第15章 敗者

第116話

 今日模試が終わったところだが、翌日から期末試験だ。赤点を取るとせっかくの夏休みが補習地獄になってしまうため、普段勉強しない奴らもこの時期だけは勉強漬けになる。


 俺も例に漏れず、部活に入ってもいないのに夏休みに学校に行きたくないので、疲れた体に鞭を打って自室の机に向かわせ、勉強に勤しんでいた。


 ……集中できない。ちゃんと教科書の文字を読んでいるはずなのに、頭に流れるのは別のことばかり。数学の問題を解いているはずなのに、別の問題が頭の中を占めてくる。


 机の上に置いてあったスマフォを手に取って操作して、画面に表示した名前を見つめる。


 迷惑だろうか。向こうも期末試験あるし、勉強とかしてるよな。そもそも夜中だしな。


 色々やめる理由は思いつくのに、俺は気づいたら彼女に通話をかけていた。


 3コールもしない内に相手は出てくれ、今日も元気な声を耳元に響かせる。


『こんばんはです、先輩!』

「ばんは。ごめんな急に」

『いえいえ! ボクはいつでも大歓迎っすよ! なんならこのままオールしちゃいますか!』

「それもいいなぁ」

『……ってダメですよー。明日は期末試験なんすから。しっかり寝ないと試験中に寝ちゃうなんて悲惨な目にあっちゃいますよ』

「それもそうだな。すまん。そこまで小井戸を付き合わせるわけにはいかないな」

『別にボクはいいんすけどねー。それで何かボクに御用ですか?』

「いや、ごめん。ちょっと小井戸と話したくなっただけなんだ」

『……なんすか先輩、また寝ぼけちゃってるんですかー? 後でたくさん揶揄っちゃいますよー?』

「それは嫌だなぁ」


 俺がそう返すと『ですよねー』と小井戸の笑い声が聞こえてくる。


 何も中身の無い会話。だけどこれがすごく楽しい。頭の中からごちゃごちゃしたものが抜けていく感覚がする。思考がクリアになってきて気持ちいい。


「小井戸は試験対策大丈夫? まずいならすぐ通話切ってもらっていいから」

『余裕っすよー。正直、直前に軽くおさらいすれば満点取れる自信あるっす』

「……マジ?」

『うわー全然信じてくれてませんねーその反応。これでもボク、学年主席なんすよ』

「…………マジ?」

『さっきより飲み込めてないじゃないですか! なんなら先輩より勉強できる自信あるっすよ』

「なんだと。じゃあ、ちょっと問題出すぞ」


 俺は机の上に開かれている物理の問題集から一問選び、その部分を写真撮って小井戸に送る。


「いま問題の写真送ったからさ、ちょっと解いてみてよ」

『いいっすよー。えっとー……』


 物理は二年生から習う科目だ。流石に意地悪しすぎただろうか。だけど後輩に学力で馬鹿にされたままなのは俺のプライドが許さな——


『解けましたー。答えは三番ですよね』

「今度勉強教えてもらえませんか」

『身代わりはやっ! いや別にいいっすけど、流石にプライド無さすぎませんか』

「知ってるか小井戸。年下に頼ることは恥ずかしいことじゃないんだぞ」

『それボクが言ったことじゃないっすか! 何あたかも自分の言葉のように使ってるんすか。どんだけプライドないんすか』

「ごめんな。後輩に頼るだけじゃなくて、後輩の言葉まで盗用して。俺という存在に俺の要素は既にないのかもしれないな」

『うわー言い過ぎましたー本当は先輩に頼って貰えて嬉しいんですーてか先輩言い過ぎですってー先輩は先輩ですよー』


 いつものノリをこなしたところで、俺たちは笑い合う。


 思えば、いつも俺がやってるこの自虐も小井戸に甘えているだけかもしれない。つまり、俺は初めから小井戸を頼ってたことになる。情けないな。


『そういえば先輩、聞いてくださいよ! ついにボクは秘技を会得することができました!』

「秘技? なんだそれ」

『ふっふっふ。ズバリ、自分のことを好きになる一歩手前までに好感度を抑えつつ男性と仲良くなる技っす!』

「ごめん。よく分かんない」

『レスポンスの速さから考える気を感じなかったんすけど! まあ説明するんすけどねー。こほん。この前先輩、ボクに言ってくれたじゃないですか。男性を勘違いさせるような言動は控えろって』

