第90話

 飲み物の注文を終えたところで、話は本題へと移った。


 切り出したのはやはり美彩だった。


「小井戸さん。例の噂の件、あなたには本当に助けてもらったわ。改めてお礼を言わせて。本当にありがとう」

「いえいえ。元はと言えば、ボクがあの人に噂を流すように誘導したので。なんかお礼を言ってもらうのは変な感じっす」

「それを言ったら、私が蓮兎くんと付き合っているなんてことを言い出さなければ、彼が浮気をしている前提条件はなかったのよ」

「ううん。あたしがあんな関係を提案しなかったらこんなに拗れなかったと思うし、あたしが悪いよ」

「無神経にも人前で告白するようなことを毎日行い、それに加えて意志薄弱な態度を取ってしまった俺が全部悪いです本当にごめんなさい」


 全員が全員謝罪をするという異例の事態が起き、俺たちのテーブルの空気は一気に死ぬ。


 しかし、小井戸がパンッと両手を合わせたことでその空気は霧散していく。


「はい。それでは全員がそれぞれに原因があったということで。責任の所在は有耶無耶にしましょう」

「……そうね」

「あたし的には助かる、かな?」

「後輩にまた救われて心が苦しいよ俺は」

「むっ。だから先輩、頼る頼られるに年齢は関係ないんすよ! そんなことを言ってたら、先輩がいざとなった時に思い浮かぶ選択肢が狭まってしまうんですよ」

「小井戸さんの言う通りね。私も紗季に頼ることは少なくないもの。もちろん最初は抵抗があったけれど、あの子のアドバイスは本当に頼りになるし、それに頼られた側も嬉しいものよ」

「……そうだな。うん、ここは素直に感謝するよ。ありがとな小井戸」

「ふふーん。まぁボクは先輩の後輩ですから、これくらいは当然っすよ」


 小井戸がお得意のドヤ顔を披露したところで、マスターが注文した飲み物を持ってきてくれた。


 すると小井戸はマスターにドヤ顔を見られて恥ずかしくなったのか、少し顔を赤くして顔を伏せてしまった。


 俺たちはそれぞれ注文した飲み物を一口飲んでいく。暑くなってきたから、アイスコーヒーがとても美味しい。暑いのは季節だけのせいじゃない気もするが。


「それにしても、小井戸ちゃんには本当に助けてもらっちゃったなぁ。ありがとね。あたしが告白された時もそうだし、今回なんて特に……あたしは何もできてないのに」

「今回の件についてはボクの自作自演みたいなものなので仕方ないですよ。日向先輩がそのことで気に病むことはないですって」

「えへへ。小井戸ちゃんは優しいね。……あ、レン。そのコーヒー、ちょっともらっていい?」

「えっ。別に良いけど、晴はコーヒーは苦いから飲めないんじゃなかったっけ」

「う、うん。でもあたしも早く大人になりたいから、コーヒーに挑戦してみたいの!」

「晴。コーヒーが飲めたからといって、大人になったとは言えないのよ。現に、蓮兎くんはコーヒーが飲めるけれど子供っぽいでしょ?」

「なんで急に苦汁を飲まされたんだろ俺」

「ふふ。少し揶揄いたくなっただけなの、ごめんなさい。でも私はそんなあなたを可愛いと思っているし、好きよ」

「今度は砂糖をぶっかけられちゃいましたね先輩」

「口の中が甘くなっちゃった。ちなみに俺はブラック派だ」

「うぅ……今はあたしがレンと話してるの! もうっ、勝手に飲んじゃうから!」


 晴は怒った様子で、俺のアイスコーヒーが入ったコップを手に取り、それを勢いよくストローで吸い上げた。そして、


「……にがぁい」


 まさに苦汁を飲まされた顔を浮かべる。


「うぅ……にがいよぉレン……」

「分かってたことだろ。せめてミルクや砂糖入れてから挑戦するべきだったな。ほら、オレンジジュース飲んで苦味を流し込んじゃえ」

「うん……えへへ、甘くて美味しい。やっぱりオレンジジュースが好きぃ」


 無事、晴の笑顔を取り戻すことができてほっと胸を撫で下ろす。


 すると、小井戸が胸を押さえているのに気づく。


「……先輩。今なんか胸にこみ上げてくるものがあったんすけど」

「年下も対象にするのか……これが晴の魅力だよ」

「はぁ……これは敵いませんね」

「え、え、なんの話? あたしの魅力?」

「晴が可愛いってことだよ」

「……レン! 好き! 大好き!」


 語彙力を失ってしまった晴は、見えない尻尾をぶんぶん振り回しながら、俺の腕に抱きついてくる。


 ちなみに、美彩がいる時でも晴のことを名前で呼ぶようにした。流れで美彩に対しては人前でも名前で呼ぶようになり、そして今、二人と付き合っているという状態になったことから、晴だけを名前で呼ばないのは不公平だと思ったからだ。それに、今まで苗字で呼んでいた理由も無くなったし。


