知らないばかり

@rabbit090

第1話

 1

 知らないことばかりに埋もれる毎日を、私は今経験している。

 いや、したくてしているわけじゃなくて、ただ。

 すごく大好きな男に振られて落ち込んで、でも死ねなかったからしゃにむに生きるしかなくて、それで今私はやっとまともに戻れたような気がしている。

 「水穂さん、いる?」

 「います、なんですか?」

 「いやね、別に怒ろうって思ってるわけじゃないんだけど、さっきやってくれた仕事、無茶苦茶だったよ。」

 「そうですか。」

 「そうですか、じゃないだろう。君、焦りってものをもっと知ったほうがいいよ。みんな困ってる。だから行くよ。」

 「分かりました。」

 「全く。」

 でも、私は心のなかで呟く。

 人を追い詰めて自分を生かす、そんな仕事に真面目になるなんて、馬鹿らしい。

 でも。

 私は生きなくてはいけないから、死ねないことがわかってしまったから生きなくては、だから嫌でもこんな仕事に邁進している。

 「今日の人、すごかったですよね。」

 「…まあ相当にイカれているよな。」

 「何か目をひん剥いて睨んでたから、怖かった。」

 「当たり前だろ?俺たちは彼女を彼を、救うんじゃない。突き落とすんだ、奈落の底に。」

 「全くその通りですね。」

 「ああ、だから行くぞ。」

 2

 はあ、やっぱり行かなくてはいけないのだ。仕方ない、そう思って私は手にする。

 人を殺すための猟銃を。

 人って、何か弱そうだから簡単に死ぬって思うかもしれないけど、そんなことはない。

 私はこの熊やオオカミを捕獲する、というか殺してしまうこの銃で、人を殺すことを仕事にする。したくないけど、しなくちゃいけない、やっぱりこの葛藤を抱えたまま、私は死ぬまでの日にちを数えている。


 あと、60年。


 水が流れる音がする。

 この辺りは川がいくつも流れていて、山を超えれば海につながる。

 だけど私達の仕事場はこの閉鎖された山の中でしか行われない。なぜなら、山は境界線になっていて隣の国には決して入れないから。

 「………今日はやけに静かだな。」

 「そうですか?私はいっつもこんな感じでしょ。」 

 「そんな訳あるか。他のやつなんて一言も喋らないんだぞ?君はうるさすぎるんだ。」

 「うるさいって、だって緊張するじゃないですか。こんな状況で黙っていられるやつのほうが頭、おかしいでしょ。」

 一昔前の私は、そう。あの人に振られてしまう前の私は無口だった。大好きだったけど、嫌われたくなかった。だから黙ってた。

 積もり積もったそういう齟齬がきっと私達の関係を壊してしまったように今なら思える。

 だけど、本当のことを言えば彼はきっと私を愛してなどいなかったのだろう。だから、別れた。

 「また物思いかよ、いい加減にしろよ。困るんだよ、ちゃんと集中してくれなきゃ。」

 「…分かってますよ。」

 「全く。」

 この人の口癖は、ただ一言全く、ということだった。それで会話を締めようとする癖がある。何かいかにも管理職といった言葉の使い方で私は何だか気にくわない。

 3

 「何だよ?」

 「何でも。」

 「全く。」

 笑ってしまいそうになる自分を抑えながら、私はこの銃を手にして森の中へと入っていく。

 大丈夫、私は死なないから。絶対に死なないから。

 何としても生きてやる、じゃないと私は彼を救えない。

 好きでも何でも無かったのかもしれない彼、でも私は愛していたと信じている。情もある、だから捨てられない。

 今彼は生死の境をさまよっている、彼は、捕虜なのだ。

 世の中は激動していた。ほんの少し前まで、私と彼が一緒にいた頃は平和だった。だけど、世界の格差は広がるばかりで私達だけ豊かでいることは許されなくなったのだ。そうなってみたらどんどん弱小化していき、私達は警戒感の強い動物のような生き方をせざるを得なくなってしまった。近くの地域は断絶していき、今まで何気なく通っていた場所にすら立ち入ることは許されなくなっていた。

 かくいう私も食べるに困り、今の職に就く前は乞食をしていた。働くすべもなく、森にでも入ってみようかと考えたのだが、どこもすでになわばりのようなものが張られていて、死に物狂いの思いで逃げてきた。

