第109話

 昨日の昼からほとんど寝ていたこともあり、今日の俺の体調はそこそこ回復していた。


 だけど依然として頭が重たく、朝食を摂った後に水の入ったコップを持って自室に戻り、錠剤と一緒に胃に流し込む。


 そして朝から放置していたスマフォを手に取り、再び一階におりる。空になったコップを流し台に置いていると母さんが怪訝そうな顔で俺を見てきた。


「なんでわざわざ自分の部屋で飲んできたの」

「飲もうとした時にスマフォを上に忘れてることに気付いたから、取りに戻っただけだよ」

「……そう。それで、今日も出かけるわけ?」

「うん。夜咲と日向たちとね」

「お金は大丈夫なの? 足りないなら渡すわよ」

「いや大丈夫だよ。今までそんなに使ってないから、もらったお小遣いとかお年玉が貯まってるの、母さんも知ってるでしょ」

「……まあいいわ。もう財布から出しちゃったから受け取りなさい」


 そう言って、母さんは五千円札を俺の前に差し出した。


「い、いいって」

「このまま受け取ってくれた方が母さんは助かるの。子供が親の厚意を断るんじゃないの。はい」


 母さんは俺の手を掴み、俺は半ば無理やりに五千円札を握らされた。


「……ありがとう」

「お金なんてあって困ることはないの。貰えるもんは貰っとくもんよ。これ瀬古家の家訓ね」

「初耳なんだけど」


 リビングのソファでくつろいでいる父さんも「マジで?」という顔をしてこちらを見ている。その表情から父さんもお小遣い欲しいなという思いが伝わってくるが、おそらく貰えないだろう。


