第37話

 カラオケルームを飛び出して夜咲を追いかける。店の外まで出てしまったかと思ったが、廊下の奥を曲がった先にあるトイレの前に立っている彼女の後ろ姿を見つけて駆け寄る。


「夜咲……っ」


 近くに行って声をかける。俺の声に反応して振り返った夜咲の目には涙が溜まっていた。


「せ……蓮兎くん。ごめんなさい、これは気にしなくていいから」


 夜咲はハンカチを取り出し、それで涙を拭いながら「私にも分からないの」と呟く。


 涙の理由は気になるが、本人も原因が分からないと言うし、あまり深掘りするところではないなと判断し、ひとまずここはさっきのお礼を言うことにした。


「夜咲。ありがとな。俺の代わりにあそこまで言ってくれて」

「……いいのよ。あれは私のためでもあるのだから」

「夜咲のため?」

「えぇ。……私、あなたが私にくれる言葉が好きよ」

「……え」


 その言葉の意味が分からず困惑してしまった俺に対し、夜咲はふふっと笑う。


「あなたは私に告白をしてくれる度に、私の長所を伝えてくれた。それらの中には私も自覚しているものもあったけれど、ほとんどが私の知らない私だった。あなたの言葉を聞く度に、私は私でいていいんだと思えるようになってきた。そして自分自身のことが好きになってきたの。……本当に感謝しているわ」


 たしかに俺は告白する際は必ず彼女を褒めるようにしてきた。それは純粋に彼女を喜ばせたいとかそういった気持ちからではない。俺は君のこんな魅力にも気づいているんだというアピールをしたかった、俺の君への想いの強さみたいなものが少しでも伝わればいいと思ってやっていた。完全に下心ありきのものだ。


 それなのに、彼女は俺のそんな俺の言動に感謝していると言う。少し小っ恥ずかしい気持ちになる。


「私にとってあなたの告白は特別なの。それをもしあのように他人に言わされたともなれば、私の特別が汚されると思ってしまうじゃない。だから、あれは私のため」


 ——特別……特別? 俺の告白が、夜咲にとって特別?


 そうだったのなら、どうして俺の想いに応えてくれなかったんだと思ってしまう。分かっている。彼女は相手の気持ちを誠意を持って受け止めるとは言ったが、その気持ちに応えるか否かは別の問題だと先ほど言っていた。その通りで、俺の言葉を受け止めてくれていたが、その気持ちに応える気持ちを彼女は持っていなかった、ただそれだけのことだ。


 だけど彼女の言動とその涙は、その考えと矛盾しているように感じる。よく分からない。頭が痛い。彼女の真意はそこにあるはずなのに。考えないといけないのに。


「ねぇ蓮兎くん。私ばかり名前で呼ぶのは不公平だと思わないかしら」

「……へ?」


 思案に耽ていたら、夜咲にそんなことを言われた。夜咲は頬を少しだけ膨らませて不満を表している。夜咲がこのように感情を表情に出すのは珍しい。


 やっぱり夜咲は可愛いなと思ってしまう。


「不公平って言われても。それは夜咲からもらった俺のクリスマスプレゼントで、俺は夜咲にマフラーをプレゼントしたじゃん」

「それは分かっているわ。けれど、こうして話をしていたら、やっぱり不公平を感じてしまうものなのよ」

「そんなもんすか」

「そんなものなのよ。ふふ。だから、ねぇ蓮兎くん。私のこと、名前で呼んでくれないかしら」


 一瞬、紗季ちゃんの顔がチラついた。目の前の夜咲から小悪魔みを感じたのだ。小悪魔の紗季ちゃんの姉だから、彼女はもはや悪女だろうか。悪女という字面は聖女である夜咲に似合わない気がする。


 昨日、俺は日向のことを「晴」と呼ぶことになった。その点を踏まえると、もしかしたら彼女の主張する不公平になってしまうのかもしれない。


「……美彩」

「……ごめんなさい。周りの音がうるさくて。もう一度呼んでくれないかしら」

「美彩」

「もう一度お願い」

「美彩」

「もう一度」

「美彩」

「……ふふ。何度も名前を呼んでどうしたの、蓮兎くん」

「おいこら美彩」

「……なんだかいいわねこれ。ぞくぞくするわ」


 夜咲……美彩が魔性の女になってしまいました。俺の心はさっきからざわついている。


 ……やっぱり俺は夜咲美彩のことが好きだ。彼女の容姿も、性格も、今こうして新たに見つかった要素も彼女の魅力に見えてしまう。


 自分でもよく分からないテンションになっている。自分が今から何を口にするのか予測ができない。誰か止めてほしい。だけど止めてほしくない。そんな葛藤を抱えていると、大きな足音が聞こえてきた。それはものすごい速さでこちらに近づいてくる。