 途方に暮れて毎日をどうやり過ごすのかさえ浮かばなかったときに、知った。

 「ねえ、健也かつや君が捕まったって、聞いた?」

 共通の知人からそんな話をされた。

 「え?いやもう健也の近況は知らないけど、でもこの辺にいるんでしょ?一度見たの。良かったって思った。別の場所にいたらもうやすやすと姿を見ることすらできなかったんだもの。」

 「だから、違うの。」

 「何が?」

 そう私が少しイラついた口調で答えると、彼女は少し憐れむような顔をして告げた。

 「健也君ね、外に行ってたの。会社の命令でね、物資が足りないから若い社員を集めて行かせたんだって。でもそれもみんな断ってたんだけど、健也君だけは妙に張り切って、みんなのためだから、とか言っていたらしいわよ。」

 「………。」

 私は何も言えなかった。だから何なんだ、健也は一体どうなってしまったのだろう。ついほんのちょっと前までは恋人同士だった私達は、もうお互いの近況を把握することすらしていなかった。

 「言いずらいけど、言った方が良いと思うの。」

 「じゃあ言ってよ。」

 私は少し険のある言い方をしたのに、彼女は表情も崩さずに続けた。

 「うん、あのね。それ以来健也君は捕まってしまったんだって。隣に地域の捕虜ってこと。分かる?」

 「…はい。」

 捕虜になる、それはつまり捉えられて殺されるかもしれないということだ。それもかなり高い確率で、世界はそのくらい荒廃していて、とにかく余裕が無かったから。

 「はいって、どうするの?」

 「どうするって、私にはどうしようもないじゃない。」

 そうだ、どうにもしようがない。逆にどうすればいいのだ、その事実を知ってあらぶっているこの心の不穏を、いなせない。

 「実はね、聞いたんだけど。手段があるんだって、隣の地域が募集しているならず者の排除、それに参加すれば可能かもしれないって噂になってるの。みんなやりたくない仕事だからって、人手不足なんだって。」

 「………。」

 私は考えた。選択肢はそれしかないのなら、分かった。捨てようかどうしようかと悩んでいるこの命くらいなら、差し出してしまっても構わない。結局は、それが自分のためになるのだから。

 そう思って志願したのだ。

 でもこんなに過酷だとは思っていなかった。それに、死ぬことは許されない。生きて任務を全うしなければ、彼は助からない。

 だったら、それなら生きる理由にしてみよう。そう思って私は今がむしゃらになって人を撃ち殺している。

  つまり、私はもう人間ではない。ただの悪魔に成り下がったのだ。

 4

 「それそろお昼ですね。」

 何気なく言った。もちろんお腹が空いていたし、力が入らないという感覚ももちろんある。でも、今日の獲物はとにかく知恵者だった。

 逃げ回ることにも長けていたし、むしろ私達を殺そうとしている様な節さえあった。

 だけど、それは無理だ。

 たった一人で私達大勢を相手に戦うなんて野暮だ。だから私は余裕だった。余裕をかましていた。

 だから、負傷してしまった。

 

 「何してんだよ。」

 病院のベッド、といっても事務所内に簡易に作った保健室のようなものだ。

 「うっかりしてました。私だけが狙われてるなんて、思いませんでした。」

 「そんなわけあるか。俺達は命を巡って争っているんだ。生半可な気持ちで扱えるものじゃない。」

 確かに、そう強い口調で言われてみればそのような気もするが、そもそも人を殺すことに抵抗が無くなってしまったはずの私達のような化け物が真面目とか、常識とか、どうでもいいではないか。

 私達の世界にそんなものはさらさらない。もう、生きるか死ぬか、それしかないように思う。

 「…分かりました。」

 分かってないけど分かりました。私はこんな調子でずっととぼけ続けている。

 この過酷で歪な世界で、私はただ私でいることを諦めたい。全て何かのせいにしてしまって知らんぷりを決め込む。

 それが良いのか悪いのかは分からない。

 5

 負傷してしまったら一旦任務から退かなくてはならない。もちろんその間の給料は出ないし、食べるものでさえもらえるのか、もらえないのかあやふやだった。

 だから誰も私が医務室のような場所から抜け出すことを禁じていなかったし見てすらいなかった。

 「仕方ない、昼飯でも探すか。」

 負傷したのは足だった。つまり私は今とても不自由にしか歩けない。だけど何か食べなくては、本当に飢餓感が強くて、死ぬ、という程まで追い詰められたときには頭の中には食べ物のことしか無かった。

