第139話

 アタシは小さい頃から走ることが好きだった。


 風が顔を撫でていく感触や、心臓の鼓動が高鳴るリズムが身体中を駆け巡っていくのが好きだった。


 でも、それ以上に走ることで得られる自由感が好きだった。自分の足で地面を蹴り、自分の力でどこまでも走り続けられることが、まるで飛んでいるかのような気分を味わわせてくれた。


 そんな楽しさを共有したくて、近所に住む晴ちんを当時アタシが所属していた陸上クラブに誘ったりもした。嬉しいことに、晴ちんも陸上にはまってくれた。


 これからもアタシは走り続けるんだろうなと思っていたのだが、高校に入ってから脚を怪我してしまった。今では日常生活に支障もないし、軽くなら走っても大丈夫だけど、選手として活動していくのは難しいとお医者さんに言われてしまった。


 夢中になっていたものを突然取り上げられてしまったアタシは、ぽかんと空いた心の穴を埋めるために、陸上の代わりを見つけないといけないと考えた。


 早速、図書室に通って文学を嗜んでみた。しかし、たまに面白いと感じるものはあっても、アタシの琴線に触れるものは何もなかった。


 次に当時仲の良かったクラスメイトに頼み込んで、彼女の所属する料理研究部に参加させてもらった。料理はうまくいったが、誰に食べさせるわけでもなく、その意義を見出すことができずに一日で辞めた。


 今まで行ったことなかったゲーセンにも行ってみた。けたたましい音が頭に響く中、他のお客さんがやってるのを観察して見様見真似でクレーンゲームにも挑戦してみたが何一つ取れなかった。仕方なく別のエリアに移動してみたが、そこはやる前からアタシの知る世界ではないなと感じて撤退した。


 他にも色々試してみたが、結局どれもしっくりくることはなかった。


 代わりを見つけることができず、少し焦りを覚え始めた頃、母親からシューズやユニフォームなど陸上の道具の始末をどうするかたずねられた。


 どうせ必要ないし、残していても未練が残るだけだと考えたアタシは「捨てといて」と返事をすると、自分で整理しなさいと言われてしまった。アタシは渋々、この前まで使用していたシューズたちの処理を始める。


 シューズを手に取って見て、そういえば自分が履いていたシューズは赤色が多かったなと思い出す。


 その気づきを何気なく母親に話してみると、やはりそうだったみたいで、アタシはずっと赤色のシューズを愛用してきたらしい。


 そこで初めて気づいた。アタシって赤色が好きなんだって。


 そうだ。これだ。


 そう思ったアタシは、道具の整理をほっぽり出して外出し、身の回りの物を赤色に買い直した。筆箱やシャーペン、ハンカチ、バッグ、それらを購入して軽くなった財布も。


 やはりアタシは赤色が好きみたいで、買い揃えたそれらを見て少しだけ心が満たされたような気がした。


 その日からアタシは、気づいたものは可能な限り赤色のものに取り替えていった。友人からどうしたのと怪訝そうにされたが、アタシ赤色が好きだからさとワンパターンな返事を繰り返していた。


 そしてある日気づいた。アタシの学年の制服のリボンは赤色じゃないことに。


 うちは学年によってリボンの色が決まっており、アタシの一つ下のリボンがまさに赤色だった。


 当時のアタシは何故か悩まなかった。友人や親に話をしない理知は持ち合わせていたのに。わざと赤点を取り続け、留年したのだ。


 こうして得られた赤いリボンだが、いざ自分の胸元にあるそれを見たアタシの胸の中は空虚なものだった。


 両親は留年したアタシを直接責め立てるようなことはなかった。しかし、夜、アタシが寝た後に二人が話し合いをしている声が聞こえてきたことがある。父は「どうしてこうなったんだ」と怒り、母はアタシの気持ちを知ってか怒ることはなかったが悲しんでいたように思える。


 そんな、アタシの愚行によって得られたのは赤色のリボンだけでなく両親の真っ青な顔だったという笑えないオチで終わるわけにもいかず、それからアタシは勉強に励むようになった。両親が胸を張れる娘になれるよう。いわば名誉挽回だ。


