも興味を持つ、僕の症状について書くのが妥当だと思っていた。何故、僕はこんな風になったのか? それは、ある事件が関係していた。

 事件が起こる以前の二十七年間、僕は一般人とまったく変わらない人生を歩んできた。それなりに充実し、それなりに有意義な生き方だった。事態は、僕の平凡な生き様を一変させる科学的だが、愚かな出来事が原因だった。

 国立生化学研究所にいた僕は、ある種の実験に立ち会っていた。研究所の閉ざされたプールに、ほんの三十秒だけ沈められた僕は変身していた。僕の身体を構成する微細な単位から変化していた。だが、肉眼ではまったく人様と変わらなかった。

 僕以外の男でも、同じ目にあう可能性は十分にあった。人間は一律一様に同じではない。体質も、身長、体重も違う。人種も、肌の色も、思想信条も多様だ。さらに、頭の良し悪しや、趣味嗜好性も各人で違うのは誰でも知っていた。

 そんな特徴の差異があったからといっても、僕ほどの極端な違いではない。ただ、一つ言えるのは、それが僕だったから、こんな目に会ったのではない事実だった。とんでもない偶然と必然が入り混じり、賽の目は僕を選んでしまっていた。

 野江は、そばに近づくとほのかにいい香りがしていた。長くて綺麗なサラサラの髪が蠱惑的に見えたが、品よくほほ笑むと、知性が滲み出た。僕には、野江の包み込むような優しさが、誰よりも眩く、愛おしく感じられた。

 僕は、野江の魅力の虜になり、いつも視線の先には彼女のしなやかな姿があった。野江が身体の向きを変えるたびに、僕は胸をときめかせ、その姿かたちに見とれていた。後姿も、腰から臀部にかけてのラインが優美に目に映った。僕と野江は、同じ研究所に勤めていた。

 当日は朝から、珍しく天気予報に反して、大雨が降り続けていた。今、思えばそれが不吉な事件を暗示していた。だが、僕は野江がすぐそばにいて、愛想良く微笑んでいる状況に夢見心地だったせいか、まったく、勘が働かなかった。

 実験が始まる前に、たまたま控え室で、僕らは二人だけになった。僕は愛する野江の手を握り締め、そっと肩に触れたり、腋をくすぐったり、要するにイチャイチャしていた。野江は、にこやかに笑いながら、僕におしゃべりを続けていた。時折、僕の指先を感じて「キャッ、キャッ」と、小さな声を出していた。僕と野江は、環境汚染問題について話していた。

 会話は随分、硬い内容だが、僕の幸せな気分を害しはしなかった。地球温暖化による農産物、水産物などにも影響する被害予測、台風や竜巻の被害の拡大等の話題だった。僕は、政治家や事業家が自分たちの利得への執着しか眼中になく、大きな視野を持とうとしない狭い了見が原因だと分析していた。

 僕は政治家に期待なんかできないと思っていた。それに対して、野江は政治こそ唯一、世界を変化させうる力だと見做していた。つまらない話だが、それも野江の口から出た言葉だ。僕はさも感心した風に「うんうん、そうだね」と、相槌だけは、誠実そうに打っておいた。

 野江は、政治経済や科学の話を始めると、熱気を帯びた語り口になっていた。野江の美しい瞳で見つめられると、それだけで気分が浮き立つが、口調が強くなるに従って、目つきが鋭くなり、肩に力が入っていた。すると、野江の知的なムードが高まり、ますますキュートになった。

 科学者よりも、服飾雑誌の人気モデルといった感じの風貌だった。流行の洋服を着こなせば、よほどお似合いにも思えた。話に夢中になりだすと、身振り手振りも次第に大きくなり、自信に満ちていた。幾ら、眉間にしわを寄せようが、口をとがらせようが野江はますます輝き出した。それほど、美しかった。

