第5章 そして3人は
第34話
窓の外から夕陽が差し込んでくる。今は四月末。日没が日に日に遅くなってきているのを感じる。
夕陽が少しだけ眩しくて庇を作ろうと手を動かすと、隣にいる日向の身体に触れてしまった。彼女は今服を着ていないため、その手触りは柔らかい。
「どうしたのレン。まだし足りないの?」
挑発的な言い方をする日向の目は、どこか艶っぽい。
「違う違う。眩しいから目を手で覆うとしたら、日向の身体にあたっただけだよ。悪いな」
「……そっか。じゃあ今日はもういいの?」
「……あぁ」
俺たちの歪な関係はまだ続いている。現状の打開策が思いつかないまま、ずるずるとここまできてしまった。
——別にこのままで良いじゃん。晴から誘ってくるんだしさ。
俺の中の悪魔がそんなことを言ってくる。だけどこんな不健全な関係、いつか壊れてしまうのは確実だ。いや、もしかしたら既にもう……
「ねぇレン。ち、ちゅーは本当にしなくていいの?」
「いいよ。現状で十分満足してるからさ」
「……わかった」
本音を言うとしたくないわけじゃない。むしろしてみたい。だけどしてはダメだ。
「本当、日向には感謝してるよ。こんなことしてもらって」
「別に感謝なんていいよ。……でも、ちょっとだけ見返りもらってもいい?」
「あぁ、なんでも言ってくれ」
「……じ、じゃあ、ちょっとあたしのしたいことに付き合って。レンはそのままでいいから」
日向は体を起こし、少し上気した顔を俺の胸元に近づけ——その柔らかい唇を俺の肌に当て、強く強く強く吸引してきた。痛みが走り少しだけ顔を歪ませてしまう。それが三十秒ほど続いた後、日向は顔を上げた。夕陽のせいか、先ほどからその顔は真っ赤だ。
「えへへ、しっかりついた」
自分の鎖骨の下あたりに、先ほどまでは確かになかったはずの小さなアザができていた。それが何であるかを理解するのに時間は要しなかった。
「こうやってつけるんだな」
「あたしも初めてやったけど、結構強くしないといけないみたいだね。ごめんレン、痛くなかった?」
「ちょっと痛かったけど、今はなんともないよ。これが日向のしたいこと?」
「うん。ちょっとやってみたかったの」
自分の腕で試すこともできるだろうけど、無駄にアザなんて作りたくないだろうしな。それぐらいなら、俺の体を自由に使ってもらっていい。
外から午後五時半を知らせる町のチャイムが聞こえる。それを聞いて俺も体を起こす。日向の部屋に置き忘れてしまわないように、来た時より少し軽くなった箱を鞄にしまい込む。
「レン、もう帰るの?」
「そろそろ日向のお母さん帰ってくるだろ? その前に帰った方がいいと思って」
「大丈夫だよ。お母さんは気にしないって。だって、この前あたしのか、彼氏として紹介したんだしさ」
そうなのである。
先日、今日のように日向にお世話になった後少しだけゆっくりしていると、日向のお母さんが予定より早く帰ってきたのだ。鉢合わせてしまった俺たちは、お母さんに関係を聞かれた。仲の良い男女が自室で会うのは友達でもありえることだろう。だけど、晴はその時「あたしの彼氏だよ」とお母さんに伝えたのだ。
結果、俺はお母さんに歓迎されることになり、その場は事なきを得ることができたのだが……
「だからややこしいことになってるんじゃん。俺はどんな顔してお母さんに対面すればいいか悩みものだよ」
「そ、そんなの、あたしの彼氏として振る舞えばいいじゃん!」
「そう言われてもさ……」
日向のお母さんの認識では、俺は日向の彼氏ということになっているが、その実態は娘の身体を利用して欲情を発散させている極刑確定野郎だ。彼氏という偽の立場があっても、顔を合わせるのは気まずい。
「でももういい時間だし、やっぱり帰るよ」
「……そっか。わかった」
どうして日向が俺の帰宅を止めようとするのかは分からないが、了承を得た俺は服を着て荷物を持ち、部屋を出ようとした。その時、玄関の方から音がした。鍵が解錠され、ドアが開く。
「ただいまー! おっ、この靴。晴ちゃーん。レンくん来てるのー?」
「お母さんだ」
