第112話

 今日は一日中、晴と一緒にいた。横浜にデートに行った日ぶりだろうか。


 俺が満足したのか晴が満足したのか、俺たちは気が付いたらホテルのベッドで一緒に寝ていた。起きた時には昼をとっくに過ぎていて、料金が前来た時より格段に高くなっていた。


「えへへ。レンとこうして一緒に寝るの、実はあたし結構好きだったんだぁ」


 目を覚まし、隣で寝ている俺を見て言った晴の言葉に俺は共感した。


 彼女との事後、毎回襲ってくる罪悪感に苛まれながら、彼女の身体に触れてる部分から伝わってくる彼女のぬくもりがなんとも気持ちよくて。鼻腔をくすぐる彼女の柑橘系のにおいが好きで。この世には俺たちしかいないんだと錯覚するあの感じが心地よくて。


 俺はあの時間が好きだった。


 それから俺たちはホテルを出て、適当に街をぶらついてから帰った。


 二人で店に入り、二人で感想を言い合い、二人でご飯を食べて……。


 晴が望んでいるものはこういった日々なんじゃないかと分からされた気がする。そして、俺が願うのもきっと。


 だけど家に帰り、部屋着に着替える際、ズボンのポケットの中に入れて朝から放置していたスマフォを手に取ったときに思い出した。


 俺たちが今日みたいな日を過ごすのは難しいことを。


 今朝、美彩から大量の連絡が来ていたことに気がつく。いや、気にしないようにしていた。考えないようにしていた。


『私はもう着いてるわよ』『今日も遅刻かしら』『そろそろ予定の電車が来るのだけれど』『待ってるわね』『蓮兎くん』『まだかしら』『蓮兎くん』『もしかして、晴と一緒にいるの?』『蓮兎くん』『蓮兎くん』『蓮兎くん』『蓮兎くん』『蓮兎くん』『蓮兎くん』『蓮兎くん』『蓮兎くん』『蓮兎くん』『今日は帰るわね』


 俺は頭の血が引いていくのを感じながら、急いで返事をしようとして文字入力画面を開き、手を止めた。


 なんて返事をすればいいんだ。美彩を置いて晴と一緒に過ごしていたのは事実じゃないか。それも美彩を騙す形で。


 ……謝ることしかできないか。


 俺は『ごめん』とだけ打って、それを送信した。するとすぐに既読が付き、『別に怒っていないわ』と返ってきた。


 そして『今日はもう寝るわね。おやすみなさい』というメッセージが続いて届いた。


 簡単な謝罪しかさせてもらえなかった。言い訳をする機会もくれなかった。俺自身が楽になる行為を封じられてしまった。


 一旦スマフォを置く。だけど数分後には拾って美彩とのトーク画面を開いて見つめる。それを何回も、何回も繰り返し行った。


 結局、その晩、俺の頭の中は今日デートした相手である晴ではなく、美彩のことでいっぱいになっていた。




 * * * * *




 朝。いつものルーティンをこなすために和室へと向かう。


 部屋の端にある座布団の上に正座し、仏壇の前で手を合わせる。


「俺、どうしたらいいのかな」


 いつもこうして彼女に話を聞いてもらっているが、最近は俺の悩み相談ばかりだ。後輩から年下に頼るのは悪くないと散々言われたけど、さすがに頼りすぎな気がする。


 返事はないけど心は少し軽くなる。あまり学校に行きたくない気持ちもあったけど、なんとか行けるメンタルができてきた。


 そういえば中学の頃もたくさん話を聞いてもらっていた気がする。実は昔から年下に頼りっぱなしだったのかもしれない。


 情けなくてごめんね。


 俺は胸中で彼女に謝って立ち上がる。


 家を出て学校に向かうが足が重たい。これは気分の問題なのかそれとも体調の問題なのか、それを判断することすら今の俺にはできない。


 学校に着き、教室に入る。しかし、いつもの声が聞こえてこない。


 不安になりながら彼女の席の方を見ると、たしかに彼女の姿はあった。登校していることに安心しつつ、やはり怒っているのだと改めて認識する。


「おはよー瀬古」


 晴はいつも通りの感じで挨拶をしてきてくれた。いや、少しだけ機嫌がいいだろうか。


「おはよう」

「美彩、どうしたんだろうね。なにかあったのかなぁ」


 挨拶を終えると早々に、晴は美彩の調子の話をし始めた。その内容自体に違和感はないが、話題の出し方がなんともわざとらしい。やはり晴は嘘をつくのが下手みたいだ。でも時折、俺は彼女の嘘に騙されてしまう。