 僕と野江の考え方、感じ方は正反対のことがあった。それにもかかわらず、僕は野江に対する関心で、心の中が溢れかえっていた。野江には、茶目っ気もあった。僕がジョークを飛ばすと、すぐに意味を理解して「アハハハ」と愉快そうに笑い出した。微妙な会話のテクニックで、僕の投げかけたユーモアに反応できた。

 僕はよく、野江に難問奇問を投げかけてみた。そうすると、野江は間髪をおかずに自分の意見を主張した。知的遊戯は、何よりも楽しかった。

 エリート大学出身の野江は、時に僕のごとき人間にも、容赦なく質問を浴びせかけてきた。現代日本の政治のトレンドや、経済学上の難点、環境汚染問題の画期的な解決策など、すぐに答える方が困難な内容を矢継ぎ早に尋ねてきた。僕は、ひたむきな視線にとらえられると、たちまちメロメロになった。

 僕が、狼狽えているのを見てとると、ニャッと笑い、わざと答えやすい質問に変えてくれた。僕は、野江の美しさと知的ムードに、圧倒されていた。ランチに誘い、夕食に誘い、映画、演劇にも出かけた。

 働き者の野江は残業も多く、自ずと土日を利用したデートが主体となった。まだ、一線を越えてはいなかった。僕らは友だちどうしとも、恋人どうしともいえた。

 野江は、僕が腋の下をくすぐろうと、肩に触れていようと、お構いなしに、知的な質問をして、自分の意見を堂々と話すのに、喜びを見出すタイプだった。幾ら、気難しく振舞おうと、野江の魅力は、僕の目にますます焼きついた。僕は、野江にとうとう「一晩中、僕と一緒にいてくれないか」と、懇願してみた。

 実際、僕らがそんな風に話すのは、野江の教養の高さと現状への不満がもとにあった。決して、政治に大きな期待をしていたわけではなく、人類の未来を楽観的に明るく捉えていたわけでもなかった。

 国立市にある生化学研究所では、野江は同僚だった。だが、三流大学大学院の前期課程を終えて、コネで入社したに過ぎない僕と違い、野江は国内トップの大学院の後期課程を優秀な成績で修了していた。要するに格が違っていた。

 研究所でも、三年先輩の僕よりもランクが二つも上だった。僕が最初にディナーに誘ったとき、簡単にOKしてくれたものの、それから一年も交際が続くとは思わなかった。レストランでは、地球温暖化の抑止策や、動物のフェロモン物質、光学迷彩素材の利用方法まで、旺盛な知識欲を武器にして、自説を論じた。僕を質問攻めにするのが野江の楽しみだった。だが、獣医学と薬学と理学の博士号をもつ野江は、修士の僕を苛めたり、からかったりしているわけではなかった。

 僕は野江の形が良く、艶かしい唇の動きを見つめながら、辛抱強く話に耳を傾けた。野江の腕に触れながら「今晩、一晩中、君と一緒にいたい」と、懇願した。その日の夜が二人の記念すべき日となった。ちょうど、クリスマス・イブだった。野江の誕生日は十二月二十五日。クリスマスに生まれたのに因んで、野江の父は最初「ノエル」と名づけるつもりだった。しかし、男性的なイメージがすると考えて「ノエ」と名付けていた。

 ホテルの一室で、僕らは過ごした。窓から外の景色は素晴らしかった。が、野江はガードを緩めず、結局は徹夜で議論する羽目になってしまった。いや、正確にいうと明け方になって、野江も僕も、シャワーを浴びたあとでほんの二時間寝ただけだ。野江は目覚めると「こんなことって、間違いだと思う」と指摘した。

