第8.5章 にゃんこのきもち

第68話

 晴の蓮兎くんへの想いを知った私は、彼女を喫茶店へと呼び出し、今後のことを含めて話をすることにした。


 彼女の話を聞いてみた結果、やはり彼女も蓮兎くんのことが好きらしい。それも私よりずっと前の頃から。


 私に隠れて、彼女が蓮兎くんと秘密の関係を築いていたことに腹は立っていたが、それを聞いてしまうと彼女を責める気にはなれなかった。私も恋をしてしまったが為に、彼女の気持ちというものを理解できてしまったのだ。


 お互いに彼を譲る気はないことを確認したところで、彼の容態についての話題に移った。


 どうやら彼女は彼の体質については詳しくないみたいで、彼のお母様からお話を聞かされていないのだと分かる。そのことが私に少しだけ優越感を覚えさせた。親友に対してこんな感情を持ってはいけないのに。私たちは親友であり、ライバルになってしまっていることを再認識する。


 ひとまず、お互いに彼へのアプローチは当分禁止する約束をした。これは彼のためでもあり、私たちの気持ちの整理をする時間を確保するためでもある。今の私たちは混乱状態にあり、どのような行動を取ってしまうか分からない。その結果、私たち自身だけでなく、彼を傷つけることになってしまったら悔やんでも悔やみきれない。


「美彩。付き合ってもいない女の子と寝るような男を好きになったらダメなんだよ」

「晴。ほぼ毎日、公衆の面前で好意をぶつけてくるような男性を好きになったらダメよ」


 私たちの間に火花が散ったような気がした。


 マスターが震える手でコーヒーを持ってきてくれた。私はそれを一口飲み、心を落ち着かせる。やはりここのコーヒーは格別ね。


「ところで晴。あなたと蓮兎くんの関係はいつからなの?」

「えっと、11月くらいからかな」

「そう。私があなたに決意表明をした後くらいね」

「……そうだよ。その美彩の決意表明が、あたしに火をつけたんだもん。それで、どうしてこんなこと聞いてきたの?」

「確認のためよ」


 11月。やはり彼のアレが無くなった時期と重なるわね。


「晴。あなた、蓮兎くんに『美沙に付き合ってくれって言わないで』ってお願いしたの?」

「え、そんなこと言ってないよ」

「ならどうして、彼は私に『付き合って』と言わなくなったのかしら」

「あたしには分かんないよ。そもそも、レンがそれを言わなくなったのも気づいてなかったし」

「本当? あれだけ毎朝、彼が教室で叫んでいたのに」

「……だって、聞きたくないんだもん。最初の方は聞いてたけどさ、去年の夏前から聞かないようにしてるの。……朝から胸が痛くなるなんて、辛いもん」


 晴が嘘をついている可能性もある。だけど、目の前で苦しそうな表情をして話す彼女を見ていると、本当のことを言っているとしか思えなかった。それに、彼女は嘘を吐くのが下手だ。


「……そう。ごめんなさい、疑ったりなんかして」

「ううん。あたしが美彩の立場だったら、同じように疑っちゃうと思うから」


 そう言って微笑む彼女に、私も微笑みを返す。


 彼女が指示したわけじゃなかった。なら、彼自身が考えて「付き合って」という言葉を封印したということ?


 ……もしかしたら、彼の心はもう私のものだけではなくなっているのかもしれない。


 今までにはなかった焦燥感が、私を襲い始めた。




 * * * * *




 蓮兎くんが倒れてしまった原因は私にある。


 あの時……彼の体についたキスマークを見て、それが晴が付けたものだと知った時、私の中で煮えたぎる嫉妬の炎と心を覆う黒いモヤが、私の体を突き動かした。


 気づけば彼の唇を奪い、さらに彼の身体を欲するように、かつて紗季が持ってきた少女漫画で見たシーンを真似て、彼の口内へと自分の舌を侵入させた。


 彼の舌と私の舌が触れ合った瞬間、脳に快楽の汁が溢れたような気がした。そしてそれは、去年の夏に彼に後ろからハグされた時以上のもので、私の脳は完全にそれに浸されていた。


 我を失って、ひたすら彼を求めた。自分がこんなにも理性を失うだなんて思っていなかった。それほどまでに、キスというものは快感だった。


 晴の悲鳴が聞こえる。いつもならすぐに駆け寄ってあげたくなる声。だけど、その時の私は心の中で笑っていた。黒い私が生まれてしまった恐怖もあったが、私の心は抵抗することなくその黒に染まっていった。


 結局、晴によって彼と引き離されてしまった。口が自由になり、体が欠乏した酸素を急いで取り込み始めた。もしかしたら、彼女が止めてくれなかったら、私はそのまま酸欠になっていたかもしれない。本当に理性を失っていたのだと再認識する。


