第12章 いざ江ノ島

第93話

 今日は待ちに待った遠足の日。


 まあ、実際はそこまで待ち望んでいたわけではないけど。ただ、授業から解放されて学校行事として校外に出ることは特別感があってやっぱり好きだ。


 制服に着替え、家の和室の隅に正座して目を瞑ってしばらく手を合わせたあと立ち上がり、荷物を持って玄関に向かう。これが俺の毎朝のルーティンだ。


 手を合わせて目を瞑る時間が入るから、俺は毎朝学校に着くのがギリギリになる。だけどこの時間を無くそうとは思えない。


「蓮兎」


 靴を履き終えたところで、母さんに声をかけられた。


「今日は少し早いのね」

「うん。向こうの駅に現地集合だからね」

「そう。今日もあの子に挨拶はしてきたの?」

「もちろん。日課だしね。ちょっと悩みを聞いてもらってたよ」

「母さんに話してくれてもいいのに」

「年頃の男子には母親に話せないこともあるんですー」

「母さんに話せないようなことを、あの子に話してたわけ? 変なこと言ってないでしょうね」

「……いってきまーす」

「おいこら。……はあ。いってらっしゃい。気をつけてね」


 母さんに見送られ、俺は家を出る。普段は母さんの方が先に家を出るので、この感じは小学生時代ぶりだろうか。


 そういえば小学生の頃の遠足はどこに行ったんだっけ。当時の記憶が朧げになってしまっていることから、自分の成長を感じてしまう。今もいつかは遥か遠い記憶になるのだろうか。


 ……そうだ。最後の年は5年生と合同になったんだった。なんでも5年生の行き先の施設で不祥事が起きたとかで、定員が存在しない山登りに行く予定の6年生である俺たちの方に合流してきたんだ。


 曖昧な記憶を思い起こしながら歩いていると、最寄り駅に到着した。


 そこには美彩の姿があった。彼女とは待ち合わせをしていたのだ。


「おはよう美彩」

「おはよう蓮兎くん。間に合ったみたいね」

「なんだよ、今まで遅刻したことはないだろ〜」

「ふふ。だって蓮兎くん、いつも登校はぎりぎりだもの」

「それには深い訳が……あるわけでもないな。あれだよあれ、道行くおばあちゃんの荷物を持ってあげてるんだよ」

「どれだけ困っているおばあさんに会うのよ。でも、もしその様な方に出会でくわしたら、あなたはすぐに手を差し出すでしょうね」

「冗談言っただけなのに、恥ずかしくなるようなこと言わないでくれよ」

「ふふ。だってあなたのその表情、好きなんだもの」


 美彩は揶揄うように笑い、俺はその笑顔に見惚れてしまい更に顔が熱くなっていく。


 このままでは彼女に恥ずか死されかねないので、話題を変える。


「美彩は小学生のとき遠足はどこ行った?」

「小学生のとき? そうね、たしか美術館とかに行ったわ」

「なんかお上品」

「何よその感想。低学年の時は公園にも行ったわよ。あまり遊具で遊んではダメと言われたけれど」

「え、じゃあ何で遊ぶの?」

「絵を描いたり、鳥の声を聞いて楽しんだりかしら」

「俺の知らない遠足だなあ」

「私的には助かったわ。あまり騒がしいところへ行っても、一緒に楽しめるお友達がいなかったもの。でも、今はあなたと晴がいるから、今日の遠足はとても楽しみだったの」


 そうして微笑む彼女の表情は、先ほどの笑顔とは比較にならないほどの破壊力を持っており、それを直視した俺の顔は火がついたかのように熱くなっていく。


 結局、彼女にしてやられてばっかの俺は、彼女の要望により電車の中で手を繋いでいた。


 俺たちは実際に付き合っているわけだが、世間的にはそれより前から俺たちは付き合っていることになっている。そのため、同じ高校の生徒に見られても特に驚かれたり怪訝な表情をされることはない。