 僕は「君と一つになりたい」と哀訴嘆願したが、野江は首を横に振って「実験が成功するまで待って」と宥めた。

「それだと、僕はまるで道化師じゃないか!」と抗弁した。

 自分に厳しい野江が、僕と同衾するのを拒むのは、道徳的理由でも、ほかに彼氏がいるからでもなく、一仕事終えてから結ばれたい責任感だった。

「それに」と野江は付け足した。

「欲情にまかせて、結ばれるよりもお互いの気持ちを大事にするのが、本当だと思う」と心情を吐露した。

「君の考えは分かったよ」と僕は頷きながら、野江のくびれた腰のラインに見とれていた。その様子が、反対側の鏡に映っていた。

「そんな目で、私のお尻を見ないでね」と指摘すると「分かるのよ」と、僕を叱りつけた。さらに「私が心待ちにしているのは、ラブ・ゲームよりも生化学研究所でのプロジェクトの成功なのよ」とクールに答えた。

「野江、僕は君の頭脳が優れているのも、人格的に問題がないのも知っている。それは目に見えないよ。僕にできるのは、君の見目麗しい顔立ちや、均整のとれた身体のラインをほめるのは自然なことだよ、だってね……」

「そんな言い訳はやめてね、裕司」少し機嫌を直して、僕の目を覗き込むと「それより、今後のスケジュールを確認しましょう」と言葉を継ぎ足した。

 僕はとぼけて「今週末は、そうだなあ。大晦日だし、年越しそばを食べて、ゆっくり家で過ごすよ。正月は君と初詣に行く予定だよね」と尋ねてみた。

 野江は、駄々っ子をあやす表情で、僕に視線を向けると「そうじゃなくて、明後日の実験の予定よ。ずっと、成果を楽しみにしていた」

 国立生化学研究所は、国立市にある民間の研究所で創設者の吾妻達治博士の頭脳が生み出していた。博士は分子生物学では、世界的名声を博しており、国からも多額の資金援助を受けていた。現在まで、補助金や企業からの協賛金、一部の慈善団体からの寄付金は、毎年短期間で使い果たしていた。だが、どれだけ人類に貢献したのかと考える時期が来ていた。

 世界平和には? 景気浮揚効果は? 文化の発展には? そんな尺度を用いて、計り知れない成果があったか、僕は疑問に感じていた。

 それでいて、マスコミ向けの宣伝はうまく、期待感を煽るのも巧みだった。研究所のパンフレットには、どの研究にも「一大発見」の言葉がつけられていた。

 僕と野江が関与している実験も、そんな一大発見につながる予定だった。博覧強記な野江も、研究所では分子生物学を中心にしたテーマに縛り付けられていた。僕の所得は、世間一般の企業の同年代のサラリーマンよりも幾らか多かった。しかも、上司の顔色を窺う必要も少なく楽しいと思える時間も多かった。

 しかしながら、往々にして化学プロジェクトは儲からなかった。設立当初は自由な実験が魅力の研究所も、今では企業の委託研究が増えていた。今回の僕らの実験は、それ相応の期待が持てると思われた。ただし、あの日の僕の期待は、早く実験を成功させて、野江を一日も早くわが胸に抱きたい目的があった。

 僕は、その日のためにムードたっぷりのカクテル・バーを六本木で見つけておいた。無論、アルコール類の種類や嗜み方も何冊も本を読み、知識を仕入れていた。野江はホテルの外の景色を眺めていた。JRの駅に停車する電車の様子や、乗降客が小さく見えた。

 昨夜と違って街の光は消え、太陽に照らし出されたビルやマンションが視界に入った。夜と昼とでは、違うムードが漂っていた。それは、どこか野江の持つムードにも似ていた。

 僕は野江の背中に触れながら「君に夜の街の魅惑的なムードを存分に味わってもらいたい。心ゆくまで楽しんでもらいたかった」と、気遣いを示した。

 野江は僕の声など聞こえない振りをして「今度の実験には、多くの企業の期待がかかっている」と素っ気なかった。

 今度の実験では、民間の企業だけではなく、官公庁、酪農・畜産の生産者、動物園まで幅広い業界・団体が強い関心を抱いていた。国の内外の生物学者やサイエンス誌の注目も集めていた。それは、実験の成功が僕と野江の将来にとっても、望ましいことを意味していた。