 流石にクラスメイトの前では名前で呼ぶことはできないけど、事情を知っている小井戸の前では大丈夫だと判断した。


 頬を俺の腕にすりすりして甘えてくる晴の感触を堪能していると、反対側の腕にも感触を覚えた。


 振り向くと、夜咲が拗ねたような表情で腕に抱きついてきていた。


「晴ばっかり構ってずるいわよ、蓮兎くん。私はコーヒーが飲めて大人なのだから、魅力たっぷりだと思うのだけれど」

「さっき、コーヒーを飲めても大人ではないって言ったのは美彩では」

「そんなもの場合によるわ。大人はもっと多角的にものを捉えるものよ」

「屁理屈こねるあたりがむしろ子供っぽいんだけど」

「なっ。……蓮兎くんは、子供っぽい私は嫌いかしら?」

「むしろギャップがあって可愛いなって思います」

「……ふふ。そういうことなら、たまにはこうしてあなたに甘えるのも良いわね」


 美彩はそう言って、晴と同様に俺の腕に頬を擦り付けてくる。その表情は綻んでいるが、心なしか赤い。


「そういえば小井戸」

「えっ。この状況でボクに話を振るんすか!? な、なんすか」

「いやな、今回の件はかなり小井戸に救われたわけだけど、俺たちのために小井戸の身を危険にさらすことはなるべく避けてほしいなって。下手したら、小井戸も荒平に危害を加えられていた可能性もあるし。それに、他のサッカー部員についても、情報を集めるために色々としてたんだろ」

「……あー、バレてましたか。そうっすね、たしかにわざと思わせぶりな態度を取っていたところもありました。うん、先輩がそう仰るなら、今後はそういうことはしないようにします。告白されるのも疲れますし、それにこれ以上先輩に心労をかけられないっすからね」


 小井戸はそう言って、にひっと笑う。


 俺はその発言を聞いて、理由が少しずれてるなあと思い苦笑を浮かべる。


 すると、美彩が顔だけ俺の腕から離し、小井戸の方を向いて言う。


「小井戸さん。あなたには本当に感謝しているわ。けれど、どうして蓮兎くんのためにそこまでできるの? 蓮兎くんに助けてもらったお礼だとは聞いているけれど、それにしてはやりすぎじゃないかしら」

「……なんすか、まだボクと先輩との仲を疑ってるんすか? まあ夜咲先輩の気持ちも分からなくもないですけど、ボクは先輩の後輩。それ以上でもそれ以下でもないですし、それ以外は求めてないっす」

「……そう。それならもう一つ聞きたいのだけれど、あなたは本当に蓮兎くんのためだけに尽力したの?」

「……あぁ、そういうことっすか。そうですよ。ボクは先輩のためだけに動いてました。以前に日向先輩には言いましたが、ボクは日向先輩と夜咲先輩のどちらかに肩入れする気はないっす」

「そう。答えてくれてありがとう」

「いえいえ」


 二人の会話に、晴はこてんと首を傾げる。


 美彩の一つ目の質問の意図はとても分かりやすかった。おそらく晴も理解できただろう。


 二つ目の質問は「晴のためにやったのでは?」という疑問が美彩の中にあったからだろう。


 二人と付き合うことになったため、美彩との関係は未だ否定していない。つまり、世間的には俺と美彩は恋仲だ。


 そして、例の噂の騒動時、学校中のほぼ全員が俺たちの敵になっていた。しかし、噂は完全に否定され、今まで俺たちを非難していた人たちは俺たちに気まずそうな態度を取るようになった。


 つまり、晴が今後、俺と深い仲だと思われるような振る舞いをしたとしても、誰もそれを糾弾できなくなってしまったのだ。


 そのため、晴は俺と美彩の関係を気にすることなく、俺と交流できるようになった。


 例の騒動、結果としては荒平を排除できたことやそれらの理由から、晴に恩恵があったと言っても良い。


 ただ、小井戸は俺のためだけに行動したと言う。美彩がそれをどう受け止めかは分からないが、俺は彼女が嘘をついているようには微塵も思えなかった。

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