第36話

 カラオケに来たというのに、俺たちはまだ一曲も歌っていない。


 聞こえてくるのは他の部屋から漏れる歌声のみ。たまにプロ並みに上手い人がいて驚く。ぜひ指導してもらいたいものだ。あのロングトーンを習得すれば俺の歌も多少は聞きごたえあるものになるんじゃないだろうか。


 さて。そんな現実逃避をしている場合ではなく、意識するべきは目の前の荒平さんである。


 うちのクラスの交流会と称して開かれたこのカラオケ会だが、それを企画したのは実はこの荒平さんだという。そしてその荒平さんは俺たちの対面の席に座ってきた。


「やあ。君があの瀬古くんだね。噂はオレのところにも届いているよ」

「やっぱり俺って有名なんすか?」

「あぁ、もちろんさ。君は校内一有名な男だよ。良い意味でも、悪い意味でもね」

「なんか後ろの方強調しなかったすか?」

「あはは、気のせいだよ」


 なんというか、荒平さんの第一印象は「ウザい」だ。そもそもこの空間においては部外者のはずなのに、自分が主役だと疑わないその姿勢が腹が立つ。現に他のクラスメイトも荒平さんに怯えてさっきから一言も喋っていない。交流会じゃなかったのか。


 サッカー部員はというと、怯えてはいるが他と違って困惑した表情を浮かべていない。彼らは荒平さんが来ることを知っていたのだろう。


「てか先輩って受験生っすよね。こんなところに来てていいんすか?」

「受験生にも息抜きは必要さ。それに、オレは指定校推薦を貰う予定だからね。想像に易いと思うけど、オレは先生からの評価が高くてね。絶対にもらえると確信しているよ」

「そっすか」


 俺の素っ気ない返事が気に入らなかったのか、荒平さんは顔に薄らと青筋を立てる。


「しかし、瀬古くん。両手に花とはやるじゃないか」

「え、どこ見て言ってるんすか。俺の右隣は男なんすけど。もしかして先輩、薔薇が見えるタイプっすか!?」

「……君が何を言っているのか分からないけど、そうじゃないよ。ほら、君の本命は夜咲ちゃんだろ。そして今隣にいるのは日向ちゃんって子だ。君たち三人はいつも一緒みたいじゃないか」

「日向は夜咲のボディーガードなんで。あとご存じだと思いますが、俺は夜咲に振られ続けているので花を持ててはいないんすけど」

「あはは、御託はいらねえんだよ」


 瞬間、部屋の中の空気が凍ったのを感じた。荒平さんが一瞬、その本性を見せてきたのだ。


 荒平さんは俺から視線を外し、隣の晴の正面を向き直す。そして見事な笑顔を作り上げるが、晴がビクッと体を強張らせたのが伝わってきた。


「日向ちゃんだよね。今日は交流会なんだからさ、オレの隣に来なよ」

「え、でも、あたしは……」

「ずっと固定のメンバーと一緒なのは、周りの人もうんざりしちゃうよ? ほら、実際、皆もそんな感じの顔してるでしょ?」

「あ……うぅ……」


 奴の言う通り、俺たち以外のメンバーは「早く移動してくれよ」と心の中で願っているだろう。この空気を作り出している原因は荒平さんに違いないが、その解決策として俺たちの席移動があげられれば、それに従ってくれと思うしかない。


 晴は俺には噛みついてきたりするが、他の人に対してはそこまで強く出ることはしない。いや、できない。彼女は場の空気を読んで行動するため、このままだと荒平さんの思う通りに事が進んでしまう。


「いやー、俺たち三人で一つって感じでやらせて貰ってるんで。留年するダブる時も一緒。ダブドリオ。なんつって」

「ふざけてるのかな?」

「大真面目にボケてみたっす」

「あはは、ふざけてんじゃねえぞ」


 一触即発の空気が漂い始めたその時、室内のスピーカーから大音量で音楽が流れ始めた。目の前の壁に掛けられているテレビ画面の表示が変わり、曲のタイトルが現れる。


 誰かが曲を入れたのだ。一体誰がと周りを見ると、夜咲がマイクを手に持っていた。そして曲に合わせて歌唱を始める。いつもながら綺麗な歌声だ。


 しかしサビに入る前に曲は止まってしまった。荒平さんが止めたのだ。機械の操作を終えた荒平さんは、夜咲を一瞬睨むが、すぐに笑顔を作りその顔面に貼り付ける。


「ちょっとちょっと。夜咲ちゃん。今オレたち話をしていた途中だったんだけど、どうして歌い始めたのかな?」

「カラオケに来たのに歌ってはダメなんてことがあるのですか。不合理です」

「別にカラオケは歌うためだけの場所じゃないんだよ。それに、人の会話を遮ることこそ不合理だと思わない?」

「不合理な会話を断ち切ったところで何の問題もないかと」

「……もしかして夜咲ちゃん、妬いてるの? へぇ、可愛いじゃん」

「ふふ。先輩はご冗談がお上手ですね」

「……ちっ」


 なんとも不穏な空気が立ち篭める。どうも夜咲と荒平さんの間には確執があるように思える。夜咲があんなに攻撃的な態度を取ることは最近では珍しい。


「歌唱を披露することで、その人の好みや人となりというものは多少なりとも見えてきます。ですので、カラオケらしく皆さん歌いましょう。すみませんが、もう一度入れ直しますね」