「それより、今度の実験には政治的色合いが濃くてさ。国会議員の影がちらちらと、垣間見える」と、僕は指摘した。しかし、どんなかたちで、どこが、誰と誰が関わっているのか僕にはまるで見当もつかなかった。

 野江は、さも苛々した様子で「政府から資金援助してもらっているから、政治家が顔を見せるのは当り前じゃないの。利権のためとか、じゃなくて。少し勘ぐり過ぎなのじゃないの」

 僕は少し不安になってきた。研究プロジェクト・チームでは、僕は吉岡中也主任の下でサブ・リーダーを仰せつかっていた。野江はチーム内ではリーダーの吉岡や僕に大所高所からアドバイスする立場。つまり、僕らの上司だった。

 今回の研究は、哺乳類の生殖がテーマだった。僕らは動物たちの繁殖力をアップさせる方法を実施し、絶滅危惧種の保護や家畜の量産などに役立てるのを目標にしていた。「でもさ、僕らの研究って、いつも商品として流通していく。大企業の営利目的に寄与するだけだよね」僕は懐疑的な口調で論じた。

「バカね。それが市場原理なのよ。そうやって社会が発展し、経済状態も良くなるのよ」野江は僕を揶揄した。

「そうだね。君の説明通りだと思う」僕は野江と長い時間話していると、議論のための議論をしていた。要するに、ただ単に時の権力者を非難する快感のためだった。

 僕は、野江の柔かな感じのする曲線をなぞってみたくなった。ほんのちょっと、照れながら、ちょこんと臀部に触れてみた。野江は僕の手をピシャリと払いのけた。

 ホテルの中は、エアコンが部屋を暖めていた。時折、吹き出し口から空気の流れ出る音が聞こえていた。野江は「本当は私もね、あなたが、そんなにまで求めてくる理由が知りたいの」と、微笑しながら「だって、そうでしょ。わけも分からずに、心を一つにできるかしら」野江の頭に何か別のアイデアが浮かんだのが分かった。

「そうね、あなたの愛情の深さと強さを教えてくれないかしら」

 いずれにしろ、僕は野江に何かを教えるのが嬉しかった。僕はスーツケースを開けて、中のファスナーをさっと動かし、内ポケットからノートとペンを取り出すと、イラストを描いて見せた。

「ほら、これが僕で、こっちが君だよ。僕と君の間にはこんなにも大きなハートがあるって、気がついていたかい? ハートを地球的規模、いや宇宙的規模に拡大していくのが、僕と君に課せられた使命だよ」

「少し待ってくれる? あなたの話は具体性がなくて、分からないわ。ハートの大きさはどんな風にして、証明できるの? 何か方法があるのかしら。それとも、あなたの単なる思いつきなの」

「これは単なるたとえ話だよ。でもね、君が好きなのは、研究所で血液検査してもらえれば分かるよ。ほら、こんな風にして」といいながら、野江の肉感的な太ももに触れてみた。野江は、キャハッと笑ったあと「もう、くすぐったいから。やめてよ、こらっ」と叱りつけた。

「つまり、君の太ももに触れているときの血液を採取すれば、オキシトシン、テストステロン等々のホルモンが大量に検出できる。さらに、血圧計や心電図をとれば、すぐさま分かるさ。僕の言葉に偽りはない」

「ふうん、そうなのかなあ。それを何かの実験に生かせないかしら」野江の追求が続いた。椅子に腰掛けた野江は脚をゆっくりと組み替えた。僕は見逃すまいと目を凝らした。すると「こらっ」と鋭く、短く野江は声を発した。

