第7.5章 わんこのきもち

第58話

 レンが倒れてしまった。


 目の前で意識を失って体を横にするレン。あたしは動揺して何もできずにいたのに、美彩は迅速に行動した。レンに呼びかけを行いながら救急車を呼んでくれた。


 その一連の行動を見て、やっとあたしは我に帰ってレンに声をかける。


 美彩が呼んだ救急車に一緒に乗って病院へ向かった。あたしたちは病院の先生に事情を聞かれたが、詳しいことを話すわけにもいかず、話をしていたら突然苦しみ始めて倒れてしまったと伝えた。


 あたしたちがレンに危害を与えたのだと疑われているのかと思ったが、それ以上深くは聞かれず解放された。


 その後はレンのお母さんが来るのを待っていた。その間、あたしたちは一言も言葉を交わすことはなかった。出会ってからのこの一年間、こんなに気まずい空気になったのは初めてだ。


 彼女の顔を見ると、とても苦しそうな表情を浮かべている。レンのことが心配なのだろう。彼女の顔を見ているとあの強烈な光景が脳裏に浮かんでくるため、すぐに目を逸らした。


 どうして彼女はあんな行動を取ったのか。それは容易に想像がつく。彼女は以前、レンのことが好きになってきたとあたしに表明してくれた。そしてレンの体にあたしが付けたキスマークを見て、焦った彼女は彼をあたしから取り返そうとしたのだろう。それがあの行為の動機。


 あの時の映像を記憶から消し去りたいのに、あたしの脳に強くこびり付いてしまっている。目を瞑っても浮かび上がってきそうなので、下手に目を瞑ることもできない。胸が苦しい。


「美彩ちゃん。晴ちゃん」


 名前を呼ばれて顔を上げると、目の前にレンのお母さんが立っていた。肩で息をしていることから、連絡を受けてここまで飛んできたのだと分かる。


「二人ともありがとうね。救急車も呼んでくれたみたいで」

「いえ……蓮兎くんが倒れてしまったのは、私のせいなんです。なんとお詫びをしたらいいのか」

「あ、あたしのせいです。具体的な原因は、その、分からないんですけど、あたしが一緒にいて、それで……ごめんなさい」


 何とか謝罪の言葉を口にすることができたが、具体性のかけらもなく、ただ形として謝ったような出来になってしまった。


 だけどレンのお母さんはにっこりと笑い、


「大丈夫よ。美彩ちゃんには前に話したけど、おそらく今回倒れたのもあの子の体質のせいだから。そんなに気に病まないで」


 それを聞いて美彩は「あっ」と何かを思い出したかのように呟く。


 何それ。あたし聞いてない。どうしてあたしには教えてくれなかったんだろう。レンのお母さんは美彩がレンの彼女になって欲しいのかな。だから美彩にだけその事を教えたのかな。ずるい。ずるいよ。


 そんな考えが脳内を埋め尽くしたが、すぐに追い払う。今はそんな事を考えている場合じゃない。だけど、すぐにまた醜いあたしが現れる。


 そういえば、以前レンが学校を休んだ日、お見舞いに行った時に彼は言っていた。頭痛が起きやすい体質だと。もしかして、それに関連する事なのだろうか。


 以前彼が頭痛を起こしたのは、あたしとあの関係を築いた直後だった。そして、今回もあたしが自分の想いを伝えた後だった。……あたしのせいだ。あたしが、また、レンを苦しめてしまったんだ。


「あ、あの。蓮兎くんが起きるまで、私も一緒にここで待っていてもいいでしょうか」


 あたしが真実に気づいて愕然としていると、美彩がレンのお母さんにそんな事を訊ねていた。


 あたしも一緒にいたい。レンが許してくれるなら、そばにいたい。そう思い、あたしも同じお願いを言おうと口を開いた時、


「ごめんなさい。この後は私に任せて、二人はもう帰りなさい。ご家族も心配しているでしょうし、それに二人の体も疲労しているでしょう?」


 一見、あたしたちの心配をしてくれているような言葉だったが、それはあたしたちを拒絶しているように感じた。早く帰ってくれ、今はレンと会わないでくれと言っているように聞こえた。


