第3話

 僕は事件以来、日記を小説風に書き続けていた。日記のほかに、研究日誌もつけていた。日誌の記述では、あとで数値化し、検証し、法則性を見出すためには主観は邪魔になった。あくまでも、クールに観察した分析内容を記述しなければならなかった。研究所で起ったすべての出来事や女性たちの反応、それぞれの場所と、年齢層、人数などを記した。

 それまで受け取った大量の手紙も開封して読んでみた。

 これらの作業に夜中までかかった。

 手紙には「一目ぼれ」「運命の出会い」「直感」「インスピレーション」「以前にどこかでお目にかかりませんでしたか」等々の文字が並んでいた。僕の容貌やスタイルへの具体的な評価の記述は乏しく、相変わらずリーガルズの検児に似ていると指摘する表現が目立った。

 筆跡も内容も便箋や封筒まで、そっくりなのに、名前だけが違うものもあった。自分の年齢や職業に触れているものは、あとで研究に役に立つのが分かった。だが、主観的に判断せずに、貴重な資料として、役立てようと思った。

 中にはビキニ姿の艶めかしい写真を同封し「彼氏と別れたばかりなので、一人寝の夜が寂しいの」と手紙に書いてあるものもあった。僕は人の心を操る危険さと、不善な罪について考えてみた。一通り整理し、あとは翌日以降にまとめようと思った。そのまま二十分間うつらうつらしていた。

 浴室に行って、頭髪と身体を洗いシャワーを浴びた。ほんの数時間前に野江がここでシャワーを浴びていたのかと想像すると、愛おしくてたまらなかった。鏡の中の自分の姿をじっくりと見てみたものの、普段と変わらない自分の姿かたちしか見えなかった。

 人は、状況がつくり出していた。評価も人気も、すべて相対的だった。地位や立場によって風貌によって、何かに対する技量の差異によって、人に対する印象まで変化していた。もっと、本質的なものは別のところにあるといえた。

 僕は、まだそいつをつかめないでいた。喉に渇きを感じたので、水道の蛇口に口を当てて水を飲んでみた。驚くほど冷たかった。うまかった。しかし、僕の心の渇きを癒してはくれなかった。気がつくと午前零時近くなっていた。布団を敷き、眠りに就いた。

 二十九日の朝を迎えた。研究所の仕事納めの日だった。アパートのドアをトントンと小さく叩く音がした。僕がドアを開けると、隣の部屋の老婆が立っていた。老婆は年頃の娘の表情で、はにかみながら手料理の入った鉢を僕に手渡した。「少し、つくり過ぎたので召し上がって下さい」僕が受け取ってお礼を伝えると、頬を赤らめていた。

 ドアの外に張り紙を出しても、警官に追い払われても、女性たちはぽつぽつと集まっては立ち去っていった。年齢層はティーンエイジャーから中年までと幅広い。老齢者はたまに見かけるもののトータルでは、ほんの僅かに過ぎなかった。初潮を迎える十代前半頃から、閉経する五十前後までと考えれば、生理学的な反応なのが分かった。

 自分の置かれた状況を吟味してみると、女性ばかりの集団が僕を目当てに訪ねてくる経験がそれまでなかったため、一人一人が個性を持ち、職業や趣味や考え方、感じ方の異なる別個の存在である印象が、希薄になりそうで怖かった。知的に、すぐれた人物もいた。人格高潔な人物も、愛情豊かな人物も、数が増えるに従ってどこかにいて僕を見つめている気がした。

 異変に気がついた最初の頃は、女性たちの身体のバランスが僅かに崩れて見えていた。だが、そのタイミングでは両肩ともに地面に対して平行していた。何か意味のある変化なのか? 男の僕は、野江の魅力を考えた時に、デレーッとするあまり緊張が緩み左肩が少しだけ下がった。

 女たちはどうも逆のような気がした。ほんの些細な変化だが、日を追うにつれて効果が強くなっていた。

 さらに、僕より年配に見える女性は「この間さあ、同い年の友達と買い物していたら、二人とも中学生と間違われちゃったの」と決まって、かなり若年層に譬えて言葉にした。逆に中学生の小娘は、三十代のタレントのファンだと話し出していた。

