第122話

 朝、目を覚ましてから今日はぐうたら過ごさずに一階へおりる。


 すると出勤前の母さんと目が合い、怪訝そうな顔をされる。


「夏休みに入ってからだらけた生活を満喫していると思いきや、今日は早いのね。今日も出かけるの?」

「うん」

「ふぅん。美彩ちゃんたちと?」

「……いや、今日は違うよ」

「じゃあ昨日と一緒で小田くん?」

「小田でもないよ。その……学校の後輩に誘われたんだよ」


 小田と会った昨日の夜。突然、小井戸から遊びに誘われたのだ。


 先輩のことですからどうせ暇ですよねと翌日の予定を決められてしまった。まあ何も予定はなかったけど。


「あんた部活に入ってもないのに後輩がいるの?」

「意外とできるもんみたいだよ、これが」

「へぇ。なんて子なの?」

「ちょっと生意気だけどしっかりしてるピンク頭かな」

「ピンク!? なかなかパンチの効いた子ね……少し見た目が気になるじゃない。写真とか持ってないの?」

「あー、あるにはあるけど……まあいいか」


 勝手に見せるのはよした方がいいかなと一瞬思ったが、俺のためとはいえ俺の写真を勝手にばら撒いていたやつが咎めてはこないだろうと踏み、俺は以前本人からもらった遠足中の彼女が映った写真をスマフォの画面に表示させた。


 そこには小田の彼女さん……草壁さんも映っている。まだメガネ時代の彼女の姿を改めて見るが、やはり昨日見せてもらった面相とは全然印象が違う。


 そんな感想を抱きつつ、写真を母さんに見せる。


「はい、これ。目立つから詳しい場所は言わないでもいいよね」

「うわぁ……本当にピンクねぇ。待ち合わせには困らなさそう」


 どんな感想だよと思いながら、母さんに提示していたスマフォを下げようとすると、


「待って。もう少しだけ見させて」


 母さんに静止をかけられた。そして母さんは画面をじっくりと観察する。


「この子……もしかして……」


 何かぶつぶつ呟いているが、俺はそんな母さんの言動より気になることがある。


「母さん、時間大丈夫?」

「え……あっ! もう、早く言いなさいよ。遅刻したら面倒なんだから」

「へいへい。いってらっしゃい」

「いってきます。蓮兎も気をつけてね」

「うん。母さんも」


 母さんが玄関から出て行くのを見届けた後、洗面台へ向かって顔を洗ったりしてリビングへ向かおうとすると、スーツ姿で玄関に立っている父さんと目が合った。


 父さんは無言で玄関とこちらを交互に見ることを繰り返し、そこから動こうとしない。


 もしかして……


「あー、父さんもいってらっしゃい。がんばってね」


 声をかけると、父さんの表情はぱっと明るくなり、サムズアップをして意気揚々と家を出て行った。


 やはり父さんも母さんのときみたいに息子からの「いってらっしゃい」が欲しかったらしい。


 我が父ながら少し可愛いなと思う。


 夏休み中も少し早起きしようかな。




 * * * * *




 平日の十時ごろ。


 普段なら人混みも少ないだろうが、夏休み中なだけあって若者があちらこちらにいる。いや俺も若者だけど。


 そんな人混みの中、母さんの感想通り、小井戸を見つけるのは容易だった。


「よっ」

「あ、先輩! おはようございます!」


 彼女がこちらに振り向いたことにより、ド派手な髪が靡き、彼女の笑顔と対面する。


 そして、彼女の隣にもう一人いることに気がつく。


「お久しぶりです、蓮兎さん!」

「え……紗季ちゃん!」


 彼女の黒髪に映える純白のワンピースに身に纏った天使が俺に微笑みを向けてくれる。


「む。なんか先輩、紗季ちゃんの存在に気づいた瞬間、ボクに挨拶してくれたときより嬉しそうな表情になりましたね」

「えへっ。蓮兎さんはわたしのこと大好きですもんね!」

「好きというか、崇めてます」

「わたし崇拝の対象になってます!?」

「こんな頼りになる後輩を差し置いてその態度はどうなんすか先輩。……と言いたいところっすが、ボクも紗季ちゃんを師事している立場。ここはさすが我が師匠と言うべきっすかね!」