 結果、国内でトップの大学に進学できたので、その想いは果たすことができた。


 さて。必死にやってきた勉強だが、決して夢中になってやっていたわけではなく、もう無我夢中でやっていたというのが事実。そのため勉強が未だ空いているアタシの心の穴を埋めることはなかった。


 だけどそこから派生して、アタシは家庭教師のバイトを始めた。勉強のノウハウは掴んだし、それに金を稼ぎたい学生にとって割のいいバイトだったからだ。


 まあ最終的にはそのバイトも辞めてしまい、今は近所のコンビニで働いているわけだけど。


 家庭教師のバイトで貯めたお金で免許を取り、バイクも購入した。赤リボンで少し懲りたけど、やっぱり赤色は好きなのでバイクは赤色。ついでに髪にも少しだけ赤を入れてみた。流石に全身赤色にはしない。


 バイクはいい。物凄いスピードで走ることもできるし、その分強い風を浴びることができる。どこにでもいける感覚にも襲われ、まさに自由といった感じがする。


 だけど、やっぱり代わりにはなれなかった。陸上部で走っていた時のあの心拍数の上がる感じや全身の怠けさ。そういったものがバイクにはない。


 ……結局、アタシは未だに代わりを見つけることができずにいる。


 代わり……先日、晴ちんが落ち込んでいると聞いて晴ちんのもとに訪れて少し事情を聞いて見たところ、晴ちんはどうやら誰かの代わりとして扱われていたかもしれないらしい。


 誰か、というのは分かっている。晴ちんの彼氏で、アタシのバイト先であるコンビニに前までしょっちゅう来ていた少年、瀬古だ。


 おそらく、瀬古に真に愛されていると思っていった晴ちんだったが、何らかのタイミングで自分が瀬古の本命ではないことを知り、傷ついて落ち込んでいたのだろう。


 そこでアタシは晴ちんにも代わりを見つけるよう促した。まずは恋愛運を高めてもらおうと江ノ島へ向かった。すると、さっそく晴ちんは同級生から花火大会に誘われたのだ。誘ってきたのは女子みたいだけど、おそらく男子もいるだろうと察したアタシは「行ってきなよ」と晴ちんの背中を押した。


 家庭教師のバイトをしていたときに他人の意思決定にはもう関与しないと決めたアタシだったが、晴ちんに対してはどうも世話を焼いてしまう。だけど責任感は感じるため、行く末を見届けるべく花火大会に向かった晴ちんの後をこっそりと追った。


 バイクを適当な場所に停め、事前に聞いていた合流場所へ向かう。晴ちんと合流を果たしたのはアタシの直感通り女子だけではなく男子もいた。それも晴ちんに気がありそうな子も。


 その後も尾行を続けると、晴ちんが例の男の子と談笑する様子を観察することができた。その男子は気がきくみたいで、自分のだけでなく晴ちんの分のりんご飴も買ってきて晴ちんにあげていた。


 うん。なかなかの好青年じゃないか。代わりとして十分なんじゃない? と勝手な評価をしていると、急に人の流れが激しくなった。


 なんとか晴ちんを視界に捉え続けていると、晴ちんとその男子以外のメンバーが周囲から消えていた。分かりやすく困惑する晴ちんに、彼は真剣な表情で何かを言っているのが見えた。