 張り紙の効果が出ていた。女性たちは、一度に大勢が部屋の前に居続ける動静が少なくなった。だが、逆にドア・スコープから外を覗いた時に、好みのタイプの少女が一人で立っているのを見ると、僕の心の中に誘惑したい、強い感情が芽生える時もあった。僕は潔い男なのではなく、大勢の人の目を意識して気持ちを抑制していただけだった。

 人を愛するとは? 生命とは何か? 魂とは? いずれ死ぬのを知りながらも、人は何故あくせくと働く? 僕らは、自分の運命を自力で切り拓けると信じていた。はたして、そうなのか? どんな躓きの石に戸惑い、試練を乗り越えなければならないのか、誰も知らないで生きていた。僕も、そうだった。

 僕がドキドキするような魅力と同時に、恐怖を感じていたのは、女性たちの群集心理に対する反射的な恐怖心だった。

 彼女らが、もし、暴徒と化すとどんな変質をするのか? 中には、野江の魅力を凌駕するほどの女の子がいるか? 正直なところは見当たらなかった。だから、部屋の中に誘いこみ、男の欲望を満たそうなんて悪巧みは、微塵も思い浮かべてはいけなかった。

 隣室の老婆は、ずっと以前だが「テレビの音量が大きい」と苦情を申し立てて、鬼の形相で僕を叱りつけた。この日の朝、貰った手料理は手が込んでいて絶品だった。僕を「孫、同然に可愛い」と、おだてると目を細めていた。MHCとフェロモン物質で、恋の魔法にかけられた僕は、最愛の人野江を失わないかと思うとゾッとしていた。

 短時日の異変が、僕の心理状態によくないダメージを与えていた。部屋の中に籠り続ける閉そく感を避けたくなった。表に出てみようと思った。へんてこオオカミの着ぐるみを着こんだ。寒さをしのぐため中にセーターを着た。かなりきつかった。背中のファスナーを上げてもらうため、隣の老婆の部屋のドアをノックした。無論、頭部をつけるのは後回しにした。

 ドアの外に誰もいなくなったタイミングを見計らって部屋から出た。

 アパートから徒歩だと二十五分かかる「哲学堂公園」に行って思索に耽りたくなった。表の空気を吸いながら、ゆっくりと考え事をするのも良かった。気分転換するには、散歩が一番だった。公園は、哲学者井上円了博士が設立していた。カント、釈迦、ソクラテス、孔子が祀られる「四聖堂」が素晴らしかった。

 ほかにも、哲理門、六賢台、三学亭などの建築物群に哲学者や賢人が祀られていた。もっとも、オオカミ男が公園の中を散歩するなんて前代未聞かも知れなかった。入園は無料なので、毛むくじゃらの僕でも気軽に入れた。尊敬する偉人たちよ、正しい知恵を授けて、救っておくれ――僕は一心に念じていた。公園には一時間もいた。

 セーターを着ていると、着ぐるみの中は冬なのに暑苦しかった。長い距離を歩いてきたことも影響していた。帰り道で若い女性とすれ違ったとき、ほんの一瞬、僕のわき腹に触れていた。からかっている。いや、何かが違った。オオカミの着ぐるみの僕をからかって、嗜虐的なゲームを楽しんでいる様子はなかった。

 若い女性は僕の舌がベロリと垂れ下がり、牙の生えた大きな口にキスしてきた。さらに、背中のファスナーを下ろし、手を差し込んできた。毛玉をひっかけないように、セーターは表面が滑らかなものを選んでおいた。着膨れしていたので、手を差し込まれる前から真ん中あたりまでファスナーがずれていた。

 僕の顔に自分の顔を近づけてきた厚化粧の女は「素敵よ、ワイルドなあなたって、とってもキュートよ」と誉めたてた。僕はワイルドとはいえず、キュートとは、対照的な存在だった。むしろ、滑稽なムードが漂う着ぐるみ姿といえた。

