第2章 日向晴の恋

第8話

 陸上を始めたのは小学二年生の頃だ。


 当時、近所に住んでいた仲の良いお姉さんが参加していた陸上クラブに誘われたのがきっかけ。クラブは小学生以下だったから一旦引退しちゃったけど、なんだかんだ中学に上がっても学校の陸上部に入部して続けていた。


 昔から走るのは得意だった。と言うより運動神経が優れていたんだと思う。努力の結果は如実に現れて、たくさんの成績を残すことができた。いただいた数々のトロフィーや盾はあたしの宝物で、今も自室に飾っている。


 このまま高校に上がっても続けるんだろうなって思っていた。


 そして中学の最後の大会。あたしは周りからの期待を受けながら、スタートを切った。——直後、膝に激痛が走ったかと思うと、力が入らなくなり、あたしはそのまま地面に体を投げ打っていた。


 救急車に運ばれて、病院の先生に言われたのは右膝の靭帯損傷。治癒後、リハビリを頑張れば陸上に復帰はできると言われた。だけど中学の最後の大会は戻ってこない。


 みんなの期待を裏切るような形で終わってしまい申し訳ない気持ちでいっぱいになった。しかし、周りのみんなは「残念だったね」「リハビリ頑張ろ!」と気遣ってくれた。


 初めは日常生活もままならず、松葉杖を使わないと歩けなかった。それがなんとも歩きにくく、次第に動くのが面倒になってきた。だけど何もしないのは暇なので、走ったりしないでできることがないかなと考えた。


「…………あれ?」


 何もなかった。気づけばあたしは陸上一本になっており、他のあらゆるものを排除して陸上にのめり込んでいたことに気づいた。そして、陸上を奪われた今、あたしには何も残っていないことに気づいてしまったのだ。


 みんなは何をやっているんだろうと観察することにした。一緒に陸上部で汗を流してきた仲間たちが、部活を引退してから短かった髪を伸ばし始めた。今までかっこいい系だった同級生も、なんだか色っぽくなった。


 そうだ。あたしもこれをしよう。


 高校に上がって陸上を再開するんだったら、髪を伸ばすのは今しかないと思った。今までは短いスパンで切っていたこの髪が長くなったら、あたしも同級生の子みたいに可愛くなれるかなと思った。


 あたしは夏休みの間、髪を切らないでいた。そして夏休み明け。遂に肩にかかるか、かからないか位まで伸びてきた。自分では分からないが、雰囲気は変わっただろうか。


 みんな夏期講習で忙しかったり、あたしはまだそこまで自由に歩き回れる状態じゃなかったこともあって、夏休みはずっと家の中で引きこもっていた。だからみんなと会うのは久しぶりだ。


 どんな反応をするだろうとワクワクしながら教室のドアを開いた。音に反応して振り向いた同級生が、あたしを見て言った。


「どうしたのその髪? 晴ちゃんらしくないね」

「えー、なんか似合わない」

「やっぱり晴ちゃんは短髪だよね!」


 みんな気心知れた友人だった。だから悪気があって言ってるわけじゃないことは分かった。……だから、ひどく傷ついた。


 あたしはその日の放課後、髪を短く切った。


 あたしにはオシャレをする権利なんてないんだと思った。一生陸上、あるいは何かのスポーツにのめり込むしかないんだと。それがみんなの望む日向晴なんだと、そう思い込まされた。


 そんなあたしを見かねてか、お母さんが高校のパンフレットを持って話しかけてきた。


「見て晴ちゃん。ここの制服可愛くない?」

「……うん。だけどあたしに似合わないよ」

「そんなことないわよ! 晴ちゃんはとっても可愛いんだから!」

「……そんなこと、ないよ。あたしなんて」

「あー、そんなこと言っちゃダメよ。ね、ここ受けてみない? 大丈夫。ここに通えばみんなこの制服なのよ。堂々としていればいいのよ。あたしはここの高校に通ってるからこの制服を着ているんだ、文句言うな! ってね」


 正直、着てみたいなって思った。だけど、自分がそれを着た姿を想像すると、周りから「似合わない」という声が聞こえてくるような気がした。


 とりあえず、勉強頑張ってみようか。お母さんにそう言われて、特に他にすることがなかったあたしは勉強ばかりをするようになった。


 その甲斐あってか、冬に受けた模試で、例の高校の合格判定がBだった。


 なんだ自分は陸上だけじゃなかったんだ。勉強もできるんじゃないかと、その時はそう思えて嬉しくなった。


 模試の結果を抱きしめながら塾を出ると、周りにカップルが多く歩いているのに気づいた。そういえば今日はクリスマス・イヴだ。どうもあたしたちの年齢くらいからはプレゼントを貰う日でなく、恋人たちの日になるらしい。


