第16話

 本格的に肌寒くなってきた今日この頃。


 外に出る時はコートを羽織りマフラーをして、口から白い息が漏らす。日によっては雪が降ってきて更に体感温度を下げてくる。だけど、あたしの心臓は激しく鼓動していて、顔だけ熱く感じる。


 やっぱり慣れない。だけど全然嫌じゃない。むしろ好きだ。


「それじゃあまた明日ね、美彩!」

「えぇ。また明日」


 イルミネーションで彩られた駅前の広場が見えるところまで来たところにある交差点で、あたしと美彩は別れる。美彩はここで右に曲がり、あたしはまっすぐ進んで駅へ向かう。


 駅前の横断歩道まで歩き、赤信号で三秒ほど足を止めたあと……振り返り、来た道を戻る。


 さっき美彩と別れた地点まで戻ってきたが、もちろん美彩は既にいない。それを確認してあたしは安堵しつつ、足をそのまま進める。


 陽が落ちていき、更に肌寒くなってくる。手先が凍えてきて少し痛い。あのまま横断歩道を渡っていたら、今頃あたたかい電車の中にいただろう。


 だけどあたしの体は止まらない。むしろ足を早めていく。早くその場所に着きたいと言わんばかりに。早く彼に会いたいと言わんばかりに。


「おまたせ」


 とある公園まで戻ってきて、その中にあるベンチに座っている男の人に声をかける。すると彼はゆっくりと顔を上げ、立ち上がりながらあたしに缶を差し出してきた。


「どうしたのこれ」

「さっきそこの自販機で買っておいた。持ってるだけでも手が温まっていいぞ。飲んでもいいけどな。この前の反省を活かしてコーンポタージュにしておいた」

「……ありがとう」


 彼から受け渡された缶はとても温かく、悴んでいたあたしの手が生き返っていく。しばらく手を温めたあと、その中身を口の中にちびちびと流し込む。コーンの甘みを味わいつつ、体の中から温まっていくのを感じる。


 彼、レンは最近、あたしと美彩と帰り道にここで別れた後、あたしがここに戻ってくるのを一人で待っている。最近は寒くなってきたので、近くの自動販売機であたたかいコーヒー缶を買って体を温めながら待っている。


 先日、レンはあたしの分も買ってくれていたのだが、あたしはコーヒーが飲めないことを伝えた。その時は手だけでも温めなと渡され、ぬるくなったコーヒーをレンが代わりに飲んだ。


 そして今日、レンはコーヒー缶の代わりにコーンポタージュの缶を買ってきてくれたという。だけどあたしは知っている。レンがさっき「そこの」といった自動販売機にコーンポタージュは売られていない。この近くに自動販売機はこれしかないため、おそらく少し離れたところまであたしのために買いに行ってくれたのだろう。好きだ。


 今度そのことを突っ込んでみようと思う。申し訳ないし。……でも、そしたら今度はレンもコーンポタージュを飲むようになるんだろうな。「俺もこれが飲みたいから、そのついで」とか言って。うん、やっぱり言ってみよう。どんな感じで誤魔化してくるのか見てみたい。好きだ。


 缶の傾きを戻して隣を見ると、あたしがコーンポタージュを美味しく飲み干したのを見て、安堵したような微笑みを浮かべているレンの表情が見えた。好きだ。


 好き。好き。好き。好き。好き。大好き。


 優しい彼が好き。誰も彼の魅力に気づいていない。気づいてほしくない。このままあたしだけのものにしたい。特に彼女には気づいてほしくない。気づかれたら、この関係は終わってしまうから。そういう約束だから。そういう決まりだから。


 彼はあたしにこの飲み物代を払わさせてくれない。お世話になっているお礼だからなんて言い訳を、恥ずかしそうに、それと申し訳なさそうに言っていた。


 やっぱりあたしたちのこの関係は対等なものではない。そして、あたしたちはそれぞれ、その上下関係の認識が食い違っている。


 あたしは彼から与えられる幸福感に感謝している。それと同時に、彼を騙している罪悪感に常に苛まれている。


 彼はあたしで欲望を解消していること自体に罪悪感を覚えている。あたしにとっては、そんなものを持つ必要なんかないと思うのに。彼は優しいからその辺りの割り切りができていない。


 一度、彼からこの関係の解消を申し出られたことがあった。あたしは内心焦りながらも、なんとか屁理屈をこねてその申し出を断固拒否した。最悪、この関係を美彩に教えるという脅迫もしかねない。それぐらい、この脆くて歪んだ関係をあたしは失いたくはないのだ。


 あたしだってこの関係がずっと続くとは思っていないし、続いてはダメだと思っている。だけど、この関係の終わりはあたしたちの縁が切れることを意味しているように思えて仕方がない。諸刃の剣なのだ。


 この関係が終わった時、たとえ彼が美彩と付き合うような事態に発展しなかった場合でも、あたしとまた何でもないただの友人に戻れるはずがない。逆に付き合うようなことになった場合、それこそあたしたちの関係は無かったことにしなければならないし、彼にとって必要のないものになる。


 あたしたちの関係が発展することは最初から諦めている。彼は出会った頃から美彩に夢中だ。愛の言葉も毎日伝えている。あとは美彩がそれに応えるだけという状況。あたしが付け入る隙なんてない。だからこそ、こんな関係を築いてしまったのだ。