 そして、そんな私の馬鹿げた行動のせいで、彼は倒れてしまった。


 彼の体質を知っていたのに。私利私欲に走って、彼の体調を気にしていなかった己の馬鹿さ加減に呆れる。嫌悪する。殺意が湧く。


 彼に直接謝罪をしたかった。だけど、彼のお母様から連休が明けるまで彼と接触しないでくれと言われてしまった。もしかしたら、お母様は私に見切りをつけたのかもしれない。私に彼を任せることはできないと。


 そして、彼も。彼も私に失望してしまった可能性がある。こんな不埒な私のことを嫌いになったかもしれない。


 そんな考えがずっと頭の中を駆け巡り、私はこの連休中、晴と話し合いをする時以外は外に出かけることもできず、食事も喉を通らなかった。


 せめて。せめて彼に謝罪をしたかった。完全に自分のための謝罪だ。だけど、それをしないと私の心が崩れてしまうような気がした。


 連休は今日まで。明日になったら授業がある。彼も学校に来るだろう。……彼は本当に来るだろうか。体調は回復傾向にあると、メッセージを通して彼から聞いてはいるが、本当に来てくれるだろうか。……私に会いたくなくて、登校を拒否するなんてことも考えられる。


 私は晴とある約束をした。この連休中は、彼との過度な接触は自重しようと。私から提案した内容。


 なのに、私の手は彼に通話をかけていた。次に会える日なんて待てなかった。来るかどうかも分からない次を待てるほど、今の私の心は強くなかった。


 呼び出し音が鳴り続ける。もしかしたら出てくれないかもしれない。かけた後に気づいた。スマフォを握る右手が震えるので、左手でなんとか押さえる。


 お願い。出て。蓮兎くん。


 祈りを込めてスマフォを握る力を強めた瞬間、呼び出し音が止まった。代わりに、


『もしもし』


彼の声が聞こえた。ずっと聞きたかった声。聞いていると落ち着く声。私の大好きな声。


 暴れる心臓を押さえながら、普段の自分を思い出して声を出す。


「……こんにちは、蓮兎くん。お久しぶりね」

『そうだな。たった数日だけど』


 胸にチクリと痛みが走る。


「私にとってはとても長く感じたわ。蓮兎くんはそうでもなかったのかしら」

『……いや、長かったかな』

「ふふ。そう。よかったわ」


 胸の痛みが引いていく。こんな些細な会話で敏感に反応してしまうくらい、私の身体は脆くなっていた。怖い。だけど、なぜか心地がいい。


「……ごめんなさい。本当は電話もしてはいけないと思うのだけれど、我慢できなくて」

『いやいいよ。めっちゃ暇してたし』

「……ありがとう。それと、ごめんなさい」

『謝罪はもういいって』

「違うの。さっきのは、先日、急にあんなことをしてしまったことへの謝罪。……本当にごめんなさい。自分でもどうしてあんなことをしてしまったのか、今でも理解できないわ。……けど、本当はしたかったのでしょうね。ああいうことを。幻滅した、かしら」


 聞いて、目を瞑る。彼の答えを聞きたいのに聞きたくない。そんな矛盾した気持ちを抱えていると、


『いや、そんなことしないよ』


彼はそんなことを、すんなりと言ってくれた。


「嘘。初めてだったんでしょ? それをあんな強引に、私は奪ってしまって」

『いや本当に。驚いたけどさ。……嫌ではなかったから』

「本当?」

『本当』

「私に気を遣って嘘なんてついていないわよね」

『今まで美彩に嘘なんかついてきてないのに』

「今回が一度目かもしれないじゃない」

『今までのことは信じてくれるんだ』

「当たり前じゃない。あなたはいつでも私に誠意を持って接してくれていたもの」

『じゃあ今回のことも信じてくれよ』

「……ずるいわよ、蓮兎くん」

『そういう奴なんだ俺は』

「ふふ。知ってるわ」


 彼が私の魅力を知ってくれているように、私も彼の魅力を知っている。彼はこのような場面で嘘をつく人ではない。


 つまり、彼は私を許してくれている。いや、そもそも怒ってなどいなかった。そうだ。彼の魅力の中に、とても深い優しさもあった。


 私は彼の優しさに救われたのだ。


「私、夜咲美彩は瀬古蓮兎のことが好きよ。一人の男性として。そばにいて支えてあげたいと思っているわ」


 だから、言わないでおこうと思っていたことも言ってしまった。彼の優しさに甘えて。私の中で暴れる焦燥感に駆られて。


 彼を手に入れるために。


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