 母さんは「細かいことは気にしないの」と俺から視線を外しながら言う。その顔は少しだけ赤らめている。


 その赤みが引いたところで、母さんは俺の方に向き直し、少し悲しげな表情を浮かべた。そして両腕が少しだけ前に動き、そこでしばらく止まった後、元の位置に戻った。


 何がしたかったのだろうと首を傾げていると、母さんはふぅとため息をついて言った。


「ちゃんと家に帰ってきなさいよ」

「子供じゃないんだから。大丈夫だって」

「あんたはまだ子供よ。母さんにとっては、ずっと、ね」


 なんだと、という反発心が一瞬顔を出したが、母さんの慈愛に満ちた目を見ているとそんな気持ちはすぐに引っ込んで行った。


「いってきます」

「いってらっしゃい」


 今日は家に帰ったら、まずは母さんに「ただいま」って言おうかな。




 * * * * *




 今日はいつもより早い電車に乗る。遠出する予定なのだろうか。


 行き先を知らされていない俺は、どこに行くんだろうと予想しながら駅へ向かう。


「……ん?」


 いつもなら美彩が先に着いていて俺を待っている場所に、美彩の姿がなかった。いつもより早いから少し遅れるのだろうか。


 ついに美彩より先に着くことができたぞと思いながらその場に立とうとすると、後ろから声をかけられた。


「おはよ、レン」

「えっ」


 声をかけてきたのは美彩ではなく、隣駅で合流するはずの晴だった。


「ど、どうして晴がここにいるんだよ」

「いいじゃん別に。一緒に行くんだし」

「それはそうだけど……そういえば美彩見てない? まだ来てないのかな」

「美彩は現地まで車で送ってもらうんだって。さっき連絡があったよ」

「え、マジか。気づかなかった」


 連絡を確認するためにスマフォを取り出そうと手を動かすと、晴にその手を掴まれた。


「ねえ。電車に遅れたらいけないからさ、早く行こうよ」

「あ、あぁ」


 晴は俺の手を掴んだまま、改札へと歩き始める。そして俺は晴に連行されるように歩く。晴から手を離す気配を感じられない。


「晴。手……」

「いいじゃん別に」

「さっきからそればっかりだな」

「……やだ?」

「嫌ではないけど、誰かに見られたらまずいだろ」

「……やだ」

「だろ。だからさ——」

「そんな理由でレンの手を離すのやだ。それに昨日はレンから繋いでくれたもん。……そう、これはレンを案内するために繋いでるだけだから。セーフだもん」

「案内って……」


 ここは俺の家の最寄り駅なんだから、案内なんてされる必要ない。


 だけど、まあ恋人繋ぎでもないし、完全に連行されてる形だし、言い訳はできる範囲か。昨日のことを言われると痛いし。


「わかった。じゃあ案内頼むよ」

「……うん、任せて」


 それから俺たちは手を繋いだまま改札を通り、ホームから電車に乗った。晴は電車に乗っても俺の手を離そうとしない。もしかしたら今日はずっとこの調子かもしれない。


 さすが日曜日というべきか。電車の中は混んでおり、座る余裕なんて微塵も感じられない。俺は空いた手で吊り革につかまる。


「今日はどこに行くの? まだ聞かされてないんだけど」

「内緒だよ」

「サプライズ的なあれか?」

「……うん。そんな感じ」

「ふーん、なるほどね」


 晴は今日出会ってからずっと大きなリュックを背負っている。もしかしたら、その中に入っているものがサプライズに関連してくるのかもしれない。


 しかし、誕生日が近いわけでもないのに何のサプライズなんだろう。……付き合って一ヶ月記念とか? たしかにそろそろそんな時期だ。


 もしかしたら、美彩が今日は車で行くのもそれに関連してくるのかもしれない。


 待てよ。だとしたら俺も何か準備をしておくべきじゃないだろうか。


「なあ晴。俺、何も準備できてないんだけど」

「え? レンはそのままで大丈夫だよ」

「そ、そうか」


 晴はそう言ってくれるけど、なんか申し訳ない気持ちになってくる。俺からは後日改めて行いたいところだ。


 その時、ポケットの中のスマフォが震えた。それは何度も何度も震えて、俺にメッセージの着信を知らせてくる。


 スマフォを取り出そうとすると、晴に「吊り革を離したら危ないよ」と言われた。「あたし、吊り革の代わりにレンを支えにしてるから、あたしも危なくなるよ」と付け加えられた俺はスマフォを断念した。


 しばらくすると、スマフォの振動は完全に止まった。


 それから俺たちの間に特に会話はなかった。いつもなら元気に話しかけてくる晴が、じっと窓の外を眺め続けているから俺も話しかけづらく、結局そのまま電車から降りるまで無言のままだった。


 1時間ほど電車に揺れてやって来た駅は初めてくるところだった。でも特に驚くことはない。最近はあまり知り合いと遭遇しないように、俺たちが普段行かないようなところを目指しているためだ。この前行ったドッグカフェがあった町も初めて行ったところだったし。


 つまり、今日も初めての場所に行くわけか。少し楽しみだ。


「こっちだよ。行こ。歩きスマフォはダメだからね」


 俺はまた晴に連行される形で、知らない町を歩いていく。


 目に映るもの全てが新鮮で、正直歩いているだけで楽しい。


 駅を降りてから俺たちは指を絡めた手の繋ぎ方をしている。だから彼女と一緒に散歩をしている、恋人同士ののどかなワンシーンのように思える。


 栄えている駅前から離れ、ぽつぽつと個人店が立ち並ぶ通りに出て、更に奥へと進んでいくと遂には店が見当たらなくなった。遠くにコンビニが一店見えるくらいだ。


 ……なんかデジャヴを感じる。あの時は美彩とだったけど、これってもしかして——


「ついたよ」


 やっぱり。俺の嫌な予感はやたら当たる。そして予感したときにはいつも既に手遅れだ。


 晴が立ち止まったのは、『HOTEL』と書かれた建物の前だった。


 どうして今まで気づかなかったのだろう。変な雰囲気は感じ取っていたはずなのに。やっぱり体調が万全ではなくて頭が回っていないのか……それとも俺が単に馬鹿なのか。


「晴。ここはやめよう」

「レン昨日、あたしが行きたいところに行こうって言った。あたしレンとここに行きたい」

「い、言ったけどさ。てか美彩は? 現地集合って、もしかしてここにいるの?」

「美彩はいないよ。今日はあたしとレン、2人きりだよ」

「……美彩にはいつもの時間を伝えたんだな」

「うん。だってレンを独り占めしたかったんだもん。ね、入ろう。レン。美彩とも入ったんでしょ。あたしとはダメなの?」

「ダメじゃないけど、また今度でも——」

「入ってくれないと、ここで大きな声出すよ」

「入ろうか」


 俺も学習しない馬鹿だなあと胸中でボヤきながら、晴と一緒に煌びやかな建物の中に入っていく。

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