 着ぐるみを脱がされて正体が露見する可能性があった。もっと、危険な展開がないとはいえなかった。僕の理性は、それほどタフにできていなかった。

 背中のファスナーが下りていたため、いつもと違い目の前の女の嗅覚レセプターを刺激してしまった。滑り込んだ手は、僕の背中をさまよいつつあった。 

「だめだよ、君、そんな悪さ、しちゃあ」

 すると、厚化粧の女は嘲るように僕を笑い、額にかかった髪の毛を払い、唇をなめた。明らかに僕を誘惑し虜にしようとしていた。

 僕は野江を完璧なまでに愛していた。こんな状態になっても、思うのは野江ばかり。何故、僕はもっと積極的になれなかったのか――と考えると、ついつい自分を責めていた。僕に浮気なんてできるわけがなかった。研究所の誰に聞いても、野江以外の女を口説くような男だとは思われていなかった。

 僕は女のいやらしい手を振り払うと、蟹股のオオカミの着ぐるみ姿のままで、仕方なく走り出した。あまり、早く走れなかった。アパートまでの距離は長かった。気がつくと女は二人になり三人になり、五人になり十人に増えていた。向かい風に煽られて、フェロモン物質が後方に流れていくと、それを感知した女たちは僕を追い求めてきた。

 女たちに追いかけられ、恐れて慌てふためきながら、逃げ惑うオオカミ男。こんな奇妙な光景が現実に展開していた。ああ、神様、仏様、哲学堂の賢人様、僕をお助けください――と一心に祈った。彼女らは、僕にもうすぐ追いつくところまで来ていた。「キャー怖い、まー怖い、あー怖い」しかし、僕は いったい何をどう恐れているのやら、でも、逃げるしか手はなかった。

 目の前の少女は、純情可憐な雰囲気が漂っていた。真っ直ぐな視線がまぶしくて、まなざしを受け止められなかった。ゆっくりと、僕は切り出した。「頼むから、そこをどいてくれないか」

「いやよ。あなたを好きになったの」

 すると、少女は僕の毛むくじゃらの腕にしがみついた。女たちは五十人以上に膨らんでいた。僕の胸で、心臓が激しく脈打っていた。動揺のあまりどうしていいのか分からなかった。 

「そこにいるのは誰だ」と、男の鋭い声が聞こえた。

 何かの間違いか空耳だった。僕の周囲には前後左右に女、女、女、女が取り囲み、男の姿など見えなかった。女の人垣は、ますます大きくなり黄色い声で「キャー」とか「オオカミーッ」「ウルフー」などと叫んでいた。

「おやおや」男の声が近づいてきた。表情は真剣だった。「ずい分、お楽しみだな」人垣を掻き分けて現れたのは制服警官だった。恐怖を感じても、不思議ではない状況だった。しかし、僕が警官に感じたのは怒りだった。

 女たちに囲まれて、どこか夢見心地だったのか――いや違った。警官のぞんざいな語り口に怒りの火がついた。僕の口からは、思わぬ言葉が出てきた。

「ここを出て行ってくれ」

 僕の救いの神になるかも知れない男に、思わず暴言を吐いてしまった。

 僕の腕は、警官につかまれてしまった。

「ここで、何をしている」

「いえ何も、僕はただ散歩していただけです」

「オオカミ男が女たちと散歩か。本当の企みを言え」

「いえ、本当に何もしていません」

「君は公道でイベントを開催するには、警察署の道路使用許可が必要な決まりを知っているのかね」と尋ねると、道路使用許可申請書に使用目的や場所などの事項を記入して提出しなければならない手順を強調した。

 ここ数日、警官には世話になってばかりだった。しかし、僕やアパートの住民のために何かの配慮をしてくれたわけじゃなかった。警官の険しい口調が気になった。警官は女ばかりの人垣が二百人近くに膨れ上がったのを目にして異常を感じ取り「あくまでも、任意同行を求めるかたちになるが。署まで来てもらうよ」と僕に告げた。

 警官はパトカーの中で「どうすれば、あれだけの女を集められる」と、執拗に問いかけた。

「さあ」と、僕は首をかしげて見せた。

 警察署に連れて行かれ、道路使用許可の関係で交通安全を担当する部署に通された。オオカミの着ぐるみを脱ぐと肌寒かった。仕方なく頭部の被り物だけを取り去り、話をさせてくれた。もう一人の警官が来て「何のイベントをしていたのか」と尋ねた。

 僕は「公民館に行って、赤頭巾ちゃんの芝居に出るオオカミ役をするつもりだったのです。途中で女の子たちに囲まれて、身動きとれなくなっていました」と、口からでまかせを伝えた。