 夜咲は先ほどとは異なるスタンスでそう言い切って、もう一度同じ楽曲を予約する。その間に誰も入力していないので、再び同じ音楽が流れ始め、夜咲は歌い出す。


 荒平さんがまた演奏中止させてくるかと思ったが、これ以上やると自分にもヘイトが集まると思ったのか、苦虫を噛み潰したような表情でソファに踏ん反りかえっている。


 この流れを断ち切らせてはいけないと判断し、続いて俺も歌う曲を入力する。そして晴に訊ねた。


「日向。一緒に歌ってくれるんだよな」

「えっ……うん! 歌お!」


 晴に笑顔が戻った。さっきまで強張っていた体から力が抜けていっているのを感じる。


 俺はリモコンを隣の小田に回し、「メドレー入れちゃってもいいぞ」と耳打ちをする。小田は「把握しておるよ」と親指を立てて返事をしてくれた。流石俺の親友だ。


 夜咲の歌唱が終わり、次は俺と晴のデュエット歌唱が始まる。選択した楽曲は何かのドラマの主題歌。決してデュエット曲ではないが、俺たちはハモりとか関係なく自由に歌う。


 そして次は小田のアニソンを聞き、その間に予約されていた他のクラスメイトの曲が次々に流れていく。


 カラオケという環境下なので仕方がないことだが、やはり音が大きい。それが頭に響いて多少の頭痛がするが、今の流れを止めるわけはいかない。


 しかしその流れは無情にも止まってしまった。リモコンは荒平さんまで回されたのだが、荒平さんは全く操作をしていないのだ。次の楽曲がないために、室内に流れるのは低音量の広告だ。


「皆歌ったよね。満足したかな?」

「まだ歌ってない人いるっぽいんすけど」

「お前たちは別に歌わなくていいよな?」

「はい! 俺たちは大丈夫です!」

「満足しました!」


 荒平さんの問いかけに答えるのはサッカー部員たちだ。彼らは誰一人歌っていない。おそらく歌ってしまえばあいつに怒られるのだろう。


「それじゃあ、ここからはちょっと雑談タイムにでも入ろうよ。……瀬古くんさぁ、君ってほぼ毎日夜咲ちゃんに告白してるって本当なの?」

「はあ。まぁそうっすけど」

「やっぱり本当なんだ。それって教室でやってるみたいだけど、クラスメイトはその様子を見れてるんだよね? どう? 今ここで見せてくれないかな? オレも君の勇姿を見せてもらいたいんだよね」


 ——何言ってんだこいつ。


 そんな素直な感想が口から漏れそうになる。


 人の事情を気にも掛けていないような奴の言動に困惑しつつも、夜咲の様子を見る。彼女はほぼ毎日、俺の愛の叫びを平然とした顔で聞いてくれている。しかし、今の彼女の表情はいつものそれとは違った。怯えたような表情。まるで「言わないで」と言ってるように思えた。


「いや見せ物じゃないんで。見せろと言われても困るっす」

「そこをなんとか! お願いだからさ! ほら、お前らも見たいよな!」

「おい瀬古! いつものやってくれよ!」

「荒平先輩がご所望なんだぞ! いつもやってるんだからいいだろ!」


 荒平さんとサッカー部員たちのヤジを受けて、俺は胸中でうんざりしてしまう。


 俺のあのやり取りは、奴らにとってはただの見せ物でしかなかった。そして夜咲にはそれに付き合わせてしまっていた。その事実が俺に重くのしかかる。


 他のクラスメイトからも「早くしろよ」と言った視線が突き刺さる。俺が何かしないとこの空気は変わらないと感じる。


 この息苦しさから解放されたい。けれど何が正解なのか分からない。頭が痛い。どうすればいいんだ。悩みあぐねいていたその時、


「ふざけないで!!」


 室内に大きな怒声が響く。マイクを通さなくてもそんなに大きな声出せたんだ、と場違いな感想を胸中で漏らす。


 その声の発生源である夜咲は立ち上がる。その表情には怒りが満ち溢れていた。普段のクールな彼女らしくない様子に、周りは動揺している。晴も隣で「美彩……?」と小さく呟く。


「告白はあなたたちを楽しませるものなんかじゃない。その人の中で溢れ出てしまう気持ちを言葉として表に出した尊いものよ。それを貶めるようなこと、許されるはずがないわ」

「そうは言うけど、夜咲ちゃんは彼だけでなく多くの男子の告白を断っているよね? それは彼らの想いを踏み躙っていることにはならないのかな?」

「私の気持ちもあるため、相手の想いに応えるかどうかは別に決まっています。それに、私は誠心誠意、正面から相手の気持ちを受け取り、断っています。……まあ、断られたからといって自分が口にした言葉を無しにしようとする方には、誠意など持つ必要はないと思いましたが」


 夜咲がそう言うと、荒平さんはバツの悪そうな表情を浮かべた。そこで俺は確信した。以前、荒平さんは夜咲に告白して振られたのだろう。そして今の会話から察するに、荒平さんはその告白を無かったことにしようとした。夜咲が彼を毛嫌いしている理由が分かり納得する。


 場が再び静かになる。しかし、次第にこそこそと話す声があちらこちらから聞こえ始める。


「なあ、夜咲さんのあの感じおかしくね?」

「お前もそう思う? なんか瀬古のために頑張った感あるよな」

「なんていうか、なんで夜咲さんが瀬古の告白断ってるのか分かんなくなってきた。あの二人仲良いし」

「夜咲さんってさ、もしかして……」


 その内容は、先ほどの夜咲の様子に違和感を覚えたものだった。


「……っ!」


 自分に関する考察が聞こえ始め、夜咲は居た堪れなくなり部屋から飛び出してしまった。


「夜咲!」


 思わず俺はその後を追いかけるために立ち上がり、同様に部屋を飛び出して行った。

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