「あー、言ったな」


 小井戸は俺たちを助けてくれるための情報を集める際、サッカー部員を中心に多くの男子に接触していた。そしてその中に小井戸のことを好きになってしまった人も多く、小井戸は大量の告白を受ける羽目になっていた。


 加えて、小井戸は情報を集めるために相手の懐に潜り込むようなことをしていたため、こいつ自分のこと好きなんじゃねという勘違いをした人も多く。告白を断った際、逆恨みで何かしでかすような奴もいる可能性がある。


 そこで俺は彼女にそういうことは今後控えてほしいとお願いしていたのだった。


『いやー、あれって結構難しいんすよね。どうして男性ってあんなに簡単に勘違いしちゃうんすかね。挨拶しただけでボクがその人のことを好きだと思われたこともあったんですよ』

「それは……男性側の立場として、なんか申し訳なくなるな」

『あー別に責めてるわけじゃないんで! とにかく、ボクは先輩に言っていただいてから色々試行錯誤してみたんすけど、どうも上手くいかなくて。そんな時、とある知り合いと再会したんです!』

「知り合い……?」

『ふっふっふ。聞いて驚いてください! ボクの師匠は、なんと紗季ちゃんっす!』

「な、なんだってー……うん、なんか納得した」

『ちょっ、なんすかその反応! もっと驚いてくださいよ!』

「いやぁ、紗季ちゃんから授かった男の扱い方の秘技でしょ? 絶対やばいじゃん。驚き通り越して納得しかないよ」

『ボクは先輩の反応に納得いきません!』


 納得いかないと言われても困ってしまう。


 だってあの紗季ちゃんから授かった秘技でしょ? もうそれを聞いただけで効果の絶大さは分かるし。


『はぁ。とにかくそういうわけなので、もう先輩は心配しなくて大丈夫っすよ』

「うん。それはよかった」

『へへ。先輩の心労は軽減したいっすからねー』

「流石です小井戸様」

『ふふーん。でも様はやめて欲しいっす!』

「わかりました小井戸殿」

『どんだけボクと距離を取りたいんすか!』

「冗談だよ、小井戸」

『へへーん。わかってますよー』


 呼び捨てにするだけで機嫌をよくする小井戸に、俺はつい笑ってしまう。


『ところで先輩。恋愛に関する技繋がりなんすけど、"モテる女のさしすせそ"って知ってますか?』

「"さしすせそ"? 料理のじゃなくて?」

『どうもモテるために活用される"さしすせそ"があるみたいなんすよ。例えば、"さ"は"さすが"です。とにかく相手を立てたり肯定する言葉の集まりみたいっすよ』

「なるほど。じゃあ、"し"は"知らなかった"とか?」

『さすがっす先輩! ボクは知らなかったのにすぐに答えられるなんて!』

「早速その技使ってない? えっと、次は"す"か……まあ簡単に"すごい"だな」

『すごいっす先輩!』

「わざとやってるよね? 次は"せ"かぁ……"せ"? いや分からんな。"せなんや"とか?」

『どうして急に関西弁になるんすか。正解は、"センスある"でした!』

「せなんや」

『いやそれ技じゃないっすからね。先輩の"せ"ですからね』

「俺の"せ"ってなんだよ」


 さて。そんな馬鹿なトークを繰り広げていると結構いい時間になってきた。


 小井戸の言う通り、睡眠をしっかり取っておかないと明日の試験中に寝てしまいかねない。最悪俺はいいけど、小井戸にまで影響が出てしまうのはまずい。


「この辺で終わるか。今日はありがとな」

『はい! ボクはいつでもどうぞっすよ! ……でも、本当にもういいんすか?』

「……なんのことだか」

『もー先輩は仕方ないっすねー。そもそも先輩はお二人と付き合ってる時点でクズ野郎なんすから、いまさら後悔なんかして凹む必要ないとはボクは思うんすけどね−』

「どんな慰め方だよ」

『でも言って欲しかったんですよねー』

「……うん。ありがとな、小井戸」

『いえいえー。では、おやすみなさい先輩!』

「おやすみ」


 小井戸との通話を終了し、熱くなったスマフォを机の上に置く。


 俺は開かれた教科書を見つめ、一つため息をついて呟く。


「もう少し頑張るか」

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