 住所と氏名を告げて、職業にも触れると、警官たちの態度が変わった。ぞんざいな口調の警官も敬語で話し始めた。やはり、研究所勤務は社会的な信用があると思った。生活安全を担当する部署の警官が部屋に来て「あっ」と声を上げた。アパートの騒動のときに何度か訪ねてきた人物だ。

 警官が退室したあとで、警察署の副署長を務める女性警部が入ってきた。制服のそでの部分に金色のラインが入っていた。テレビ・ドラマで見た記憶があったので、それが地位の高い警察官を示すものなのは、すぐに分かった。

 女性警部は警察手帳を呈示すると、名刺を差し出した。名刺には氏名のところに「藍愛」と書いてあった。「あれっ」と思って、顔を近づけて見ていると女性警部は「よく、そんな表情で、皆さん見るのですよ」と笑った。

「もともと、名前が愛なのですが、名字が藍の主人と結婚したので、藍愛になりました。読み方は、南の島のサルのアイアイと同じです」

 いつも、同じ説明を繰り返しているからなのか、藍愛はわずかに頬をゆるめたが、あまり愛想のいい笑みではなかった。

 藍愛警部は、週刊誌で取り上げられていた。国内には女性の警視正も複数、存在していた。といっても、女性の警察キャリアは年々増えつつあるが、まだ少数派だった。藍愛は、警察官僚の中でも図抜けて頭がよく、難事件の解決には藍愛の優秀な頭脳が貢献していた。

「私がここに来たのは、あなたの考えについて、いくつか質問するためなのです。ここ数日は、何度もあなたのアパートの部屋に、うちの署の人間が出向いています」と、藍愛は告げた。さらに「大勢の人が集まるところには、危険がつきもの」と注意し「今後はどうするおつもりですか」と、鋭い視線で尋ねてきた。

「とにかく、今の状態を改善すべく、できる限り善処したいと思います」

 僕は、テレビの国会中継で官僚が説明する、ぎこちない答弁を真似てしまった。

具体策を立てにくいから困った。研究所や実験が原因なのを告げていいのかどうかも判断しかねた。野江に尋ねてみようと思った。野江なら、藍愛を上回るような答えを出してくれると、僕は考えていた。

 フェロモン物質もMHCも、鉄の意志を持つ藍愛には通用しそうもなかった。もともと、適合しない三割に属するのが藍愛のタイプかも知れないとも思えた。警官の一人が嫌疑不十分を理由に「くれぐれも気をつけて、今後こんな事態のないよう」と、僕を帰そうとしたとき、藍愛は唇を噛んだ。

「ちょっと、待ちなさいよ」と警官に告げた。

 藍愛は「報告を受けた事実をもとに、考えて見たのですが……。同じ状態が続くと、交通事故が発生し、ケガ人が出る可能性すらあります」

「警部、僕は何かに違反するつもりで意図してやったわけではありません」

 だが、藍愛は目つきを鋭くした後、皮肉な笑みを浮かべ「道路交通法第七十七条一項に該当するため、罰金五万円を支払ってもらいます」と通告した。

 僕は、渋々だが財布の中から一万円札を五枚抜き取って差し出した。藍愛は、さらにこう告げた。

「警察署の職員は、一個人のためのものではありません。あくまでも、公務に従事しています。だから、アパートの周辺に、いつも見張りをつけられないのです。何か、自衛策を考えておいて下さい」

「じゃあ警部、もう通報しても、来てはもらえないのですか」

「そうね、年末年始の特別警戒の巡回警らコースに、入れておきましょう」

 着ぐるみの頭部をつけて、背中のファスナーを上げてもらった。途中、女性の巡査が来て藍愛に何か耳打ちしていた。巡査は僕に視線を合わせると、バスト・ラインを強調するような奇妙なしぐさを見せてから部屋を出て行った。

 藍愛に何か急用ができた。それ以上は、引き止めなかった。席を立ち警察署を出た。オオカミの身なりをした僕はアパートに向かうべく、バスに乗車した。当然だが、周囲の視線を集めていた。

 今度は、着ぐるみを脱がなければならなかった。トントンと、隣室をノックした。老婆は朝の出来事など忘れた様子で、僕を見て腰を抜かしそうに驚いていた。頭部の被り物をとり、顔を見せると、やっと気がつきファスナーを下げるのに協力してくれた。

