第40話

 晴を追いかけて河川敷を降りる。既に晴は河川敷を降り切っており、そのまま河川の中へと入って行った。河川自体は浅いのだが、足元はどうしても濡れてしまう。しかしそれを全く意に介さない様子で、ざぶざぶと中部へ進んでいく。


 俺も躊躇いを捨て、そのまま河川の中へ飛び込んでいく。靴の中に水が浸水し、歩く度に気持ちが悪い。


 晴は俺たちがさっきまで橋の上で立っていた位置の下の所まで移動しており、その周辺を必死に見渡している。


 俺も軽く周りを見渡すが、それらしきものは見当たらない。そもそもヘアピンのような軽いものは、河川の流れによって流されている可能性がある。そのため探さないといけない範囲はかなり広いかもしれない。


「晴。残念だけど、見つからないよ」

「いやだ」

「風邪引いちゃう前に諦めようよ」

「いやだ!」


 説得の甲斐なく、晴は捜索の手を止めようとしない。


 時期は四月末。気温が暖かくなってきたとは言え、水温は相変わらず冷たい。河川に入ってから、体温が一気に下がっていくのを先ほどから感じている。


「たしかにあのヘアピンは似合ってたけど、そこまで必死に探さなくてもいいじゃないか。また買い直すっていう手だってあるぞ」

「それじゃ意味ないの……あれは! あれはレンがあたしに似合うって言ってくれたから買ったやつなの。あたしがひまわりを好きになったきっかけ。あたしが……レンのことが好きだって自覚するようになったきっかけ」

「……え」

「あのヘアピンはあたしとレンとのつながりの証。それを失いたくなんかないのっ」


 そのヘアピンを購入した経緯は俺も覚えている。三人でいつものお出かけに出ていて、美彩が先に帰ることになり、俺たちも解散することになった日。晴が雑貨屋に寄ると言い出し、何となくそれに付き合った。そして晴が見ていたそのヘアピンを、俺は晴に似合うと言った。


 あの日のことは変に覚えていた。ヘアピンの購入を決めたときの晴の笑顔が眩しくて、綺麗で、可愛くて。見惚れてしまったんだ。


 でも、あの日は去年の今頃だったはずだ。ってことは、晴は一年前から俺に好意を持ってくれていたってことになる。じゃあ、あの歪んだ関係を提案した晴の意図は、今まで俺が思っていたものとは全く異なってくる。


 涙を流しながらいまだヘアピンを探し続ける晴。その姿は脆く見えて、そしてなんとも愛おしくて。……俺は気がついたら彼女を後ろから抱きしめていた。


「もうやめよう晴」

「レン……離して。あたしまだ諦めてない。絶対に見つけるから、だから」

「つながりを示すのは物だけじゃないだろ」

「えっ……」


 一旦晴の体から離れ、その両腕を捕まえてこちらを向かせる。今も涙が溢れ出ており、目元は腫れている。そして頬は朱色に染まっていた。


「俺と晴のつながりを示すものなんて他にもたくさんあるはずだ。思い出だってそうだろ。俺たちの中だけにあるそういったものも特別なものじゃないか」

「……でも、形がないと不安になる。不安になっちゃうよ。レンはいつかあたしのもとから離れる。記憶なんていずれ薄れていくのに。あたしは何に縋ればいいの?」

「これからもたくさん作ればいいだろ」

「……そんなの、約束できないくせに言わないで」

「約束する。たくさん遊んで、たくさん喋って、たくさん色んな経験をしよう」

「……どうしてそこまで言ってくれるの?」

「どうして……それは、俺は、晴、お前のことが——」


「二人で何をしているのかしら」


 晴に俺の気持ちを伝えようとしたその時、河川敷の方から聞き慣れた声が聞こえた。俺の体は咄嗟に晴から離れた。その急な動きで足を滑らせてしまい、俺は転倒してしまう。全身がびしょ濡れになってしまう。


 吸水して重たくなった体を起こしながら、俺は晴に謝罪を入れる。


「だ、大丈夫?」

「いてて……晴、すまん。水かかったよな」

「う、ううん。気にしないで。それより、さっきの言葉の続き……」

「……ごめん。また今度言うよ」

「……わかった。待ってる、から」


 会話を終えて、俺たちは河川敷の方、美彩のいる方へ戻っていく。その間、美彩は怪訝そうな顔で俺たちを見つめている。


「二人とも、どうしてあんなところにいたわけ?」


 美彩の問いに、晴は俯いたまま答えようとしない。なので俺が代わりに答えることにする。


「あの先輩と日向の間でちょっと揉め事があってな。その際にほら、日向の前髪を留めていたヘアピン。あれが河川に落ちちゃって、それを探していたんだ」

「それにしては二人で話し込んでいたみたいだけれど」

「もう探すのは諦めようって説得していたんだよ。川の流れもあるし、下の方まで流されてる可能性もあるからな。結局、日向も納得してくれたよ」

「……そう。それにしてもあなた、随分濡れちゃったわね。着替えはあるの?」

「着替えはないなぁ、今日体育なかったし」

「そうだったわね。でも水を搾るくらいはしておいた方がいいと思うわよ」

「そうだな。上ぐらいは絞っておくか。よっと」


 まずはブレザーを脱いで、軽く搾る。それだけでもかなりの水が出てきた。まあこっちは脱いだまま帰るとして、シャツはちゃんと絞り切らないとな……と思いながら、ワイシャツのボタンを外して脱いでいく。皺がつくのもお構いなしに、力一杯搾ると水が大量に出てきた。


