仄暗い闇の淵から

令狐冲三

~馴染みの店で見知らぬ誰かに出会うこと。Ⅰ

「ペニーレーン」はなじみのプール・バーだが、その時彼は薄暗い店の片隅で一人球を撞いていた。


 天井から低く吊り下げられた電球が、端正な顔に陰影を添えている。


 僕はカウンターでマスターと話しながらウイスキーを舐めていたが、奇妙な暗さを漂わせている隅の青年に何か惹かれるものを感じた。


 ちょうど、彼の周囲にだけエアポケットができて外界と彼とを仕切っている。


 そんな雰囲気だった。


 実際、彼はひどく哀しい眼をしていた。


 何を哀しんでいるのかわからないが、あんなに暗く沈みきった瞳に出くわすのは初めてのことだ。


 僕はマスターに訊ねた。


「初めての客?」


「え?」


「ほら、さっきから一人で玉突きしてる……」


「ああ」マスターは初めて気づいたように肯いた。「らしいね。キミと同じぐらいの歳じゃないか」


「どう観る?」


 もちろん、ビリヤードの腕だ。


 容姿や体格は関係ない。


 僕にそっちの趣味はない。


「ご覧よ」


 僕の問いかけには答えず、マスターは声を潜めた。


 見ると、つい今しがたまで隣の台で三人の女の子とエイト・ボールに興じていた若い男が、キューを担いで彼のところへ遠征している。


 ちょっと見には彫の深い日本人離れした顔立ちのその男は、名前こそ知らないが、店ではよく見る顔だった。


 あまり好きになれるタイプではないが、彼の腕がなかなかなのは知っていた。


 僕ほどではないにせよ、だが。


 僕の腕前ときたら、マスターの折り紙つきでとびきりなのだ。


 友人たちはもちろん、店の常連客にも僕に勝てる者はいなかった。


「なるほどね」


 親衛隊にいいところを見せるため見知らぬ相手をカモにしようとは、いかにもあの男の考えそうなことだ。


 僕はマスターと顔を見合わせ微笑を交わした。


 マスターは言った。


「さて、お手並み拝見といこうか」


 ゲームが進むにつれ、かの色男がみるみる蒼ざめていく様は、なかなか小気味良かった。


 カモにするつもりがすっかりカモられて、女の子たちの手前、どうにも引っ込みがつかなくなってしまった格好だ。


 隅の青年は、次々と的球を狙ったポケットへ落としていく。


 カウンターから遠目に見ても、腕の差は歴然としていた。


「見事なもんだ……」マスターがつぶやいた。


「はは」僕は力なく笑った。「鮮やかすぎて、声も出ないよ」


 他の台の連中も、ハスラーみたいな彼の腕前に圧倒され、手のほうがすっかりお留守になっている。


 7ゲームを一方的に撞ききってしまうと、彼は冷たい声で言った。


「これ以上は無意味だと思いますが」


「あ、ああ……」


 色男は悄然と肩を落とした。


 心の中ではきっと、突き上がってくる羞恥心と格闘し、女の子たちへの言い訳を考えるのに四苦八苦しているのだろう。


 だが、その必要はない。


 ただ、相手が悪すぎただけだ。


 勝負事にはありがちなことだった。


「どうだい」と、マスターがそそのかすような口調で言った。「あんたと彼のゲームなら、仕事をほっぽり出しても見てみたいがね」


 むろん、そのつもりだ。


 僕はグラスをカウンターに置き、スツールから立ち上がった。


 グラスの中の氷が澄んだ音を立てた。


 僕がキューを持って傍に立つと、彼はちらっと視線を上げた。


「やあ」と、僕は微笑んだ。


「さっきのゲームを見なかったのかい?」


「見たよ。だからこそさ」


「ふうん」


 暗い瞳が光った気がした。


 彼は低い声で、


「自信がありそうだね」


「どうかな」


「ルールは?」


「ローテーション」


 さっきのゲームで彼の腕前はわかっている。


 手強い。


 手強いが、僕もビリヤードではマスター以外に負けたことはない。


 強い自信があった。

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