 毎日が冒険になっていた。しかも、僕は不可思議な世界を体験するために旅をしている自覚などなかった。どんな大嵐が吹きすさぶ中であろうと、海図なしに航海しなければならなくなっていた。思いを寄せられるのが、かくも過酷だとは知らなかった。

 いずれにしても、僕は年明けにはアパートを出る方針にした。野江と初詣に行く約束も守れそうになくなった。野江の携帯に電話してみた。すると 「吾妻所長の朝礼の長いスピーチを拝聴したあとで、年末の企業への挨拶回り、大掃除をした」と報告してくれた。それは、毎年の恒例だった。

「さっき、アパートに行ってみたら留守だったので戻って来たの。今、あなたの件で対策を考えているところよ。もう一歩だけど、明日から研究所は休みに入るし」と付け足した。

「野江、どうせ明日から年末年始の休暇だからさ。アパートにもう一度、来てくれないか。今のままの状態が苦痛だ」

「………」野江は、押し黙ってしまった。

 電話口の向こうで、野江は何か考えごとをしていた。

「泊って行けとは言わないから、一日だけ遊びに来てくれないかな」

「どうしても会いたい人がいるのよ」

「年末年始に誰に会う?」

 野江は意外な人物の名前をあげた。

「中百舌鳥製薬の米田博士よ」

「瓶底渦巻メガネの……」

「そうよ、どうしても早いうちに会って、相談しておきたいのよ」

 野江は、僕のために米田と会うと言っていた。

 電話を切ったあとで、僕はある事に気がついた。

 周囲に女ばかりが集まってきたため、僕は男が攻めてくる危難を想定していなかった。僕が外に出ると、少なくとも半径二~三メートルは、女性たちが取り囲んでいた。しかし、それは、ゆっくりと歩いている場合だった。

 走って女たちを振り切ると、正面から来る相手が脅威になった。それまで男たちは、女の群れを目の当たりに見て近づこうともしなかった。バーゲン・セールで女ばかりが集まっていると、男は接近が困難なのと同じだった。女物の下着売り場の前に立っていると、どこか変態っぽく見えた。そういう心理が働いているかに見えた。

 郵便ポストを見てみると、男性の名前のものが二通入っていた。一通は化粧品会社の広報部長からのもので「当社の広告の入った紙袋を持ち歩いてくれれば、一日三千円の日当を支払います。先払いで一カ月分の九万円をお振り込みします」と書いてあった。

 返信用の封筒と申込用紙に所定の事項を記入して送ると、広告入りの紙袋を送ってきた。だが、いつも紙袋を持たされるのは、気が引けるし迷惑なので断った。

 もう一通は、もっと深刻だった。「彼女が、お前のアパートを訪ねてから、俺は彼女と別れるはめになった。彼女の友達に住所を知らされたので手紙を送った。復縁するつもりだから、俺の女には手を出すなよ」と書いて、彼女の氏名が書いてあった。

 僕は、ここに訪ねてきた女の子たちに名前を尋ねた例がなかった。だが、こんな手紙が増えてきたら用心するに限った。

 表に誰もいないようなので、アパートのドアを開けてみた。外では雨がしとしとと降っていた。誰とも口をききたくなかった。翌日、翌々日と、野江とも会えそうにない状況だった。耐えがたい孤独感が僕の胸を締め付けていた。

 ドアの張り紙の効果は、まだ続いていた。さらに、藍愛の指示を受けて警官たちが最初の警らに訪れた。女性たちは大勢がたむろする事はなく、アパートを訪ねてはすぐに帰って行った。荒波を乗り越えて、海の波は静けさを取り戻しつつあった。

 部屋の電話が鳴ったので、出て見たら「テレビ局のものですが、取材にお邪魔しても良いですか?」と質問してきた。公になると、ますます騒動が大きくなる予感がしていた。それでなくとも、僕を追いかけてくる女性の人数は増えていた。