「瀬古氏! ここにいたか!」

「……小田? どうしたんだよ。そんな慌てて」

「すまぬ……我にはどうすることもできなかった。体が動かなかったのだ。瀬古氏なら動いていただろうに……」

「だからどうしたんだよ。説明してくれ」

「……日向氏があの先輩に連れて行かれた」

「……は?」


 さっきまであれだけ騒がしかった俺の心が一気に冷えていくのを感じた。


 小田に軽く説明を受けた俺たちは、さっきまでいた部屋に急いで戻った。ドアを開けて中に入ると、相も変わらず誰も歌を歌っていなかった。だけど皆、晴々とした表情を浮かべている。まるでやっと厄介者が消えてくれたというような、そんな表情。その中に、晴の姿はなかった。荒平さんもいない。


 俺は部屋の中に入り、ある男の前まで歩いて行った。


「どういうことだよ甲斐田」


 ソファに座って一息ついているクラスメイトに声をかけると、そいつは「何が?」とだけ返してきた。


「どうして日向と先輩が一緒に先に帰ってんだよ」

「二人が言い出したんだよ。俺は知らないよ」

「お前……そもそも、この交流会はお前が企画したものだと思っていたんだけどな。皆もそうだよな?」


 周りに呼びかけるが、皆顔を伏せるだけで返事をしようとしない。


「私もそう思っていたわ」

「わ、我も!」


 ただ身内の二人だけが同意の声を上げてくれる。


「俺が企画したとは一言も言ってないよ。……まぁ正直に話すとね、荒平先輩本人が言ってた通り、この交流会を企画したのは荒平先輩だよ。荒平先輩が日向さんとお近づきになるためにね」

「は? 日向と?」

「そう。俺たちはその手伝いをさせられていただけなんだ。運動部に所属していない瀬古には分からないかもしれないけど、うちって上下関係が厳しいんだ。特に荒平先輩は後輩に容赦なくてね、逆らえないんだよ」

「だからってお前、日向をあの先輩に売ったってのかよ!」

「別にそんなことはしていないよ。最終的に、日向さんは自分の意思で荒平先輩と一緒に帰って行ったしね。そうだよな、皆」


 甲斐田の同意を求める声に、サッカー部員以外のクラスメイトを含むほぼ全員が頷いた。


「ほらね。だから俺が咎められる謂れはないよ」


 たしかに晴は自分の意思であの先輩と一緒に帰ることを決めたのかもしれない。けど、それは晴の本意ではないことは確かだ。彼女は震えていた。そして、この部屋に立ち込めていたあの空気を俺は知っている。彼女の優しい性格も知っている。彼女は、この空気に脅されたのだ。


 自分達に分があると思ったのか、名前も覚えていないサッカー部員らしきクラスメイトが前に出てくる。


「そもそもさ、どうして瀬古がそんなに怒ってるわけ? お前は夜咲さんが好きなんだろ?」

「……は? どういう意味だよ」

「お前にとって夜咲さんが一番なんだろ。それでいいじゃねえか。どうしてそんなに日向さんのことでムキになってるんだよ。だいたい、日向さんは毎回お前の告白を止めに行ってるし、夜咲さんと一緒にいるところに割り込んでくるし、お前にとっては邪魔者で——」

「ふざけるな!! お前に俺とあいつの何が分かんだよ! 勝手な妄想ベラベラ喋ってんじゃねえ!」


 クラスメイトのきょとんとした顔を見て、もうこいつらと話すことは何もないと悟る。俺は鞄から財布を取り出し、適当に札を何枚か取り出して小田に渡す。


「すまん、後のことは頼む。足りなかったら後日請求してくれ」

「瀬古氏。……店を出て左。おそらく駅の方に向かったと思われる」

「っ……ありがとう!」


 俺は小田に感謝して、勢いよくカラオケルームを出る。


「瀬古くん……!」


 後ろから美彩の声が聞こえたが、俺は振り返らずにそのまま店の外に出た。そして小田の助言通り、左に進む。



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