 だから、平和な日々がもう遠い過去のように感じる。

 「中々無い。全然ない。」

 食べられそうなものなんて見当たらなかった。草、草、木。あと虫。

 さすがに私も昆虫まで食べようとは思わないが、一度本当に死にそうになった時に食べさせてもらったことがある。意外とおいしくて、でも見た目のグロテスクさにおののいて二度目が無い。

 まあ、いざとなったら虫でも食べよう。そう決心して少し水辺で休むことにした。

 私達は隣の地域に雇われているけれど、いるのは私達がいる地域だ。つまりスパイのような状態なのかもしれない。ならず者と呼ばれる人々は、つまり私達がいる地域に入っている、隣の地域の人間なのだ。

 隣の地域は何としてもその人たちを抹消したいらしい。

 私は、少し考えたけれど止めた。自分たちの手で殺す人間についてなんて、考えない方が良い。多分、よっぽど人間らしい選択をしているようにも思える。けれど、私達はすでに人間ではない。みんな、その言葉を呪文のように唱えているから。

 と、その時だった。

 誰かいる。誰だろう。こんな深い森の中に人がいるなんて怪しい。普通の人は森を敬遠している。もちろん食料は豊富だし、入れば利益がある可能性が高い。けれど、やっぱりこういう場所には良くない人々が多くいて、そのことを脅威ととらえて避けるのだ。

 賢明な選択だと、私は思う。

 今私の手には銃がある。

 そして迷うことも無く銃口をそいつに向かって突き付けた。

 「誰だ?」

 「………。」

 「答えろ。」

 「………。」

 「撃つぞ。」

 「………。」

 彼は何も答えない。見たところ私と同じくらいの年頃なのだろうか、20代といったところだ。しかもまだ幼さがあるからもっと若いのかもしれない、不思議な青年だと思った。

 しかし、撃つしかない。仕方ない。

 少し迷っている内に、不覚だった。

 私は逆に、捕まってしまった。

 「お前、おかしいだろ。俺は人間なんだ。いきなり撃つなんて、どうかしてるよ。まだ間に合うから、目を覚ませ。」

 彼はそんなことを口走っていた。けれど私の意識はもうろうとしていて、ああ、私この人に締められているんだなあ、と感じた。

 セリフとは似つかわない手際の良さ、本当に何者なのだろう。

 6

 「こいつ…。」

 何者だか全くわからない変な男は、ボソリとそう呟いていて、私の意識はそこで途切れた。

 「………。」

 暗闇、暗すぎる闇。

 意識がその中で開けていくのがわかる。しかし、肝心な外界とのコンタクトがうまく行かない。見えないし、聞こえない。

 どうしよう、そう思っていたらふと聞こえてしまった。

 「あいつ、殺す?女だから連れてきたけど、多分人殺しだし。」

 「まあこのご時世人殺しなんてありふれてるけどな。僕達だってそうだろう?」

 「…人なんて殺すことに価値はないけど、相手は銃を持って襲いかかってくるんだ、仕方がないだろう。」

 「人を殺すのが仕方ないって、嫌な考え方だよな。」

 彼等は何かを愚痴っている。話の内容から推察すると、私を殺すか殺さないか、そんなところだろうか。

 思う、殺されたらたまらないって。運を信じるしかない、だって私の体は動かないから。

 そんな不確かなものにしか全てをかけられない今の状況がもどかしい。

 こんちくしょう、仕方なく心のなかでそう罵った。

 「…じゃあ、殺そう。この女、いきなり銃を抱えてさ、襲いかかってきたんだぜ。普通じゃないよ。」

 ああ、と落胆する。私を締めたあの幼い声が残酷なセリフを吐く。

 「待って。何か聞こえない?」

 確かに何か聞こえる。ガサガサと蠢く音、誰かが忍び込んでいるような微細な音、その繊細さは動物ではなく多分人間だ。

 私は聴覚が優れているらしい。

 いつもの、全く、上司からそう言われたことがある。

 だから分かったんだろうけど、この人達も耳が優れているのか、私の周りでは珍しかったからそんなことを思った。

 7

 私の耳が優れているのは単純に若いから。そんな年齢であの過酷な任務に志願するものはあまりいない。ほとんどは中年だ、みんな理由があって、お金に困ってとか、私と一緒で助けたい人がいるとか、そんなこと。