「で、でも。私のせいで彼は倒れてしまって、償いをしたいんです。せめて彼に謝罪を……」


 レンのお母さんの言葉の真意に気づいていないのか、美彩は食い下がる。だけど、


「大丈夫よ。あの子は二人を責めたりはしないわ。決してね」


 やはりそのお願いが通ることはなかった。


「それと、あの子に『蘭』のことを聞くのはやめてね。お願い」


 どうして、と聞こうと思ったが、聞けるような空気ではなかった。さっきまで質問していた美彩も、流石にもう聞くそぶりを見せない。


 結局、あたしたちは病院を後にした。自宅に帰るための電車を待っている間も、あたしたちの間に会話はない。


 そろそろ電車が来るというタイミングで、美彩が正面を向いたまま口を開いた。


「明日、二人で会いましょう。場所はメッセージで送るわ」


 一方的な物言いだったが、あたしも彼女と話をしておきたかったため、「うん」と短く返事をした。


 それ以降、あたしたちの間には再び沈黙が流れた。




 * * * * *




 美彩が指定してきたのはとある喫茶店だった。


 お店の中はとても落ち着いた雰囲気で、普段こんな空間で過ごすことはないので緊張する。今日の話し合い自体緊張するのに。


 既に席に着いていた美彩を見つけ、対面に座る。


「美彩。おまたせ」

「大丈夫よ。そんなに待っていないから」


 軽く挨拶を済ませたところで、ひげを蓄えたマスターがやってきて注文を取ってくれた。コーヒーがイチオシだというマスターからの視線を感じたが、あたしは飲めないのでオレンジジュースを注文した。マスターの眉が下がってしまって少し申し訳ない気がしたけど許してほしい。


 注文した飲み物が届くまで話は始まらないと思っていたが、美彩はすぐに話を切り出した。


「あなたと蓮兎くんはただの友達じゃなかったのかしら」

「友達だよ。今はまだ、だけどね」

「……そう。あなたの気持ちは分かったけれど、私が聞いたのはそこじゃないの。あのキスマークはどういうことかしら。どうして友達にあんなものを付けることがあるのかしら」

「美彩も察しがついてるでしょ。あたしとレンは何度も体を重ねてきた。少しずるい手を使ったけど。キスマークはその時に付けたの」

「……どうして、っていうのは愚問よね」

「うん。ごめんね美彩。あたしも瀬古……ううん、レンのことが好きなの。大好きなの」


 あたしがそう告白すると、美彩は驚いた様子もなく「そう」と呟くだけだった。やっぱりあたしの気持ちを察していたみたいだ。


「正直なところ、晴。あなたには腹が立っているところもあるわ」

「うん。それは仕方ないよ」

「でも、私にそれを怒る権利なんてないわ。だって彼の気持ちを長い間蔑ろにしてきたのは私だもの。……晴はいつから彼のことが好きになったの?」

「……わかんない。気づいたら、頭の中がレンのことでいっぱいになってた。だけど、一学期が終わる頃には既に……ううん、もう少し前からかもしれない」

「……そう。それだけ早い頃から彼のことが……。やっぱり、私が出遅れただけね。だからあなたを責める気はないわ」

「許してくれるの?」

「許すも何もないのよ。私にはその権利がないのだから。……でも、まだ付き合っていないのでしょう? 私は彼を諦めないわよ」


 それは明らかな宣戦布告だった。以前も彼女はこんな風にあたしに宣言していた。だけど今回は前とは違って、あたしを親友としてではなく、ライバルとして見ている。


「あたしだって、譲れないから」


 あたしはそれに応える。そして、どちらからともなく笑みが溢れた。まさか親友とこんな関係になってしまうとは、初めは思っていなかった。


「でも、しばらくは蓮兎くんにアプローチするのはやめましょう。おそらく彼、私たちのことで頭を悩ませていたんだと思うの」

「なんかそういう体質なんだっけ? 美彩はレンのお母さんから聞いてたんだよね?」

「えぇ。彼、悩みを一人で抱え込んで、そのまま処理しきれずに頭痛と熱を出してしまう体質みたいなの。それを知っていながら、あんな事態を引き起こしてしまった自分が不甲斐ないわ」

「だったらあたしにも責任があるよ。うん、その提案を受け入れる。レンのためだもんね」

「えぇ。蓮兎くんのためにもね」


 さっきから美彩はレンのことを「蓮兎くん」と呼んでいるけど、あれはお母さんの前だけではなかったのだろうか。もしかして……


「ねぇ美彩。レンのこと『蓮兎くん』って呼んでるの?」

「えぇ。二人きりの時だけね。ちなみに彼は私のことを『美彩』って名前で呼んでくれるわ」

「へぇ。そうなんだ」

「そういう晴も、さっきから彼のことを『レン』って呼んでいるけれど」

「うん。あたしも二人きりの時は『レン』って呼んでるんだ。もちろん、レンもあたしのこと『晴』って呼んでくれるの」

「そう」


 カウンターの方から食器同士がカチャカチャと触れ合う音が聞こえる。なんだかやけに店内が静かな気がする。


「美彩。付き合ってもいない女の子と寝るような男を好きになったらダメなんだよ」

「晴。ほぼ毎日、公衆の面前で好意をぶつけてくるような男性を好きになったらダメよ」


 あたしたちは静かに笑う。


 ちょうどその時、マスターが注文した飲み物を持ってきた。オレンジジュースの入ったコップを持つマスターの手は細かく震えていた。


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