「せっかくですが、今はそんな気分にはなれないのですよ」

「いったい、あなたに何があったのですか? 私たちは、それが知りたいのです」

「フランツ・カフカの小説『変身』は知っていますか? 僕は物語の主人公の状況と同様に、ある日突然、別のものになっていた」

「グレゴール・ザムザが自室のベッドで目覚めると毒虫になっていた。あれと、同様の意味ですか?」

「違う面もありますが、イメージではどこか一致しそうな気もします」

「随分、女性に人気があるのですね。何か秘訣があれば、教えて頂けませんか?」

「そんなものは、ありませんよ。むしろ、戸惑うばかりです」

「もし、良ければ一度、お目にかかりたい」

「申し訳ないのですが、今はそれどころではないです」

 電話を切ってしばらくすると「ドン」と、大きな音がした。ドア・スコープを覗いて見ると、男が来て何かの腹いせに蹴っていった。

 張り紙をしたせいで、女性たちはまばらに訪れて去って行った。返って人ごみの鎧に守られた部屋が無防備になっているような気がした。「ねえ、裕司さん中にいるの?」と、声がした。野江の声とは明らかに違っていた。

 ドアの前の女はふっくらとしたピンクの唇が艶かしかった。きれいに並んだ白い歯が印象的だった。キスをねだる構えで口を開くと、舌を卑猥に動かしていた。また、誘惑の魔手が忍び寄っていた。野江が「優しそうに見えても、女は強かだから騙されないように。強い意志で臨んでね」と諭してくれた。

 僕は表に出て、大勢の人ごみの中にいても、自分がカゴの中の小鳥になったような気分になった。どこにも自由がなく、行動半径が限定されていた。喉に乾きを感じた。ドア・ノブに手をかけた。

 これはきっと夢だと思った。あらゆる男たちが胸の内に抱く妄想を僕も見ていた。実際に起こるわけがないし、ありえなかった。僕は科学者らしからぬ心のうずきを現実と錯覚していた。ドアの外にいる女は、僕にもたれかかって来た。

 男を手玉に取るのが好きな女が僕の反応を見て、ただゲームのように楽しんでいた。もし、僕が女について行ったら、ゲームは女のペースで進められ、僕の気持ちなんか酌んでなんかくれなかった。

 女は「私と一緒に来て、楽しい時間を過ごさないかしら。怖がらないで裕司」と僕の瞳の奥を見つめた。

「ほんの少しだけ……。君が誰だか知らないし」

「危険なんか、何もないわ」と女は、僕の腕に自分の腕を絡ませて「さぁ、私について来て」

 風の冷たさを感じた。雨はまだ止まなかった。それは、夢想などではない現実の冷たさだった。アパートの通路にまで、風に煽られて雨水が入ってきた。

 女は反対の手で、アパートの壁に立てかけてあった傘をつかむと、階段を下りた。僕は本当に怖くなった。「ごめん、今日はうちに友だちが訪ねて来る」

 絡んだ腕をほどくと、アパートの階段を上ろうとした。女は「ちょっと、待って」と指図すると、僕にメモを手渡した。

 メモには、自宅と携帯電話の番号が記され「絶対に電話してね」と書いてあった。名前は見間違いかと思ったが、男から貰った手紙の女の氏名だった。僕はゾッとした。女の異様なほどの妖艶さに、うっとりとし、あられもない姿を連想しかけていた。

 僕は野江となら愛し合えた。だが、別の誰かとオーガズムに酔いしれ、心地良い時間を過ごすのは、自分に対して許せなかった。

 階段を上がりきると、感傷的な気分になった。僕の、実態を乖離した魅力のせいで、カップルの関係にヒビを入れ、復縁を妨げていた。それまでも「会う場所と、時間を今すぐに決めてよ」と迫られた。人ごみの中だと、大勢の声にかき消されていたが……。

 考えに考えた後で、自分をもっと見つめ直したくなった。

 夜になり、いつもの習慣で、浴室の湯船にお湯を満たしながらパソコンの電源を入れて電子メールの受信をスタートした。僕は、暖房で暖かくなった部屋の中で、タオルを腰に巻きつけたまま、受信箱をチェックしてみた。野江と盛本からのメールを見つけたので読んでみた。

 盛本のメールは「実験のときの不手際で、申し訳なく思っている。また、一緒に仕事するのを楽しみにしている。吾妻所長や野江博士と対策を立てて、今の状況から助け出してやるよ。でも、本音をいうと、お前が羨ましいよ。ずっと、今の状態のままで、女のヒモにでもなって暮らしていけるよ。人生バラ色だな。冗談、冗談。あまり、深刻にならないで」