 ……嘘だ。あたしは心のどこかで期待している。いつか彼があたしの想いに気づいてくれるんじゃないかって。あたしの好意に応えてくれるんじゃないかって。


 あたしはお気に入りの手袋を持っている。昨年度の受験期は風邪をひかないように出かける時は欠かさず付けていた。だけど今のあたしの両手は冷たい外気に触れている。


 ふとした拍子に、気まぐれに、なんとなくに、彼があたしの手を握ってくれないかって。彼の手であたしの手をあたためてくれないかって期待している。だから手袋をつけていない。


 結局、あたしの手をあたためてくれるのは彼から貰った缶だ。それでもあたしは十分に嬉しい。




 * * * * *




 あたしの部屋にレンがいる。正確には、あたしの部屋のベッドの上にレンがいて、あたしもそこにいる。


 あたしは仰向けで寝っ転がった状態で脚を開き、彼の身体を受け入れる。彼はいつもこの時、普段はあまり見せないどこか切ない表情を浮かべる。もっと嬉しそうな表情をしてほしいという気持ちもあるが、この表情はあたしだけが見れているという喜びも襲ってきて、あたしの感情はない混ぜになる。


 ベッドが軋む音と彼の息遣い、何かと何かがぶつかって弾ける音、そして、


「んっ……あぁっ……」


 あたしの口から漏れる甘ったるい声が部屋の中に響く。


 自分には似合わない声が無意識に漏れていく。我慢しようとしても抑えることができない。なるべく聞かれないように、自分の手で抑えることもできる。だけど、あたしの声が乱れれば乱れるほど、彼の動きの激しさが増していく。それが嬉しくて、あたしは自分の両腕を自由にさせる。


 恥ずかしい。声を聞かれているのも恥ずかしいが、今自分がしているであろう顔を見られているのも恥ずかしい。だけど目を瞑りたくないし顔を背けたくない。あたしも彼の顔を見ていたいのだ。強い刺激のせいで浮かべる苦悶の表情がとても愛らしい。


 あたしはこの時、いつも彼の表情を見つめている。彼はこの体勢が気に入っているのか、他の体勢ではしようとしない。初めてした時から今までずっとこれだ。だから彼の顔をいつも見ることができているのだが、他のもやってほしいと思ってしまう。彼の初めてを全てあたしで埋めたい。そんな衝動に駆られてしまう。だけど彼に全てを任せている。だってあたしは解消するためだけの相手だから。彼が口出しをするなとか言ったわけじゃないけど。


 あたしたちの間に両向きの矢印はない。あたしからの一方通行。それは日に日に大きくなっていく。朝学校で顔を合わせるとき、たわいもない話をして笑い合うとき、さりげない彼の優しさに触れたとき、こうして彼の欲を受け入れているとき、あたしの好きという気持ちは強くなっていく。


 彼の動きが少し緩くなったのを見計らい、上半身を少しだけ起こして自身の両腕を彼の背中に回す。すると、彼は困惑した表情を浮かべた。


「ひ、日向? 動きづらいんだけど……もしかして痛かった? 苦しかった? ごめん、俺勝手に動きすぎたかも……」

「ううん。全然痛くなかったよ」


 むしろ……


「じゃあ、どうしたの?」

「レンはこの体勢が好きなんだよね? お互いに向き合ってるから?」

「……うん、まあ、そんなところ」


 彼は顔を逸らして答える。きっと本当の答えは別なんだろうなと察するけど、あたしが今欲しかった答えはこっちだったから、今は追及しない。


「じゃあさ、このままあたしに倒れてきてよ」


 そう言って、あたしは両腕に力を入れてレンを自分の方に引き寄せる。


「え、でも」

「いいから。その方が楽だよ」

「……わかった」


 レンは頷き、ゆっくりと身体を動かしてあたしに倒れかかってきた。瞬間、彼の匂いがあたしの鼻口をくすぐり、脳がくらっとする。あたしの顔の両隣に彼の両腕が来て、両者の身体が近くなったことで彼の体温が伝わってくる。彼はあたしの首元に自身の顔を置いて、そのまま動き出す。瞬間、今までより強い刺激があたしを襲ってきた。耳元で彼の吐息が漏れ、さらに脳がとろける。


 こうしてあたしたちは満足のいく時間を過ごした。少なくともあたしは大満足だった。今度からあの体勢は必須にしたいところ。


 あたしたちはこうして何度か体を重ねてきているが、恋人らしいことは他には何もしていない。当然だ。あたしたちは恋人同士ではないんだから。デートもないし、キスもしたことがない。キスを遠回しにねだったこともあったが「それは必要ないと思う」とあまり納得のいかない理由で断られた。


 だけどあたしはこの現状で満足しないといけない。これ以上欲を持ってはいけない。そう思っていたんだけど、


「ねえ、日向」


 あたしの隣で寝転がっているレンが、天井を見上げながら言う。


「再来週の土曜日って空いてる?」

「え? うーん……何もなかったと思うけど」

「そっか。それじゃあその日さ」


 再来週の土曜日。そういえば、その日は——


「俺と二人で遊びにいかないか」


 あたしは彼の欲望を解消させる役目に立候補した。だけど、逆に彼はあたしの欲望をかき立てることばかりしてくる。


 ……ずるい。でも大好き。

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