 どうやら晴は美彩がいなくとも俺の方に来るらしい。まあ、昨日の今日で、晴から美彩の方に近づくのは難しいか。


「あのね瀬古。昨日の夜、勉強しててわからないところがあって——」

「ごめん。俺、ちょっと美彩のところに行ってくるよ」

「あ……うん」


 俺は晴の言葉を遮って美彩のもとへ向かう。やはり気まずいのか、晴はついてこない。


 英単語帳を眺める美彩の隣に立つと、俺の気配を察した彼女はゆっくりとこちらを向いた。


「あら。おはよう蓮兎くん。来てたのね」

「……おはよう、美彩。その、昨日のことなんだけど……ごめん」

「言ったじゃない。私は怒っていないって。だから蓮兎くんが謝る必要なんてないのよ」

「でも……」

「もうすぐチャイムが鳴るわよ。席に着いた方がいいんじゃないかしら」


 取り付く島もないとはこのことだろうか。


 謝罪をしようにも、彼女はそれを受け入れてくれない。そもそも彼女が怒っていないというのなら、俺がいくら謝罪してもそれは無意味なのかもしれない。


「マジであの二人喧嘩してる感じ?」

「今まで喧嘩とかなかったよね」

「やっぱり友達同士と恋人同士では違うんじゃねえの、色々と」


 俺たちの会話を聞いた周りのクラスメイトが、俺たちについて話しているのが聞こえてくる。やっぱりこれは喧嘩なのだろうか。いや、その領域にすら達していないんじゃないか。だって、圧倒的に俺が悪いのだから。


 席に着き、自分の席から見える美彩の姿を眺めながら彼女のことを考える。


 挨拶はしてくれた。普通に会話もしてくれた。だけど昨日の話はしたくないという拒絶の意志を感じた。


 彼女は俺を糾弾するわけでもなく、ただただ話を避けている。その理由が分からない。


 彼女の気持ちが知りたい。彼女の真意が知りたい。もっと彼女と話がしたい。彼女と。彼女と。彼女と……。


 最近、休憩時間になると彼女は必ず俺のところまで来てくれた。そして楽しく雑談をし、時には体に触れてきたりなんかして。隣の席の男子が気まずそうにしているのが視界に入り、俺も気まずくなるといった時間を過ごしていた。


 だけど今日は来てくれない。席を立とうとする気配すら見せない。


 だから俺から行くことにした。


 俺が席を立つと、こちらに向かって歩いてきていた晴の動きが止まったのが視界の端で見えた。だけど俺はそれに構わず、美彩のもとへ向かう。


 美彩の席に近づき、彼女に声をかけようとしたその時、彼女は席から立ち上がった。


「美彩……」

「ごめんなさい。私、今からお手洗いに行くところだったの」

「……そっか」

「えぇ」


 じゃあまたあとで、という言葉を出すことができず、教室から出ていく彼女の後ろ姿を見届けた。


 その後の休憩時間も、彼女はお手洗いに行くと言って教室から姿を消し続けた。やはり、彼女は俺を明確に拒絶している。


 そして昼休憩になった。だけど彼女はこちらにやってこない。そればかりか、また教室から出て行こうとしている。


「瀬古ー。ご飯食べよー」

「……わるい、日向。ちょっとトイレ行ってくる」

「……わかった。待ってるね」


 なんとかして彼女と話がしたいと思った俺は、晴にそんな嘘をつき、懲りずに彼女の後を追いかける。トイレの前を素通りし、階段を降り、さらにさらに歩いていく。一体どこへ向かっているのだろうか。


 そして遂に分かった。彼女の行く先はプールだった。正確には、プールの更衣室だ。


 カーくんとナーちゃんという後輩カップルの愛の城であり、裏庭から追い出された俺と小井戸が代わりに使用した話し合いの場であり、晴と行為に至ったあの場所だ。


 美彩にこの場所を教えてはいた。小井戸との話し合いをどこでしたのか聞かれたことがあったからだ。だから、もし一人になりたいと思っているのなら、彼女がここに来る理由も頷ける。


 だけど今は後輩カップルがいるんじゃないだろうか。もし彼らが愛を語っているときに美彩が居合わせてしまったら、かなり気まずいことにはなるはずだ。


 一応、彼女に後輩カップルの話もしていたはずだけど、もしかして忘れているんじゃ……っ!


 俺は少し焦り、彼女が中に入って行った更衣室へ駆け込む。


「美彩! …………え?」


 更衣室の中には美彩しかいなかった。そこについては安堵するところだ。


 俺が驚いたのは、更衣室に入った瞬間、彼女に抱きしめられたからだ。


 彼女は「ふふ」と笑い、俺の目をうっとりとした瞳で見つめながら言う。


「来てくれると信じていたわ。私の蓮兎くん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る