第48話

 まだ唇に感触が残っている気がする。自分の唇に触れてみるが、そこには何もない。当たり前だ。なのに、柔らかい感触が頭から離れない。


 先ほど、美彩との別れ際に、俺は彼女にキスをされた。その衝撃が未だ残っている。


 頭から追い出すためにも、俺はひたすら歩く。歩いて、歩いて、歩いて。いつもの公園のところまで来た。ここで左に曲がれば瀬古家がある。しかし、俺は右に曲がり、とある目的地に向かって足を進める。


 別に電車を使ってもよかったが、美彩にバレてはいけないし、今はとにかく一人になって外気に触れていたかった。この感触を残したまま、目的地に着くわけにはいかない。


 三十分弱ほど歩いて、俺は目的地に着いた。そこはもう見慣れた家の前。さっきも訪れたところだ。俺はおもむろにスマフォを取り出し通話をかけると、2コール目の途中で相手が出た。


『れ、レン? どうしたの? レンから通話なんて珍しいね、えへへ』

「ちょっと出てきてくれないか」

『え……? も、もしかしてっ』


 目の前の家の二階の窓から、可愛らしい女の子が顔を出す。その子は俺の姿を確認すると満面の笑みをこぼした。そしてまたその姿は消えて、今度は玄関の方から現れた。まだ制服姿のままだった。


「レン! あっ……美彩は?」

「夜咲とはもう解散したよ」

「そ、そうなんだ。でも、どうしてレンがここに? あ、あたしは嬉しいけどね。でも、どうしてかなって」

「ちょっと忘れ物があってさ」

「忘れ物? この前来たとき何か忘れてたっけ? ごめん、あたし気づいてないや」

「そういうんじゃないんだ」


 疑問符を頭の上に浮かばせた晴の前に、俺は小さな袋を差し出した。


「これを渡そうと思っててさ」

「あたしに? くれるの?」

「うん。開けてみてほしい」


 晴は丁寧に小袋を開けて、中身を取り出す。そしてそれを見た晴は目を輝かせ、俺に抱きついてきた。


「レン! これって!」

「同じものは見つからなかったけど、同じひまわりデザインの髪留め見つけたからさ。代わりと言ってはなんだけど、どうかな」

「嬉しい……ありがとう、レン。大事にするね」


 それはゴールデンウィークの休養中に、少しだけ外出して買いに行ったものだった。このままだと、またいつか晴は河川に探しに行きかねないと思ったのだ。それに、俺が買ってプレゼントすることで、俺とのつながりという点をおさえているはずだ。


 晴は俺から名残惜しそうに離れ、その髪留めを前髪につける。そして恥ずかしそうにはにかみながら「どうかな」と聞いてくる。


「うん、似合ってるよ。俺のセンスで選んじゃったから不安だったけど」

「えへへへへへ。嬉しい。嬉しいよレン。ありがとね。絶対に大事にする。今度は絶対に無くさないからね。……あ、これいくらだった?」

「いやいいよ。……あの時、本当は荒平が晴に襲いかかる前に駆けつけることもできたんだ。だけど俺が変に様子見をしたせいで、晴があんな目に遭って。……だから、これはお詫び」

「そんな。レンが気負うことはないよ。あれはあたしの不注意もあっただろうし、何よりあの先輩がぜんぶ悪いって! ……それにね、あたし気づいたんだ」


 その時、ふと晴の瞳から光が消えた。


「この前レンの身体にキスマークつけたでしょ? あれ、すごく嬉しかったんだけど……あたし、逆に自分の身体につけて欲しいの。あたしの身体はレンのものなんだって、証拠が欲しいの。身につけるものもね、レンが選んでくれたものがいいんだぁ。寒くなってきたらイヴの日にレンにもらった手袋をつけるの。でも今はこのヘアピンだけ。もっとレンが選んでくれたものを身につけたい。だから、買ってもらうのは申し訳ないの。選んでって言いにくくなっちゃうから。全部あたしが買うからね。だから遠慮せずに言ってね。レンが言ってくれたものなら何でも着るから——あっ」