 瞬間、アタシはピンと来た。もしかして最初からそういう作戦だったのではと。最終的に二人きりにする、そんな作戦。


 完全に目が離せない状況になってきたなと目を凝らしていると、アタシの肩を誰かがトントンと叩いたのを感じた。


 いい所なのにっ、と胸中で愚痴りながら振り返ると、そこには頭が真っピンクのド派手な女の子が立っていた。


「すみません。かき氷屋さんってどこにあるか分かりますか?」

「え? ご、ごめん。分かんないや」

「そうですか……」


 あからさまに落ち込んだ様子を見せられ、アタシは急いで記憶を掘り起こす。


「あ……あーでも、そういえばあっちの方で見かけたような? 気がする、かも?」

「あっちってどっちですか?」

「ほら、ここからまっすぐ行った先のあそこ」

「んー……? ちょっと難しいですね」

「なんで!? この通りは直線なんだから、迷うことないでしょ」

「えっと、具体的な方角は北ですかね?」

「分かるか!」


 どうも調子の狂うやり取りをしていると、ピンク髪の女の子の連れっぽい可愛らしい女の子が「マイさん!」とピンク髪の女の子の腕を掴んだ。


「わたしたちが探さないといけないのはかき氷屋さんじゃないですっ!」

「でも、いちごミルク味があるかもしれないじゃないっすか」

「後で買いに行けばいいですよ! 今はあの人を探すことが優先です!」

「いや、もう今日は会わないっすよ」

「どうしてそんなことを言うんですか! わたしは納得してませんよ!」


 目の前で言い争いが始まってしまい、どうしたものかと狼狽していると、ピンク髪の女の子が「あっ、ありがとうございます。もう大丈夫です」とお礼を言ってきたので、もうこの二人に構ってられないと判断したアタシは「お、おっけー」と返事をし、すぐに晴ちんのいた方へ視線を戻した。


「……あれ?」


 そこにいたのは呆然と立ち尽くすあの男子のみ。晴ちんの姿はその周囲に見当たらない。


 見失ってしまった。これも変な絡み方をしてきたピンクっ娘のせいだ。少し文句を言ってやろうとまた振り返ると、そこには既に例の二人の姿はなかった。


「……はぁ」


 例の男子が焦っている様子もないことから、晴ちんとはぐれたわけではなさそう。はぐれていたとしても、こっそり付いてきているアタシが晴ちんに通話して居場所を聞くわけにもいかない。


 この人混みの中、晴ちんを見つけ出すのは困難だと判断したアタシは、探索は諦めて花火の打ち上げが終わるのを待つことにした。


 約一時間後。花火を観終わった人たちの中から晴ちんを見つけ出すことができなかったアタシは、少し粘った後、ため息混じりにバイクに跨って発進させた。


 あの後、いったい晴ちんはどこに行ったのだろうか。何をしていたのだろうか。最後まで見届けることができず、もやもやとした思いを抱きながら自宅へと向かう。


 自宅付近まで帰ってきたところで、晴ちんの家の前に人影を確認した。一瞬晴ちんかなと思ったが、背丈的に晴ちんではない。男?


 最近のアタシの直感はよく当たる。アタシはバイクを停止させ、エンジンも切り、ニュートラルにして押して歩く。ゆっくりと、なるべく音を立てないようにし、近くの角で曲がって止まった。


 様子を窺おうと角から顔だけを出して、アタシは改めて日向家の前に立つ人影を確認した。


「……どうして、お前がここにいるんだよ」


 浴衣姿といつもとは違う格好をしているけど、間違いない。あいつは、あの人影は、瀬古だ。


 人影の正体を知り、アタシの胸の中で様々な感情が渦巻いている中、日向家から晴ちんが出てきた。手には救急箱を持っている。どうやら瀬古に手当てをしてあげるらしい。


 ……瀬古に手当てをしてあげる時の晴ちんの表情は、アタシは今までに見たことがないものだった。


 いやでも、まだ、可能性はある。二人はただの知り合いで、瀬古はレンじゃない可能性が——


 僅かな可能性に縋ろうとするも、目の前で二人の抱擁を見せられたアタシは、その可能性を破棄するしかなくなってしまった。


 瀬古はレンだった。瀬古は晴ちんの彼氏だった。瀬古は晴ちんを泣かせたクズ野郎だった。瀬古は、瀬古は……。


 瀬古に抱きつく晴ちんの表情を見て、アタシは確信してしまった——。




 * * * * *




 あんなことがあったにも関わらず、アタシは翌日ちゃんとバイトのシフトに出ていた。偉いね、アタシ。


 昨夜、二人が解散したのを見送った後に自宅に戻ると、携帯に晴ちんからメッセージが届いていた。内容は「祭りに行ってよかった。ありがとう」といったものだった。アタシは何も知らない体を装おうため「それはよかった」と簡素な返事だけをした。