 そういえば、小井戸は紗季ちゃんから男の扱い方を学んだとか言ってたな。


 そう考えると、たしかに紗季ちゃんは小井戸にとって師匠になるのか。そして小井戸は俺の師匠なわけで……


「師匠の師匠……つまり紗季ちゃんは俺の大師匠か!」

「あぅ……お二人のテンションについていけません……。でもわたし、へこたれませんよ! これが蓮兎さんたちの通常なんですもんね! 適応してみせます!」

「適応しなくていいよ。むしろ紗季ちゃんがこんなバカなノリをする姿は見たくない」

「ちょっと先輩! それってボクのことバカだと思ってるみたいじゃないっすか!」

「安心しろ、俺も一緒だ」

「へへっ。それならいいっす!」

「いいんだ」

「はい!」


 俺のこのバカげたノリに乗ってくれる人は小井戸くらいなので、これからも続けてくれるみたいで一安心。


 ニコニコ笑顔を浮かべる小井戸に対し、紗季ちゃんは頬を膨らませている。


「むぅ……蓮兎さんは茉衣ちゃんと大変仲がよろしいんですねっ」


 茉衣というのは小井戸の下の名前だっけ。一瞬誰のことか分からなかった。


「わたしとも仲良くしてくれないと、いや、ですっ」

「っ!」


 紗季ちゃんは拗ねたような態度をとりながら、俺の手を握ってきた。


 瞬間、俺の胸がズキンと痛んだ。


 ……なんだこの子。やっぱり天使か?


 反射的に彼女の小さな手を握り返すと、紗季ちゃんの表情は柔らかいものとなっていく。


「えへっ。こうしていたら、誰から見てもわたしと蓮兎さんは仲良しですよねっ」


 彼女はそう言って俺の目を見つめながら微笑む。


 そこで俺は間違いに気づく。


 この子は天使じゃなかった。小悪魔でした。


 紗季ちゃんの認識を改めていると、彼女は頬を赤らめ、上目遣いで見つめてきた。


「今回は茉衣さんに誘っていただきましたが……次は蓮兎さんの方から誘ってほしいですっ」

「紗季ちゃんが望むならまた今度、俺の方から誘うよ」

「本当ですか!? 約束ですよっ。忘れないうちに連絡先交換しましょう。今までお姉ちゃんがいたからできな……あ」


 紗季ちゃんは咄嗟に自分の口元を空いてる方の手で押さえるが、既に言葉は漏れてしまった後だ。


 紗季ちゃんのお姉ちゃん……つまり美彩のことを口にした瞬間、俺たちの間の空気が凍った。


 ここで俺が何か言えばいいのだろうけど、丁度いい言葉が出てこない。


「紗季ちゃんは中学生になってから携帯を買ってもらったんすか?」


 そしてこういうとき、俺を助けてくれるのはやっぱり小井戸だった。


 紗季ちゃんも小井戸の機転に気づいたみたいで、小井戸が提供した話題に食いつく。


「あ、はい。本当は小学生の頃から欲しかったんですけど、親の方針的にまだ早かったみたいで」

「いやー、わかるっすよ。これは便利っすけど危険なものっすからね。まあ紗季ちゃんは賢いから変な使い方はしないと思いますが」

「そう言っていただけると嬉しいです。でも今思うと良いタイミングだったなって思うんです。小学生の頃はわたしもまだ未熟でしたから。ずっと誰かと繋がっているのはちょっと……」

「あぁ……連絡先って意外と知れ渡ってるみたいっすね。全く知らない人から連絡きたとき困るんすよねぇ」

「わかりますっ。わたしに興味を持っていただけるのは嬉しいのですが、一方的に知られるのって少し怖いです……」


 どうやらモテる女子の悩み雑談が始まったらしい。


 俺は彼女たちの会話には入らず、しかししっかりと話だけは聞いてその内容を胸に刻むのだった。

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