 不安定になってしまった彼女を支えるために、俺は彼女の身体を強く抱きしめる。すると彼女は一瞬驚いた後に、抱きしめ返しくれる。その力は次第に強くなっていく。


「あのね、レン。お願いがあるの」

「聞くだけ聞いてみようかな」

「何それいじわる。……えへへ。さっきも言ったけど、あたしの身体はレンのものなんだって証をつけて欲しいの。だからあたしにちゅ——んっ」


 彼女が言葉を言い切る前に、俺は彼女の唇を奪った。とても柔らかくて、でも弾力があって。ずっとこのままでいたいと思える高揚感が心を満たしていく。だけどそんなわけにもいかず、数秒後に俺はすぐに離れた。晴はぽーっとした表情を浮かべている。


「これで晴の唇は俺のものになった?」

「う、うん! なった! あたしの唇は、レンのもの……えへへ。ね、ねえ。レンが自分からちゅーしたのは、これが初めて、だよね?」

「そうだな。晴が初めてだよ」

「そ、そうだよね! やったやった。またレンの初めてをもらえた。レンの初めて。レンの初めてだぁ。えへへ」


 今の彼女に言うのは残酷だろうか。いやでも、今言うしかない気もする。


 俺は腹を括り、彼女の両肩に手を置いて言う。


「晴。この前の言葉の続きだけどさ。——俺は、日向晴のことが好きだ」

「……ほんと?」

「あぁ」

「……嬉しい。じ、じゃあ、あたしたち今から——」

「でも付き合えない」

「……美彩がいるから?」

「うん。俺は、やっぱり夜咲のことも好きなんだ。だから、この気持ちが整理するまで待ってほしい。本当にごめん」

「……いいよ。だって、あたし決めてたもん。いまさら変わらないよ」


 晴は深い暗闇に染まった瞳で俺を見つめながら言う。


「ずっと待ってるから」




 * * * * *




 俺はその日の帰宅後、とある人物から大量のメッセージを受け取っていた。小井戸だ。


 小井戸はとても明るい性格というか、物怖じしない性格というか。先輩かつ出会って間もない俺に対して、たわいもない話をばんばん送りつけてくる。


 その中で分かったのは、彼女は五つ隣の町からこの学校に通っているらしい。そこまで遠くからわざわざうちに来ている人は珍しく、同じ中学出身の人は一人もいないらしい。


 雑談はしないと言った俺だが、今後彼女と関わっていく上で、彼女の人柄を知っておくことは悪いことではないだろうと思い、適当に返事をしていた。そして彼女は話題をポンポン出してくるため、会話のラリーは止まらない。


 翌日の昼休憩。


 俺は今日も保健室に行くと言って、教室を飛び出して裏庭へと向かった。ベンチには既に誰かが座っていた。小井戸だ。


「早いな」

「あ、お疲れ様っす先輩。まぁ一年生の方が教室から近いんで!」

「なんか昨日ぶりに会った気がしないんだけど」

「まぁあんだけ話してたらそうなりますよね〜。もう、先輩ったら雑談なんてしないぞーって言っておきながら、結構返してくれたじゃないっすか! もしかしてツンデレさん?」