 「なんか不穏だな。」

 誰かがそう呟く。

 若い声だ、すごく若い声。まだ、少年と呼んでいい年齢の子供なのかもしれない。

 そもそも不思議だった。こんなに多分若いんであろう人間が集まって、私と同じく殺戮に身を置く。

 普通じゃない、じゃあ一体何だろう。

 何なのだろう。

 「ねえ、あなた達は誰なの。」

 彼らは一斉にびくりと私の方を振り向いた。そして、同時に発砲音が響く。

 みな警戒して、その音の聞こえる方角を伺った。

 見たら、私の仲間だった。

 あの全く上司だ。

 「何で…?」

 私は馬鹿のようにそう呟いた。だって情なんかなくてそうやってみんなこの異常な修羅場で何とか自分を保っていたから、だから助けに来てくれるなんて夢にも思わなかった。

 「行くぞ。」

 手を掴まれた。

 その瞬間すごく自分が冷えていたことに気づいた。

 上司の手が、すごく温かかったから。

 「…はい。」

 有無を言わさぬその勢いに、私はただ従っていた。

 私を捕獲した彼らは呆然と立っていた。もちろん銃を構えて対抗しようと試みるものもいたが、そもそも突然過ぎて対処ができず、その行動も緩慢だった。

 だから私達が逃げる算段を測っていると分かると、すんなりと手を引いた。


 良かった、何が良かったのかいっぱいあって混乱しているけれど、とにかく生きていられて良かった。


 まだ、私は健也を思っていられる、考えていられる、許されている。

 そんなことを考えていた。

 8


 ちょっと日にちが経ってから、私は仕事に復帰することを許された。調子の悪かった足は幸い良くなりもう普通と変わらない生活ができるようになっていた。

 「ちょっと、あなた何してんの?」

 私はそれで景気が良くなって、最近新しく入ってきた彼女にちょっかいを出している。まあ、といっても彼女は私よりはるかに年上で、物覚えもそりゃ若い人間に比べたら緩慢だ、でもそれは仕方が無い。人は年齢には抗えない。だからなぜそんな足手まといになるような人材をここに連れてきたのかリーダーの考えが分からない。

 私達は一つだった。ここで任務をこなす、それだけを目的にして団結していた。最早、この過酷すぎる状況の中では一つになっているといっても過言ではないのかもしれない、けれど。

 「すみませんね。アタシ、まだ慣れないから。」

 とても愛想の良い笑いを浮かべながら彼女はいそいそと作業にいそしむ。今日のやるべきことは武器の手入れだ。武器は、とにかく重い。女の体では持つことすら難しい。けれど、私はもうすでにやすやすと扱える。こうやってできることが増えていくことは喜びでもあった、けれど。結局は人を殺すための道具なのだと思うと、心は暗くなった。

 「………。」

 彼女は、何も言わない。すみれさんというのだ。菫さんは名前の通り可憐と言って風貌で、こんな戦場は似つかわない。でも彼女はただ黙々と、言われた作業をこなしていく。私は、その理由が分からない集中力の強さに、不気味さを感じてしまっている。

 信用できない、それが私の彼女に対する印象だった。

 「できたわ。」

 菫さんが仕立てた銃は、歪だった。彼女は手先が器用とか器用じゃないとかでは無く、とにかく力が無かった。力がないものには、とても過酷な作業だった。

 「どうだ?」

 野太い声、でも透き通っているようなイケメンボイス。

 リーダーだ。

 「はい、順調です。」

 ここはほとんど軍隊と同等の組織だ。だから目上、位が上のものには敬意を示す。それが掟だった。

 「そうか、菫さんは新しく入った人だから、貴重な戦力だからしっかりと仕事を教えてくれ。」

 「了解しました。」 

 「ありがとうございます。」

 菫さんはおどおどと反応を示す。まだ、こんな男社会に全く慣れなくて戸惑っているようだった。

 それもそうか、と思いながらまた私は菫さんにダメ出しをする。

 きちんと組み立てられていないとか、とにかく執拗に。私は、多分おかしいのだ。

 でも気にするつもりはない、おかしくてハナから当たり前なんだから、ここは、戦場なのだから。

 9

 多少イカれている自分を認め、その上で私は彼女の目を見る。

 キレイな人だ、と改めて思った。

 美しい人は得をしている。そう思っていたけれど今の彼女はそれがアダになっているようにしか見えない。

 「そろそろ休憩だから。」

 私は何だか白けてしまってそう言った。

 だってさ、意味がないことばっかりしていたら、全てがどうでも良くなってしまうんだ。

 「分かりました。」

 でも彼女はその可憐さに似合った品の良い、潔い態度を崩さずに笑った。

 その強く、揺らがず安定した態度に私は辟易としてしまった。

 私は、そういう生まれつき強くて当たり前な女が嫌いだった。

 