 彼氏と幸せそうに歩く彼女を見て、あたしの心はざわついた。おしゃれもできないあたしが、あんな幸せを手にすることができるのだろうか。……そんな未来、想像できなかった。


 だけど、あたしも少し変われたはずだ。勉強もできるようになった。もしかしたら、おしゃれもできるようになっているかもしれない。あたしたち思春期は日々更新されていってるというし。


 家に帰る前に少し寄り道をして、駅前の商業施設の雑貨店に向かった。そこにはおしゃれなアクセサリが多く並んでおり、どれも可愛らしいと思えた。……だけど、やっぱり自分には似合わない。そう思えてしまい、結局何も買わずに帰ってしまった。


 そして月日は流れ、ついに高校受験当日を迎えた。


 受験票の確認は念入りにした。シャープペンシルはトラブルが多いからとお母さんに鉛筆を勧められたので、小学校ぶりに鉛筆を削って準備もした。しかしキャップがないことに気づき、このままでは筆箱が鉛筆で汚れてしまうと思い、昔使っていた筆箱を取り出して使うことにした。


 会場に着き、合格したら春からここの校舎に通えるんだと胸を高鳴らせる。受験番号で指定された席に着き、筆箱から筆記用具を机に出していく。


「……あ」


 筆箱の中に消しゴムが入っていないことに気づいた。昨晩、筆箱を帰る際に消しゴムを移動させなかったことに今更になって気がつく。運が悪いことに、用意した鉛筆は消しゴムがついていないタイプだ。


 どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。


 緊張していたところにアクシデントが発生し、どうすればいいのか分からなくなってしまう。


 そうこうしている内に時間は経ち、試験上の注意が軽くされた後、試験開始の合図チャイムが鳴った。


 焦りまくっている脳内の片隅で、なんとか冷静を保っていられる部分が、「ひとまず問題を解こう。間違えなければ消しゴムなんて必要ないよ」と囁く。


 そうだ。書きミスさせしなければ消しゴムを使うこともない。あたしは問題に取り掛かり——1問目から書き損じてしまった。


 結局、パニック状態に陥ってしまっては問題も解くことができない。こういった書き損じが起きる可能性も高くなって当たり前だ。


 あたしの受験は終わった。何も報われなかった。結局あたしには何もないんだと思えた、その時、自分の足に何かが当たる感覚がした。流石に試験中に足下を覗き込むような大きい動きはできないので、何かなと頭の中で想像する。


 そうしていると、試験会場である教室を見回っている試験監督があたしの隣に来たところで立ち止まった。


 え、もしかしてあたし、何か怒られる?


 そう思って身構えたのだが、試験監督はその場でしゃがみ込み、「失礼」と言ってあたしの足下に手を伸ばした。そして、


「これは君のかい?」


 消しゴムを差し出されてそう聞かれた。


 もちろん、消しゴムを忘れてしまったあたしのもののはずがなく、「いいえ」と小さく答えた。すると今度は試験監督を挟んであたしの反対側、つまりあたしの隣の席の男子に訊ねた。


「じゃあこれは君のかい?」


 おそらく彼のだろう。消しゴムを拾えてもらってよかったね。そう思っていると、


「いいえ違います。おそらく隣の彼女のですよ。さっき視界の端で隣から何か落ちていくのを見ました」


 そう言っているのが隣から聞こえた。聞き間違えではなかったみたいで、試験監督は怪訝そうな顔でもう一度あたしに聞いてきた。


「君のじゃないのかい?」

「あ、あの、あたしは」

「ん? 君、消しゴムがないじゃないか。じゃあやっぱり君のじゃないか。はい、落とさないように気をつけて」


 試験監督はあたしの机の上にその消しゴムを置いて、また別のところに見回りしに行ってしまった。


 どういうことだろう。この消しゴムは確実にあたしのものではない。じゃあ、本当の持ち主が困っているはずだ。


 ……だけど、今の消しゴムは自分のですと名乗り出る者はいなかった。


 あたしは悪いと思いつつ……その消しゴムを使って自分の文字を消した。


 こうして、なんとか一科目目の試験を乗り越えることができたあたしは、この消しゴムの本当の持ち主を探そうと立ち上がった。すると隣の席、さっき「その消しゴムは隣の人の」と試験監督に答えていた男子の机の上に、今あたしが握っている消しゴムと全く同じものがあることに気づいた。


 あたしの視線に気づいてか、その男子はこっちを見てニッと笑った。


「消しゴムあってよかったね」


 彼はそれだけ言うと、次の試験科目の参考書を鞄から取り出した。話しかけるのは復習の邪魔になると思い、あたしはそのまま席に座り直した。


 これが、彼、瀬古蓮兎との初めての出会いだった。

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