「今の誘惑のポーズのときでも、僕の瞳孔は、平常時の何倍も大きくなっていた。それでも、僕の君に対する愛情を疑うのかい?」

 僕は野江の肩を抱き寄せた。野江は「それで、あなたはいったいどうしたいの」

「さっきも、言ったけど」

「いいえ、それはいいのよ。どうするつもりなの」     

「君と本当の意味の恋人になりたい。一生……、いや、ちょっと待ってくれ。それも実験が終わってからにしようよ」

 僕は、このタイミングで、安っぽいプロポーズの言葉を伝えたくなかった。もっと、言葉を選んで、タイミングを見て言おうと思った。

 エレベーターで十階の部屋から七階に下りて、ビュッフェ形式の朝食を食べた。席につくと、野江はまた話を始めた。

「ところで、説明資料はちゃんと準備できているの」  

「ああ、できているよ。スーツケースに入っている」翌々日の実験前の午前十時から研究所員を集めて、説明を行うときの資料だった。

 僕らのプロジェクトでは、フェロモン物質を活用して哺乳動物の生殖機能を高める方法を開発していた。最初の実験では、ブタのフェロモンを使った研究成果を問うた。ブタのフェロモンは、ヒト型フェロモンに近似していた。卑近な例えだが、養豚場では作業員が発情した雌ブタと――、いや……それ以上の説明は無用だ。

「野江、僕が君に魅力を感じるのは、体質に由来すると思う」

 それを聞いて野江は関心を示し「私の外面とか、性質とかじゃなくて、もっと本質的なものなの」と尋ねると、ロールパンをちぎって食べた。

「実験内容とダブる部分もあるけどさ。人間の体内の白血球にあるタンパク質のMHC(major histocompatibility complex=主要組織適合抗原複合体)は、それぞれ異なっている事は知っているよね。MHC型が、自分とかけ離れたタイプの人に惹かれやすい」と僕は説明した。

 野江は「つまり、ヒトのMHCは、HLA(human leukocyte antigen)とも呼ばれていて、体内では免疫機能を受け持っている。基本的には自分とも両親とも、違うタイプのMHCの人に魅力を感じるっていう説よね」と、頷きながら答えた。

「君も知っていると思うけどさ。何故、体内にあるMHCの違いを見破って、相手を選べるか? 理由は、MHCの成分が汗に混じって、放出される作用だ。自分とかなり異なるMHCの人の体臭を気持ちいいと感じる」

「あなたは私と一緒にいるだけで、心地良い気分になれるのね」野江の瞳の輝きは増していた。

「同じ理屈でさ。君も僕といる時は心地良さを感じている」と、僕はコーヒー・カップに口をつけた。

「あなたを見ていると、気が気でなくてね。本当にそうなのかしら」と、野江は肩をすくめて見せた。

「それとね。人がキスするのは、無意識のうちに相手の遺伝子構成を吟味するためだって。つまり、人間の免疫システムが異なるため、MHCと呼ばれる主要組織適合遺伝子複合体をキスによって感じ取っている」と、僕は野江の唇を奪おうとした。

 だが、野江がふいに横を向いたため、頬にチュッと口付けた。

「それも、実験が終わってから……」と、僕を窘めた。

 あくる日の出来事だ。二人で製薬会社を訪ねるために、新宿区内の舗道を歩いていた。向こう側からビラを手にした男が歩いてきた。手渡されたカラー刷りのビラには「動物実験反対」と書かれていた。男は僕にクリップボードを手渡すと、ボール・ペンを握らせ「ここに署名をお願いします」と指示した。随分、強引なやり方だった。

 僕は自分の名前を署名した横に「絶対賛成」と書いた。

 すると男は「これじゃあ、困るのですよ」と絶対賛成の文字を二重線で消していた。

 野江は僕に「ちょっとこっちに来なさい」と、強く腕を引っ張り、道路の端の方に誘導した。

「あの人たちがどんな考えで、動物実験に反対していると思っているの」と、咎め立てた。

 動物実験を全面的に反対されたら、生化学研究所の存続が危ぶまれた。第一、旧約聖書の創世記第一章には神の言葉として「我々、神にかたどり、よく似た人を造ろう。海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」と書かれている。いわば、神様のお墨付きなのに――。