 昼飯はカレーだった。

 カレーはご馳走だ。

 だってカレーの粉が無いから。でもみんなの戦意を保つためには必要で、だから削るようにその粉を使っていた。

 一体いつまで続くのだろうか、でも一生かもしれない。世界の混乱の収束は客観的に見ても人々が手を繋ぎあえば収まるなんてものではなく、多分もう滅びるまでは止まらないような気がする。

 人は生きるために学び続ける。でも、人は決して学べないこともある。

 正しさなんてない、私はそれがよく分かっている。

 「カレー、美味しい?」

 年上に話しかけるにしては随分例を失した言葉を使う。でも、彼女は怒らない。

 「美味しいわ。」

 彼女は揺らがない。私の悪意に満ちた言葉を聞いても笑顔を崩さない、耐えているわけではない、どうでもいいのだ。お前なんかどうでもいい、という考えすら無いのだろう。

 彼女は、菫さんはただごく自然に笑っていた。

 10

 「ねえ、どうしてこんなところに来たの?」

 今日はカレーだ、だから普段なら聞かないこんな込み入った話をしてしまうのだ、と言い聞かせて聞いてはいけないというルールを破る。誰にも見られていなければいい、私はただ知りたかった。どう頑張ってもいけ好かないこの女の真意を、知りたいのだ。

 「…知らないの?聞いたらいけないっていうルール、あるでしょ?」

 「…知ってる。当たり前じゃない。ていうか、敬語はどうしたんですか?ここは絶対上下関係ですよ。」

 「あら悪かったわね。失礼…しました。」

 彼女はただ笑顔で全く申し訳なくなどないといった顔をしながら謝った。それを見ていた隣の男どもは笑っていた。私はそうやって恥をかかされたことを根に持つ。つくづく、人間らしい奴なんだなとこんなことで安心してしまう。まだ私は人間でいられる。まだ、まだ。

 「あの、そろそろ時間ですって?行きましょ。」

 「…はい。」

 ああ、もう。よく分からない、全然分からない。何を知りたいのかさえ分からない。私はただ一人になりたかった。

 集団生活なんて向かないと思っていた。だけどこの組織に入ってから私にはこういう完全な組織生活が向いているんだということに気付いた。

 健也は、そういう男だった。

 体育会系というか、とにかく暑苦しい奴だった。だから冷淡な私とは相容れないと思っていた。でも、私達は恋人になれた。

 不思議だった。なぜ私達は恋人になれたのか、もちろん私は健也が好きだった。健也も、嫌いではないことは確実だ、でも、愛しているかと問われれば、どうなのだろう。私も、どうなのだろう。