「ちげーよ。ただお前のことがよく知りたくて……いや、これは語弊を生むか」

「なんすかなんすかー? もしかして先輩、ボクのこと狙ってます? ごめんなさい! ボク、自分の恋愛とか興味ないんで!」

「なんか似たようなこと言ってる子がいたなあ。その子も小悪魔系だけど……小井戸はその子の下位互換だな。安心しろ、彼女が天性すぎるんだ」

「ちょっ、なんかひどくないすかそれ!? よく分かんないけど傷つきました!」

「よく分からんのなら傷つく必要ねえよ」

「それもそっすねー。気にしないでおきます」


 小井戸との会話はチャット上でも終始こんな感じで、正直やりやすい。打てば響くのに柔軟というか。話していてとても気が楽だ。


 だけど彼女とは親しい先輩後輩の関係にはなれない理由がある。晴の件だ。


「いやー。先輩は来てくれるって信じてましたけど、本当に来てくれるとは」

「日向の件について、話してくれるんだろ」

「もちろん。小井戸茉衣、先輩に嘘はつかないっすよ。……ってその目、信じてないっすね」

「うーん、そういうわけじゃないけど。ただ、最初から胡散臭い奴としか思えないだけかな」

「そんなぁ。先輩ひどいっすよー。……で、日向先輩の件っすね」


 ブーブーと不満を漏らす小井戸だが、すぐに切り替えて話を戻してくれる。そこがまた話していて心地が良い。


「日向先輩って、先輩のこと好きっすよね」

「……急にかましてくるじゃん」

「話を急かしたの先輩じゃないっすかー」

「たしかににそうだけど……どうしてそう思ったんだ?」

「え? そんなの、日向先輩の目を見れば分かりますよ」


 ……まじ? いや当人の俺、全く気づいてなかったんだけど。


「先輩は全く気づいていなかったみたいっすけど」

「なんでそこまで見抜いて……待て。今、『気づいて』って言った?」

「言ったっすよ。だって先輩、今は日向先輩の好意に気付いてますよね」

「……こえぇ」


 小井戸が当てずっぽうで言っていないのは、小井戸じゃないけど、彼女の目を見れば分かる。彼女は確信して発言しているのだ。


「なんなら夜咲先輩が先輩のことを好きになってるのも気づいてるっすよ」

「お前、恋愛に興味がないんじゃなかったのか」

「興味がないのは自分の恋愛っすよ。他人の恋愛にはバリバリ興味あります!」

「厄介だなぁ」


 そんなところまで紗季ちゃんと似ているなんて。小悪魔度では彼女に負けるとはいえ、身近にこういった女子がいるのは正直不安でしかない。俺の日常がかき乱されそうだ。


「あ、でも安心してください。このことを変に広めたりとかはしないんで!」

「それは助かるよ」

「……信じてくれるんすか?」

「俺に嘘はつかないんだろ? それに、広める気があるなら既に広まっているだろうしな。俺はどうも校内では有名人らしいし、小井戸も人気があるみたいだから、情報源としての信頼度も高いだろう。だけど今のところそんな噂が広まっている気配もないし、小井戸のことを信じるしかないだろ」

「……うっす。感謝っす」

「なんで小井戸が礼を言うんだよ」


 俺がそんなツッコミを入れると、小井戸は「なんとなくっすよ〜」と笑いながら言う。


「それで、どうして俺にその話をしてきたんだ? これをネタに脅すつもりもないんだろ」

「もちろん、先輩にそんなことしないっすよ! いやね、ボクは心配してるわけですよ。先輩が昨日どうしてお昼にこんなところに来ていたのか。いつもはあのお二人と一緒なのに。それはズバリ、いま三人の中で大きな問題が発生して、その中心にいる先輩は居づらくなってここに逃げてきたんですよね」

「当たりすぎてて怖いな」

「あと、昨日ボクのことを助けてくれたのも八つ当たりっすよね。嬉しかったっすけど、あんまりそういうのはよくないですよ」

「怖い怖い怖い怖い怖い。え、俺のこと理解しすぎだろ」

「へっへーん。ボクにかかればなんでもお見通しっすよ」


 小井戸は盛大なドヤ顔を披露するが、その実力は恐れ慄くほど高いため、バカにすることができない。


「はい、ボクは先輩の質問に答えました。次は先輩がボクの質問に答える番っすよ。三人の間で何があったんすか?」

「……なんかここで話さなくても、いずれお前にはバレてしまいそうだな」

「んー、それはどうっすかねー?」

「ここで否定してこないあたり、その可能性が高そうなんだよ。……はぁ」


 俺は観念して、小井戸に俺の悩みをぶちまけることにした。

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