第126話
せっかく海に来たんだ。俺たちは次に海水に飛び込んで楽しむ。
といっても泳ぐのではなくぷかぷかと浮かんだりして涼むのが主だが。
俺が軽くバタ足で進んでいると、浮き輪の中に体を通して浮いている小井戸が話しかけてきた。
「先輩って泳げるんすね」
「バカにしすぎな。小井戸はパーカー着てて泳ぎづらくないの?」
「一応これ着衣水泳可能なラッシュガードなので、ガチ泳ぎはできませんが遊び程度なら大丈夫なんすよ。日焼け対策にもなって最高です」
「日焼け……少し怖いです。わたし焼けやすい体質なんですよ」
「あれだけ日焼け止め塗ったんすから大丈夫っすよ!」
小井戸の言う通り、紗季ちゃんの体には大量の日焼け止めが塗られている。
それを塗ったのはもちろん小井戸だ。
「蓮兎さん……塗ってくれませんか?」
先ほど紗季ちゃんに上目遣いでそんなお願いをされたが、流石に自制した。
すると紗季ちゃんはむっと頬を膨らませたあと、少し考えてから改めてお願いしてきた。
「蓮兎さん。わたしの身体に液体を塗りたくありませんか?」
その聞き方はずるいなって思った。
だけどすかさず小井戸がその役を買って出てくれたおかげで、俺は警察のお世話にならずに済んだのだ。
海の家でレンタルしたイルカの形をした浮きに乗って上手にバランスを取っている紗季ちゃんが、俺の隣まで器用に移動してきて囁くように言う。
「蓮兎さんが塗ってくれたらもっと効果があったかもしれません」
紗季ちゃんはそんなことを言って、俺のことを流し目で見てくる。この子本当に中一か? でも紗季ちゃんだからなで納得してしまう俺がいる。
「俺の手は魔法の手でもないし太陽の手でもないよ」
「後者だとむしろ焼けちゃいそうっすね」
「流石に紫外線は発してないよ?」
「むぅ。そういうことじゃありませんっ。蓮兎さんに触ってもらった方がわたしの身体は喜んでたってことですっ」
「紗季さん! 語弊ってもんじゃないです!」
めっちゃセンシティブな話に聞こえるからそれ! 俺このまま海の底に沈められかねないから!
「あはは。ところで紗季ちゃん、その浮きのバランスって取るの難しくないっすか?」
「あ、はい。初めは難しかったのですが、今はもう慣れちゃいました。こうしてイルカさんに体をくっつけるのがコツです。茉衣さんも乗ってみますか?」
「いいんすか? じゃあちょっと試してみたいっす。あ、先輩。ボクの浮き輪持っていてくれませんか」
「オッケー」
紗季ちゃんが降りたことで空いたイルカ型の浮きの上に小井戸はなんとかよじのぼる。その間、小井戸がさっきまで使っていた浮き輪を紗季ちゃんに使わせる。
「わっ……と。ふぅ」
一瞬ぐらついたものの、イルカにしがみ付いたことで安定感を得ることができた小井戸は一息つく。
「本当っすね。こうしていると安定します」
「はい。だけど動きにくいのには変わりないんですよね」
「あはは。そうっすね。少しでも動くと横転しちゃいそうです」
俺はそれを聞いて、なんとなくイルカのボディを軽く突っついてみる。
「なんかボクにいじわるしようとしてませんか、先輩」
「小井戸にじゃなくてイルカにしてるだけだよ」
「いやそれボクにしてるのと一緒ですからね! 今のボクとこのイルカくんは運命共同体なんすから。ちょっと、本当にやめてくださいよ」
「フリかな」
「いやもうホント、押さないでくださいよ先輩! 押すなよ押すなよっす!」
「ノリノリじゃないか」
これはもう押せと言われてると認識してもおかしくないくらいのフリを受けるが、俺はそれ以上イルカを押すようなことはしない。普通に危ないし。