 野江のメールには「米田博士に会って相談したところ、分かったの。明日、急遽そっちへ行くから、詳細を話す。これが、すぐさま解決に結びつくと良いけど」との内容だった。いったい、野江は何に気がついたのか、期待が持てる話なら歓迎だった。

 メールを読み終えてから、浴室に行って蛇口をひねり温度調節し、湯の中に潜り込んだ。湯の中で、僕はしばらく考えてみた。僕の症状は、時間が経過するにつれて酷くなっていた。これが、もし本物の病気なら入院治療を受けなければならなかった。しかし、いったいどの病院の医師がこんな奇妙な症状を治療できるのか、想像もつかなかった。

 日本では、感染症予防法といわれる法律がある。伝染病、性病、エイズ、結核などのそれぞれの予防のための法律も制定されている。だが、症状が悪化しようと、知事から感染症のまん延を防止するために入院を勧告される可能性はなかった。そもそも、世之介症候群は人から人に感染しない病気だった。

 元来、僕は凡庸な男に過ぎなかった。イケメンから、もし人気者の悩みを打ち明けられるはめになったら、困惑していた。

 美人の友人から「また、男の人に告白されちゃった。どうしよう」と相談されたときに、彼女のブスな友人が思う「ちぇっ、また自慢話かよ、いけ好かない奴」と、不愉快な気分になるのは、容易に理解できた。それが、これまでの僕の姿だった。

 立ち位置が変化すると、そこから見える周囲の景色も変わり始めた。僕の存在する場所は、世の中で当たり前に誰でもが経験する場所とは異質だった。人も羨む人物が深い悩みを抱えていたり、幸福そうに見える男が病魔にとりつかれていたり、人生の深淵は、簡単には分からないものだった。盛本から、羨ましがられる、僕の境涯は、安楽でも至福のそれでもなかった。

 ともあれ、翌日は野江と会える――と、思った。それだけが楽しみだった。

 たとえ望みが薄いものであっても、何か新しい手を考えなければならなかった。

 冷蔵庫を開けて発泡酒で喉を潤した。ロング缶を三本飲み干した。身体に行き渡ったアルコールが、僕の思考を曖昧なものにしていた。

 僕には、野江の身体のあらゆる曲線やふくらみが、ほとんど完璧なもののように思えた。妙案を考え出すよりも、野江の甘いムードに酔いしれていたくなった。布団を敷くと、しばらく、これまでの経緯を思い出して、何か見落としがないかと探ってみた。だが、画期的なアイデアは、容易くは思い浮かびそうもなかった。

 目を閉じて見た。夜が更けつつあるのに、外では野良猫が大きな声を出していた。どんな異変があろうとも、いつもと同じように時間は過ぎ去り、やがて朝が訪れた。だが……、その日がどんな一日になり、自分に何をもたらすのか、誰も知らなかった。

 生物進化の道筋では、突然変異と引き換えに、過酷な要求を突きつけられてきた。僕の世之介症候群は、そうした進化の中では画期的な出来事なのか? それとも、むしろ退化への道程を歩みつつあるのか? いずれにしても、変化は自分が進んで選び取ったものではなく、自然の中での必然の結果でもなかった。自然の摂理に反する不自然な反応だった。

 朝を迎え、牛乳を飲みトーストを食べた。朝日を部屋の中に入れると、僕がモテない男に過ぎなかった日々をなつかしく思った。ほんの三日前なのに随分、遠い記憶のように思えた。いつも、カーテンを開けて朝日を招きいれ、トーストにコーヒーかトマト・ジュースか牛乳にするか選んで飲んでいた。

 三日前に比べて変化したのは、僕がモテ過ぎて困惑している事実だった。

 食事のあと、昼頃まで倦まずに、本棚から何冊もの書物を取り出して読んでみた。ランボー、マラルメ、ボードレールといった幾冊もの詩集や、トルストイやシェイクスピア、ゲーテの全集などが目についた。生物学や薬理学、医学関係の本も本棚に納めていた。

 アパート暮らしなので、大量の本を置いておけなかった。厳選を重ねた三百冊内外の本だけが存在を示していた。

 ちょうど、正午前に野江が訪ねて来た。「あなたを助けられるわ」と、野江は声に力を込めた。

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