 僕は野江の険しい表情を見つめながら「何で?」と聞き返した。

 野江は「口紅やシャンプーなんかにも、動物由来成分が含まれているものが結構あるのよ。それを研究開発するたびに尊い動物の命が失われている。だから……」

「だけどね」と、僕は反論しかけて、唾を飲み込んだ。

「話してみて、あなたの意見も聞いておくわ」

「僕らは、豚肉や牛肉を夕飯のおかずに食べ、焼き魚や天ぷらを酒の肴にしている。それとどこが違う?」

「あなたは、自分を美しく見せるために、ウサギやモルモットの命を奪っても、平気なのかしら」

「ちょっと気が引けるね。でも、野江はどうなの」

「私の使っているものは、すべて植物由来成分のものばかりよ。それより、あなたはどう思っているの」

「そんなエゴのために、動物の命を奪いたくない。僕らの今度の実験は、むしろ動物たちのためだ」

「だからね。よく知らない相手をからかわないでね。分かった?」

「君の弁舌は見事だよ。いつも感心している」

 僕は、それよりも、何よりも、風に髪をなびかせ、スカートがめくれそうになるのを気遣う野江の魅力の方が、もっと素晴らしく思った。そういえば、野江は研究所でも動物が苦しむような実験は断固反対と論陣を張って、所長の吾妻博士を困らせていたのを思い出した。

 野江の活躍ぶりは、まるでオルレアンの少女ジャンヌ・ダルクを彷彿とさせた。しかし、研究所の方針や利潤の追求よりも、自分の確固たる信念を貫こうとする野江の迫力には圧倒された。並みの男なら、太刀打ちできなかった。野江の魅力は、そんなところにもあった。

 中百舌鳥製薬株式会社の受付は、ビルの三階にあった。僕のスーツケースには、クリア・ファイルに、実験の概略を書いたレポートが十枚、ホッチキスで留めた説明資料が十五枚、あとは電車の中で暇つぶしのために読む推理小説が一冊と、サイエンス誌の最新号が一冊入っていた。

 受付のオールド・ミスは、機械的な感情のこもらない口調で「右手の奥の会議室に行って下さい。米田博士と、当社取締役の白鳥が待っています」と、ワザとらしく、微笑んだ。口元はぎこちなく、目だけが笑っていなかった。僕がスーツケースや、ポケットの中を再確認していると、野江は先に歩き出していた。

「右手の奥に行って下さい」と、受付女性は素っ気なく指図した。

 会議室には、米田敦博士と白鳥康成取締役がすでに中にいて、僕らを迎えてくれた。中百舌鳥製薬は国立生化学研究所の大口のスポンサーだった。受付の横柄な態度は、そんな事情を知ってのものなのか――。だが、中の二人は愛想よく挨拶し「どうぞ」と椅子を示してくれた。

 米田博士は、瓶底渦巻きメガネをかけ、胴体はビア樽の外観に似て、太く貫禄があった。白鳥取締役は痩せていて神経質そうな雰囲気の人物だった。白鳥一族で、現社長の次男にあたる人物だ。僕は椅子に腰掛けると、米田を見て「白鳥取締役ですね」と間違って尋ねた。

 すると、白鳥は米田にも促して「あっそうそう、初対面でしたね」と立ち上がり、お互いに名刺を交換した。

「素晴らしいビル、行き届いた応接、それにオフィスも綺麗ですね」と、僕はお世辞に力を込めた。

 行き届いた応接は、当てはまらないかも知れなかった。イヤミに聞こえなければいいがと思っていると、白鳥は気分を良くしたのか「社屋は自社ビルでして、三年前に新設したときは、有名建築家に設計してもらいました。本社ビルは、企業の顔ですからね」