 美彩は顔を前に向けて、窓の外を眺めている。しかし、意識は俺の手と繋がられている手にあるようで、時折にぎにぎと動かしたかと思えば、ぎゅっと強く握られたりする。


 あまり甘えてきたりしないためか、そんな彼女の様子がとても愛らしく感じた。


 乗っている電車が隣駅に到着する直前で、彼女はそっと俺の手を離した。彼女の横顔はどこか寂しげだったが、その手を掴み直すことは俺にはできなかった。


「おはよ、瀬古! 美彩!」


 だって、今到着した駅から晴が乗ってくるから。


 俺と美彩が外で恋人同士の距離感を取るのは大丈夫だが、晴とも付き合っているとはいえ、晴とそのような距離感でいるわけにはいかない。


 それは晴も承知しているようで、俺の隣を位置取るが、美彩より半歩離れた場所に立っている。


 そして美彩も、自分だけでは不公平になってしまうということで、俺の手を離したのだ。


 俺たちはまた、絶妙なバランスで保たれた関係を築いてしまっている。


「ねえねえ。今日、晴れてよかったね!」


 晴は今日をかなり楽しみにしていただけあって、嬉しそうに天気のことを話してくる。


「本当に梅雨入りしたのか疑わしいくらい快晴だな」

「ね! もし今日雨降っちゃったら、自分のことを雨女だって思っちゃってたかもしれないよ」

はるなのに雨女とはこれいかに」

「あー。瀬古、それネームハラスメントだよ!」

「なんで俺は毎度どマイナーなハラスメントで訴えられるんだ」

「知らないよ! もう。じゃあ、あたしだって瀬古の名前弄っちゃうもんね。えーっと……蓮兎だから、瀬古はうさぎさん! 瀬古は実は寂しがり屋さんなんだよね」

「決めつけがすごい。ていうか、寂しがり屋なのは晴の方じゃ」

「あ、あたしは違うもん!」


 否定する晴に、俺は「本当かー?」と揶揄うように笑う。


 そんなことをしていると、晴とは反対側の制服の裾が引っ張られる。振り返ると、美彩が少し頬を膨らませていた。


「ねえ蓮兎くん。晴にばっかり構っていないで、私にも構いなさいよ。私、こう見えて寂しがり屋なのよ」

「美彩は逆に孤高なイメージがあるんですけど」

「そうね。昔はそうだったかもしれないわ。だけど、蓮兎くん、あなたに変えられてしまったの。だから責任を取って欲しいわ」

「語弊語弊。ゴヘーハラスメント」

「蓮兎くん。ハラスメントを付ければなんでも言い返せるものではないのよ」

「なんで俺だけ使えないんだよそれ」


 俺が落胆の声を漏らしていると、美彩はくすくすと笑った。どうやらまた彼女に揶揄われてしまったらしい。


「そういえば、二人はお菓子とか持ってきた?」

「持ってきていないわね」

「ないなあ」

「えー。せっかくの遠足だよー。遠足といえばお菓子でしょ!」

「高校に入ってからお菓子の持ち込み自由になったし、あんまり特別感がな」

「そうね。それに、貸切バスではなく電車移動だから、あまり食べるタイミングがないんじゃないかしら」

「うぅ……あたし、みんなと食べようと思ってチョコ持ってきちゃった」


 晴はそう言って、カバンから個包装のチョコが入った袋をチラ見せしてくる。


「晴。あなた、江ノ島に着いたらたくさん食べたいものがあるって言ってたじゃない。お菓子を食べる余裕なんてあるの?」

「だ、だけどさぁ、やっぱり遠足にお菓子は欠かせないなあって思ったんだよ! ほら、甘いものは別腹だよ別腹!」

「なら向こうでデザートは食べないのね」

「……食べる」


 拗ねたように言う晴に、美彩はため息をつく。


 たしかに、甘いものって意外とお腹が膨らむんだよな。


 だけど晴がこの遠足を存分に楽しもうという気持ちは以前から十分に伝わってきているので、このまま気持ちが沈んで欲しくないなと思った俺は、青くて丸味を帯びたロボットよろしくショルダーポーチから何かないか探してみる。


「ん?」


 今回は遠足ということで重たい教科書等を持ってくる必要がなかったので、いつものリュックではなくこのポーチに変えて、それに財布やハンカチ等を軽く詰めた。


 だからあまりいい感じのものが入っているとは思っていなかったのだが、自分では入れた記憶のない個包装された飴玉の入った小袋が入っていた。


 それをポーチから取り出し、一つだけ摘んで晴の前に出す。


「晴。これならお腹は満たされないけど、お菓子を楽しむっていうのはクリアできるんじゃないか」


 晴は差し出された飴玉を見て、少し陰りを見せていた表情をパッと輝かせる。


「飴玉! もらっていいの?」

「うん。まあ、用意したのは母さんなんだけど」

「そうなんだ。えへへ、ありがと瀬古!」


 お礼を言って俺から受け取った飴玉を受け取った晴は、早速それを口の中に放り込み、「おいしー」と頬を綻ばせる。


「いちごミルク味だー。瀬古はこの味が好きなの?」

「俺がっていうより母さんかなぁ。昔から母さんは飴と言ったらこの味を買ってくるから、家には常にあるイメージすらある」

「へぇ〜。瀬古のお母さん、そんなにいちごミルクが好きなんだ」

「蓮兎くん。私も1ついただいていいかしら」

「どうぞ。ついでだし、俺も貰うか」


 口の中でころころと転がるいちごミルク味の飴玉を楽しんでいると、例の小学生時代の遠足の時を思い出した。


 そういえば、あの時もこの飴を持って行かされたっけ。

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