 嫌なことがあるとつい頭の中を幸せだったことで埋めてしまいたくなる、私の悪い癖だ。悪い悪い癖だ、これは逃げ癖だ。

 「リーダーって、変な人よね。」

 「え?」

 唐突に話しかけられ、私は驚いた。

 あ、菫さん敬語、と言おうと思ったがそれより早く彼女は言った。

 「私ね、家族がいないの。」

 「まあ。」

 今のご時世、そんな人はたくさんいたし、ましてや彼女はもう老齢だ、別に不自然なことではない。

 「あのね、この争いに巻き込まれて死んだの。」

 「………。」

 この組織にはそういう人がたくさんいた、だから特段不思議には思わなかったし、まあそんな理由なのかもしれないなとは、思っていた。

 「だからね、私。何かしなくちゃって思って、とにかく陰湿で汚いことをしようと思って、この組織に入ったの。」

 「は?」

*

 何を言っているんだ、この人は。頭がおかしいんじゃないのかと思ったが、彼女からはその気配がない。至ってまともな人なんだと思っている。

 「それ、よく分かんないけどやって意味あるの?陰湿で汚いって私達の仕事のこと?やってる本人に向かってあまりにもな言い方じゃない?」

 そこまでいって、彼女がただ無表情でこちらを向いていることに気付く。

 「あら、思ったよりあなた、まともなのね。ギスギスしてる人って案外そうなのかも。ちゃんと、まともじゃない自分を分かっているのね。」

 「だから、あなた。って菫さんは、ただ全てをなくしたから思いつきでこの仕事に就いてるって言うの?」

 「そうよ。」

 言い切った彼女の顔はグレーだった。白い顔に影が射して、ものぐらい雰囲気を醸し出していた。

 「私、何もないの。でもね、生きなきゃいけないから、だからこうやっていじめられてるの。もうそれでいいの。それがいいの。」

 「…それ、それ。変よ、そんなのだめよ。止めなさいよ、じゃないと弱いんだからあなたみたいな人、すぐ死ぬの。周りも巻き込むわ、やめなさいよ。」

 「それは平気じゃない?どうして?ここの人たちはみんな、何が大切かちゃんと分かっているじゃない。」

 「だから、私のために死ぬことはないわ。あなたも、見捨てるでしょ?」

 「………。」

 私は何も言えなかった。だってそれは真実だったから、言えるはずがない。

*

 「はは、おかしいわ。みんながおかしいのに、あなたはまともね。ずいぶんまともよ。でも、まともじゃないって思っているんでしょ。違うわ、気付いていないだけよ。きっと真面目なのね、真面目な人って、壊れやすいから。ふふ。」

 私よりも長く生きている。だからそりゃあ物だってよく知っているはずだ。けれど、彼女の不敵さはどこか不気味で、得体が知れない。得体が知れないということは、この表面上だけでも信頼関係が無くては続けられない仕事においては必須だ。だから私は見せて欲しかったのかもしれない、だから私は彼女をいびっているのかもしれない。私は、彼女が怖かった。

 

 「死にぞこないが。」

 吐き捨てるようにそう言ったのは、リーダーだ。

 あれ、この人ってほんの前、ほんのちょっと前まではもっと穏やかじゃなかったっけ?あれ、どうだったのかな。

 その怒号を聞きながら私はぼんやりと考えていた。

 「すみません。」

 怒られているのは、私だ。そして、そのリーダーの隣には菫さんが腕を組んで立ちすくんでいる。

 なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。分からない。菫さんは私の部下だったはずだ、けれどすぐに追い抜かれ彼女は今リーダーの隣を独占している。

 あの、不敵な笑みを浮かべながら、ただにこやかにこう言った。

 「行きなさい、命令よ。」

 何かの報復なのだと確信した。

 私が今からするべきことは死にに行くことだ。

 戦場へ、赴く。

 隠密、暗躍、そんなものではない。

 規律を持った隊列を組んで人を殺める、戦地へ行くことになってしまった。

 私は、その状況の中でただため息をつくしかなかった。


 寒い、末恐ろしい程に寒い。特に脛が凍えそうで、苦しい。

 ザッザッザッザッ。雪上を歩く音で目が回りそうだ。でもこれに合わせられなければ私は死ぬ。いけない、そんなことを考えている余裕はない。だけど単純な作業が続けば続く程、私の頭は働き続けてしまうのだ。

 「とまれ。」

 そう号令されて周りを見ると、小さな小屋があった。今日はこの狭い地獄に泊るのだ。人はぎちぎちになり詰められたような状態になって、狭いと思いながらもお互いに不快を当てないように気を配るしかない。本当に、地獄だ。

 私をこの地獄のような場所へと送り込んだのは、菫さんだった。菫さんはリーダーにささやいたのだ。彼女が、適任よって。

 リーダーは、完全に落ちていた。菫さんの掌握術にハマって、理性を失っている。ほんの少し前まではみなを思いやるって感じだったのに、今はクソ野郎になっていた。クソ、クソ、クソ野郎。

 唯一私を構ってくれたのはあの上司だった。全く上司。

 彼は私を救ってくれたし感謝しているけれど、知らない間に退役していた。どこかへ行ってしまったらしい。だが、知る由が無い。

 私がここへ送られると聞いてからすぐ、いなくなってしまったのだ。

 でもそんなことを考えていられる程私には余裕がない。一切の、思考の隙さえ与えられないほど忙しいはずなのに、でも私の頭は馬鹿で、ここから抜け出すことばかりを考えている。