その声はまさしく日向のお母さんの声だった。スマフォの時計を確認するが、やはり午後五時半を少し過ぎた時間を指している。いつもならまだ帰ってきていないはずだ。
無視するわけにもいかないので、俺たちは一緒に部屋を出て晴のお母さん……
「レンくん! お久しぶり!」
「お邪魔してます、陽さん。今日はお早いんですね」
「そう! レンくん来てるかなって思って早めに仕事切り上げてきたの!」
早い帰宅の理由が分かり、俺は胸中で納得する。
陽さんはとても明るい性格の方で、彼女の言動を見ていると、日向の母親だなと納得させられる。ちなみに、彼女のことを「陽さん」と呼ぶ理由は、単に彼女からそうお願いされたからだ。
「どうしてレンが来てたらお母さんも早く帰ってくるの」
「あーもうっ。むくれちゃって可愛いわね晴ちゃん! あなたのそういった反応が見たいからに決まってるでしょ!」
「……知らない!」
日向はそっぽを向くが、その様子も陽さんにとっては大好物みたいで「きゃーっ」と黄色い声を上げて興奮している。
そんな陽さんだが、決して俺をダシにして楽しんでいるだけじゃない。ちゃんと俺とも向き合ってくれる。
「そうだ! レンくん今日はうちでご飯食べて行く? 今日はすき焼きにする予定なのよー」
「すき焼き!? やったー! ね、ねえレン。一緒に食べよ?」
すき焼き……それは確かに心が惹かれるけど、日向家と食卓を囲むのは胃痛で味を楽しめそうにない。
「すみません。この時間に『今日はご飯いらない』って連絡したら、うちの母親の雷が落ちてしまうので。またの機会にお願いします」
「あらら、残念。でもそれもそうよね。家庭によってはご飯前の時間だし、今頃になって言うなー! ってなっちゃうわよね。ところでレンくんのお母さんってどのようなお方なの?」
「なんて言えばいいんでしょう……オカンって感じの人です。あと、『母は強し』を地で行ってる人です」
「あはは、なんだか強そうなお母さんね。今度お会いしたいわ〜」
「あのねあのね、レンはああ言うけど、本当は優しくて息子想いのお母さんなんだよ!」
「そういえば晴ちゃんはもうお会いしてたわね。じゃああとは親同士が顔を合わせるだけね!」
「あ、あはは」
それだけは避けておきたいところ。なのに、日向は隣で「早めに予定組んじゃおうよ!」と何故か乗り気の姿勢を見せている。
「それでは自分はもう帰りますので。お邪魔しました」
「そっかー。気をつけてねレンくん。また来てもらって大丈夫だから! ほら、晴ちゃん。彼氏を送ってあげなさい」
「う、うん!」
「そんな、わざわざいいよ。彼女に送ってもらう彼氏って違和感あるし」
「か、彼女……えへへ。じゃあ、そこまで! 玄関先まで! ……だめ?」
「……お願いします」
日向に上目遣いで訊ねられて、俺は首を縦に振ることしかできなかった。
日向は正直言って可愛い。抱きしめてしまいたくなる衝動が度々俺を襲ってくる。俺はそれを毎度必死に抑えている。先ほどの上目遣いなんて、陽さんがいなかったら危うかったかもしれない。
日向家を出て、玄関先、家の前のところで日向と向き合い「それじゃまた明日な」と別れの挨拶をする。しかし、日向から挨拶が返ってこない。彼女は頬を赤らめてもじもじとしている。そして意を決したような表情で、口を開いた。
「あ、あのさ! お母さんのこと名前で呼ぶなら、あたしのことも名前で呼んでよ!」
「えっ……で、でも必要なくないか? 陽さんは陽さん呼びだから、同じ日向でも呼び方は被ってないんだし」
「違う! 違うの……あたしが、レンにそう呼んでもらいたいだけ。だめ? ——あっ」
結局、俺は衝動を抑えることができなかった。普段の様子からは想像できない弱々しい声を漏らす彼女を強く抱きしめ、
「晴」
と彼女の名前を呼んだ。瞬間、彼女の身体が軽く震えたのを自身の体全体で感じ取る。
「えへ、えへへ。レン。レン。レン。レン。レン」
日向……晴も抱きしめ返してきて、その力は次第に強くなっていく。
俺たちの関係は歪だ。だけど、今の俺たちはとても尊いものに思えてしまった。
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