「よかった、か」


 お客がいない店内で、一人ポツリと口にする。


 晴ちんにとって、あの会場で瀬古と会えたのは良いことだったらしい。まあ、あの様子を見てれば何となく分かっていたけど。


 それにしても、まさか晴ちんの彼氏が瀬古とはね。あいつ、アタシの前では善者ぶりやがって、裏では晴ちん泣かせてたクズ野郎だったとは。アタシもしてやられたってわけか。


 実際のところは結局分からずじまいだけど、晴ちんは今後も瀬古と関わっていくのだろう。そんなヤツやめとけと言いたいところだが、アレを気付かされてしまった手前、どうもストップがかかってしまう。


「……辞めようかな、このバイトも」


 思えば、このバイトを続ける意味なんてなかったし。時給も安いし。ガラの悪いやつに絡まれたりもするし。


 今日上がる時に店長に言ってみようかね。そんなことを考えながらレジに突っ立ってぼーっとしていると、来店を知らせるチャイムが鳴った。


「らっしゃっせー」


 そちらに目をやることもなく、適当な対応をする。元からなかったやる気も、今はほんの欠片もない。


「なんか今日は特にダウナーっすね」

「……え?」


 聞き慣れた声。聞き馴染みのある生意気な口調。


 気づけば目の前に瀬古が立っていた。


「もしかして連勤中っすか?」

「……いや、そういうわけじゃないけど」

「あ、違いましたか。まあ大学生は大学生で忙しいっすよね」


 どうして瀬古がここに……? いや、普通に買い物に来ただけか。昨日、瀬古が晴ちんといるところをアタシが見ていたのを瀬古を知らないわけだし。


「ちょっとアレっすけど、お疲れならちょうどいいっすね。このお高めな栄養ドリンクください」

「え、お、おう。……ってめっちゃ高えなこれ」

「効果ありそうっすよね。というわけで、これを由衣さんにお渡しします」

「なんだよ。やけに身振りがいいじゃないか。……何かいいことでもあったのか」


 探るように聞くと、瀬古は苦笑を浮かべた。


「あー、まあそんな感じっす。いや、この前まで悩んでいたことが少し解決しまして。由衣さんには心配してもらっていたので、これはそのお礼ってことで」

「……別にアタシは何もしてないけどな」

「いえいえ。気にかけてくれただけで助かりましたよ」

「……そうか」


 瀬古は晴ちんを泣かせたクズ野郎だ。関わっても碌なことにならない。


 わざわざお礼を言いに来てくれたのか。嬉しいな。


「でもお礼がこれだけってしょぼいっすよね」

「いや十分だって。助かるよ」


 ノコノコとアタシの前に顔を出しやがって。アタシが晴ちんと知り合いって知ったらこいつどうするだろう。


 晴ちんと今後も付き合っていくってことは、今後も度々ここに来てくれるってことだよな。


「とにかく、本当に助かりました。心強かったっす」

「ふっ。そりゃどうも」


 晴ちんをあそこまで落ち込ませるなんて、やっぱり危険だよなこいつ。


 この前まであんなに意気消沈していたのに、今日はよく笑うな。よかった。


「由衣さんって姉御って感じっすよね」

「ヤンキーみたいだからやめろ」


 晴ちんのためにも、今後もアタシがそばで見守ってやらないとな。


 瀬古から来てるんだし、別に会っても問題ないよな。


「それじゃあ、また」

「おう」


 瀬古の歩き方が少し変だ。昨日手当してたけど、まだ痛いんだな


 瀬古は足が痛いのに、アタシに礼をするために頑張って今日来てくれたのか。


 今日は猛暑日らしいし、アタシがバイクで家まで送ってやりたいな。ついでにあいつの住所なんて知れるんじゃないか。


 そうか。アタシはまだあいつの住んでいる町も知らないのか。今度来たら、聞いてみるか。


 瀬古の姿が見えなくなったあとも、アタシは店のドアを見つめ続ける。


 ……あぁ、そうだった。


 アタシは昨晩、気づいてしまったんだ。ずっと目を逸らしてきた、この世の真実に。


 代わりなんて、そんなのどこにもいないんだって。




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第17章 終わり

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