「歩いて帰るしかないなぁ」

「ふふ、そうね。付き合うわよ」

「いや悪いよ」

「いいのよ。蓮兎くんはもっと私に頼ってくれて」

「『蓮兎くん』……?」


 後ろから晴がぼそっと呟いたのが聞こえた。美彩には聞こえていないみたいだ。少し体温が下がる。これは体が濡れてしまったせいだろうか。


 下着まで濡れてしまっており、流石に下は無理だが、上の下着も脱水することに決めた。上の下着を脱いで例のごとく絞り切る。そうしていると、美彩が「あら」と何かに気づいた。


「あなた、もしかしてあの人と殴り合いの喧嘩でもしたの?」

「いや、それはなんとか回避したよ。俺、喧嘩なんてしたことないから自信ないし」

「じゃあ、どうしたのここ。アザができているわよ」

「え……あっ」


 美彩が指差す先を見て、俺は思い出した。そのアザって言うのは、昨日、晴がつけた——


「それ、あたしがつけたキスマークだよ」


 瞬間、場の空気が凍ったのを感じた。先ほどより体温が寒い。まるで冬に戻ったみたいだ。


 美彩の視線は爆弾発言をした晴の方に移る。その瞳に光はない。晴の瞳も暗くなっていた。


「晴。キスマークって、どういうこと? どうしてあなたが蓮兎くんの体に、そんなものを? ねえ、どうして?」

「……レンは、あたしのだから。美彩が悪いんだよ。美彩がレンの告白を断り続けるから。だから、ね。レンをあたしのにしてもいいよね。もうその証拠は付けちゃってるけど」

「あなた……私の気持ち、知ってるでしょ!?」

「うん。でも、抑えきれなかったんだもん。ごめんね」

「っ……じゃあ、私も我慢しなくていいのよね」

「え?」


 美彩はそう言って俺の方を向き直した。そして一歩、また一歩とこちらに近づいてきて——俺の唇を奪ってきた。


 最初は啄むようなキスだった。ただ唇と唇が触れては離れ、そしてまた触れることを繰り返すだけのキス。それはなんだか夜咲美彩らしいなと思えた。だけど、次第にその唇は離れなくなり、ついにはそれは開き、俺の口内へとにゅるりとした生温かいものが侵入してきた。


「んんっ!?」


 あまりの急な出来事に困惑して固まっていた俺も、その衝撃によって我に返る。舌と舌とが触れ合うその初めての感触に身体はゾクゾクし、その快感に脳がくらくらする。


 美彩の顔を見る。目を閉じているが、その必死な姿はどこか愛らしい。ずっとこうしていたいと思わせる。


「……やだ。やだやだやだやだやだ。やめてよ。もうやめてよぉ!」


 晴の悲痛な声が頭の中に響く。それは美彩の耳にも届いているはず。なのに彼女は止まらないし、俺の体も動かない。


「あたしだってまだしてない、ちゅーはしてないの。レンの初ちゅー……返してよ! あたしの、あたしのなのに!」


 晴は叫びながら、美彩の体を引っ張って俺から引き剥がす。離れた俺たちは、お互いに「はぁはぁ」と呼吸を荒くしている。明らかに酸素が足りていない。脳が正常に動いている気がしない。さっきから視界がぐるぐるしている。


「ふふ。良いことを聞いたわ。彼のファーストキスは私が貰えたのね」

「……ダメだよ、美彩。そんな無理やり奪うようなことをしたら。レンが悲しんじゃうよ」

「あら。彼は私のことが好きなのに? 一年間、彼は私にずっと想いを伝えてくれていたのだから、それは晴も分かっていることでしょ?」

「そ、それでも! ああいうのはダメ、だよ」

「それなら、あなたのキスマークはどういう経緯で付けたのかしら」

「そ、それは……」

「あなたも他人に言えないようなことをして、それを行ったのでしょう?」

「っ……でも、でもでもでも! ……ダメだよ。レンはあたしのなんだから。美彩がそんなことしちゃダメなんだよ」

「あら。いつから彼は晴のものになったのかしら」

「だ、だってさっき! ……あれ。まだ、聞いてない。最後まで聞けてない。ね、ねえレン! さっきの言葉の続き……聞かせ……レン!」

「蓮兎くん!」


 二人が言い争う声が聞こえる。ただその内容は頭に入ってこず、ただただ頭痛の原因になっていく。かち割れてしまいそうなほどの激痛が走り、その場で蹲ってしまう。その様子に気づいた二人が駆け寄ってくれる。


 どうしてこんなことになってしまったんだろうか。俺たちは仲良く一年間やってきたはずだった。それなのに、こんなにも簡単に脆く壊れてしまうのだろうか。


 原因、それは非常にシンプルだ。俺だ。俺が原因だ。俺が余計なことをしなければ。美彩にしつこく告白なんかしなければ。晴の誘惑に負けて歪んだ関係を築かなければ。


「ごめん」


 結局、俺がやることは誰かを不幸にしかできない。そんなこと、あの時、思い知らされたはずなのに。


 あの時? あの時っていつのことだ。思い出せない。なのに、記憶にある。なんだこれ。


「ごめん」


 また俺は失ってしまうのだろうか。大事な人を。


「ごめん、らん


 そこで俺の意識は途絶えた。


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