イルカに近づけていた自分の手を引こうとしたその時、小井戸が囁くような小さな声で言った。
「過去を振り返らないでください、先輩」
「——え?」
なんとか聞き取れた小井戸の言葉の意味を聞き返そうとしたその時、通常より大きな波がやってきて、俺たちを襲った。
顔にかかった海水を手で払い、二人の安否を確認する。
「うわぁ、すごい波でしたねぇ」
俺が掴んでいた甲斐あって、紗季ちゃんが使っている浮き輪ごと遠くへ流されるというような事態には陥らなかった。
しかし、もう一人……小井戸の姿が見えない。
さっきまで小井戸の体を支えていたイルカは転覆している。
「——せんぱっ!」
小井戸の声が聞こえた方を振り向く。すると海中から手だけが伸びているのが見えた。
「小井戸!」
紗季ちゃんから離れて急いでそちらに泳いで行き、その手を掴んで自分の体の方に引っ張る。
するとピンク色の頭が浮かんできて、そのまま俺の体に抱きついてきた。
「けほっけほっ」
どうやら海水を飲んでしまったらしく、さっきから小井戸の体は水を体内から吐き出すようにしている。
「もう大丈夫だから。ゆっくり落ち着いて」
そう声をかけると小井戸はこくりと頷いたあと、またしばらく咳き込み続けた。
数十秒くらい経った頃、安静を取り戻したのか、小井戸はふぅと息を吐く。
「……ありがとうございます、先輩。なんとか落ち着けました」
「海水を飲んでパニクっちゃったか」
「それもありますが、やっぱりラッシュガードが重かったみたいです……ごめんなさい。完全にボクのせいです」
「謝ることじゃないよ。こうして小井戸が無事ならそれで」
「先輩……」
ぎゅっと小井戸の抱きしめる力が強くなる。怖い思いをしたのだろうから仕方ない。
「さて、少し陸に上がって休むか」
「……もう少しこうしていたいっす」
「動かなくても海の中っているだけで結構疲れるんだぞ。さっきので体力も削られただろうし、早く上ろうぜ」
「……あとほんの少しでいいんす。先輩の体、あたたかくて、気持ちよくて、心地がいいんすよ」
「さしずめ太陽の体ってところか」
「手どころじゃないっすね。へへっ」
俺たちは冗談を言い合い、小井戸は俺の中ではにかむ。
「茉衣さん、蓮兎さん。大丈夫でしたか?」
俺たちがその場から動かないので、紗季ちゃんは浮き輪で浮いたままバタ足でこちらに来てくれた。
すると小井戸が少しだけ俺の体から離れた。
「先輩が助けてくれたので大丈夫っすよー。紗季ちゃんにもご心配かけて申し訳ないっす」
いつもの調子で返す小井戸を見て、俺は少し安心する。
「ご無事そうで安心しましたっ。あ、茉衣さん。この浮き輪使いますか?」
「いえ、大丈夫っすよ。紗季ちゃんがそのまま使ってください」
「じゃあ茉衣さんはどうするんですか?」
「あのイルカ使うか?」
「いやぁ、もうイルカくんと一緒は御免蒙りたいっすね」
哀れ運命共同体。イルカは小井戸から見切られてしまったみたいだ。
未だ転覆したままのイルカを眺めながらそんなことを考えていると、「なので先輩」と小井戸に話しかけられる。
「イルカくんの代わりを先輩にお願いしたいっす!」
そう言って笑う小井戸の表情はいつもの生意気なそれだったが、日焼けのせいか火照っているように見えた。
「あぁ任せろ。俺は浮くのが得意なんだ」
「先輩は学校で浮いた存在っすもんね!」
「いま鋭利なものを俺に刺すのはやめろ。空気が漏れて沈みかねないぞ」
「へへっ。先輩ごめんなさーい」
謝罪の言葉を口にする小井戸だが、その態度は完全に俺のことを揶揄っている様子だった。
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