*

 味方が死んだ。

 いや今までだってそんなことはあったのだが、ずっと同じ部屋で寝ていた里谷さんが死んでしまったのだ。

 里谷さんは妻子が隣の地域に捕らえられているらしい、だから救いたくてこの組織に入ったのだという。

 とても穏やかな人で、この場所には合っていなかった。だけど、そんなに激しい戦いは起こっていなかったから頭の働く彼はうまくやり過ごすすべを身に着けていた。

 「じゃあ、行ってくるよ。」

 「気をつけて下さい。」

 「ああ。」

 だけど、彼も私と一緒でこの寒い場所での任務に就かされていた。

 でも死んだのは寒さではない、戦いで死んでしまった。殺されてしまった。

 悲しい、と思った。そして、虚しいとも思っていた。

 虚しかった、ずっと生きていた人が急に死んでしまうことはそういうことなのだ。でもこれは現実で、これが現実で、そう知れば知る程不気味だった。

 なのにいつまで続けるのだろうか、こんな虚しいことを見る必要なんてあるのだろうか、世界にはもっと幸せなことだけを感じて生きるすべもあるんじゃないか、そう強く思った。

 だか、決めたのだ。

 私は、この虚しさから脱却することを、健也のことはちゃんと救う、それは変わらないけれどこんな方法じゃない、もっと、もっと、何か。

 私はただ幸せになりたい。幸せでいたい。平和と言ってもいいだろう、それを求めることにした。


 「おい聞いたか?アイツ抜けたって。」

 「嘘だろ?ここ冬山だぞ、どうやって?抜けても死ぬしかないだろう。」

 「本当だよ、不遜なやつだったけれど、でもそんな無謀、馬鹿としか思えない。」

 という声が聞こえてきた。

 私は今蔵の中で潜んでいる。

 死ぬつもりなんてさらさらない。ちゃんと生きる計画を持っている。

 戦闘中に隣の地域ではなく、私がいる地域の人間と話をする機会があった。

 私は、死ぬ気で媚を売った。そして、それが功を奏した。

*

 馬鹿だって罵ってもらっても構わない。けれど、私はとにかく生きたかった。生きなければ答えは見つからないし、そのためにはここにいてはいけないのだということを悟った。

 もう、堪忍する必要もない。ただ、私は私を救いたい。私が救われれば、きっと周りだって救われるはずだ。自分を救う、そんなことすら意識の中に無い人間より、ずっと健全だと思うから。

 

 「ありがとう。」

 「…いいよ。別に、気にしないで。」

 あまりにも素直にありがとう、何て言われると動揺してしまう。ましてや相手はあの健也だ、神経質で、他人を負かすことに執心している。そんな男が自分のプライドなんて省みないで心から感謝を述べている。

 特に好きでもなかった私に向かって。

 そして隣には彼の家族がいた。

 「あの、初めまして。健也さんの昔の知り合いです。」

 私は控えた。元カノですなんて、彼の妻の前では口にできない。

 でも、「あは、知ってますよ。彼の彼女だった人でしょ?すごく気を使う子なんだって、言ってましたよ。そういう所が好きだったんだって、言ってました。」

 ほがらかにそう笑う彼女は聖母のように見えた。

 私にはない安定の中に彼女たちはいて、健也はその中の一部としてもう溶け込んでいる。切り離すことなんてできない、隙すらない。

 健也は隣の地域に捉えられている間にこの、今の奥さんと知り合ったという。辛い状況だったけど、ずっと陰で支えてくれた彼女に恋をした、と言っていた。

 そりゃあ、そうだろうな、と私は鼻白んだ。

 その間私は先頭を鎮静化させようという有志の中に混ざり込んで生死の境をさまよっていた。そして、どこの地域も自分たちがじり貧であることに気付き、みんなで貧しくなろう、という結論に達し、誰かの覇権を争う戦いは終わった。

 もちろん、世界の食糧危機は収まっていなくて、私達もじり貧に生きるしかなかった。でも、無駄に戦うよりはずっとましだということに気付けたようだった。

 先頭の最前線で戦っていた身としては、みんなが甘すぎてふざけてるんじゃないかとはっ倒したくなったりもするのだが、でもそう言えば前の世界もこうやって穏やかに時が流れて言っていたような気がするから、私は平和を手にしたんだとその時はじめて気づいた。

 それまでは何だか興奮していて、濁った目で周りを見ていて、ああ、私、世界を取り戻したんだ、と思えていなかったのだ。

 それ程、私達は過酷だった。

 そしてこれからはこの平和な世界で色々なものを築くのだと思う。例え誰かの犠牲の上に成り立っていても、人間は存続していく。

 それだけなんだ。 


 

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