 白鳥は、再び立ち上がり、窓の方に歩き出した。

「ちょっと、君たちも来てみるといい」と、二人を手招きした。窓の外に見える敷地の中に、高さが三十メートルはあるブナの木が目を引いた。

「あの木はね。ここに新社屋を建設する前のビルの中庭にあったものを移植したものです。木のすぐそばに、当社の役員十五名の誓いの言葉が埋められています。二十年後に掘り返したときに、いくつの誓いが叶っているのでしょうね」と白鳥は、神経質そうな顔をほころばせていた。

 米田は、科学者らしく「今回の実験結果が、かなり広範囲に成果をもたらすのを確信しているのです。たとえば、競馬のサラブレッドの人工授精は国際血統書委員会が禁止しています。それは、特定の種雄馬の産駒が集中的に増えるので、近親交配の弊害、体質の虚弱や疾病、故障などの多発が危惧されるからですよ」

「それは、委員会の公式見解として目にしました」と野江は応答した。「まだ、サラブレッドの人工授精は国際的な合意が得られていない」

「現在、豚の人工授精は多く、普及率は四割に達している。しかし、まだ技術的に満足のいくものではなく、競馬のサラブレッドの問題と共通点もあると、博士からも聞いています」と白鳥も付け足した。二人は、僕らの次の日の実験に「大いに期待しています」と握手を求めた。

 白鳥取締役は、野江の表情を窺いながら、何度も「大きな成果が期待できる」と、同じ言葉を繰り返した。だが、成果とはいったい何を意味する言葉なのか。社会への貢献? 企業利益の追求? 経済波及効果? 科学史上に残る偉業? いったい、どんな立派な研究成果かと想像をめぐらせた。

 白鳥は「国の内外の複数の養豚場などの畜産業者だけではなく、有力動物園からチンパンジーの効果的な繁殖方法の確立や、サラブレッドの厩舎からも同様の依頼が来ています」と説明していた。つまり、白鳥のいう成果とは、企業としての中百舌鳥製薬にとってのメリット、業績アップだと推測した。

 金額は明らかにしなかったものの、これまでの協賛金の金額ではなく、国立生化学研究所への莫大な資金援助を意味していた。白鳥は「素晴らしい理論に、今まで誰も気がつかなかったとは信じられない」と言葉にし、財務諸表を机の上に広げて「当社の健全経営と、それによる収益性の高さ、さらには研究開発費用の金額の大きさを見てください」と続けた。

 野江は「環境省のレッド・リストに記載されている絶滅危惧種を助けてあげたい。現代版のノアの方舟をつくるのが私の夢なのです。でも、まず遺伝子工学的に乗り越えないといけない壁があります。さらに、絶滅危惧種の体細胞や凍結精子をすべて保管するには、天文学的な費用が必要になるでしょう」と目を輝かせていた。

 だが、白鳥は「あっそう」と素っ気なく返事しただけで、二度と話題には触れようとしなかった。企業家らしく、営利目的に適わないものは受け付けないといった風だった。

 唐突に、米田博士は「私がもっとも期待しているのは、チンパンジーの繁殖に寄与する研究結果です。ご存知の通り、チンパンジーの人工授精技術は確立されています。しかし、人工繁殖では育児放棄される場合が多く、人手を介した人工哺育となり、大人になって繁殖行動ができないチンパンジーを育てるジレンマに悩んでいるからです。それが、今度の実験で成功すれば世界中の動物園が注目するわけです」

 横から、白鳥も「短期的には、畜産業に力を貸した方が、企業としても利潤を追求できそうです。が、もっと壮大な夢の実現が控えており、少なからず事業メリットにもつながるのですよ」と補足した。

 中百舌鳥製薬をあとにして、細い通りに入ってすぐに、僕は野江のわき腹をツンツンと突っついてみた。

「ねえ、野江、僕らの未来、僕らの人生、僕らの夢と希望、全部実現しようよ」と語りかけた。

「悪いけど、今の言葉は分かりにくいわ。でも、実験がすべて終わったら、遊び相手になってあげる。まったく、仕方のない子ね」と、クスクスと笑い出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る