Chapter5 反転の朝/九日目


 アパートに戻り、着替えもせず、万年床となった布団に倒れるように寝転がった。

 強烈な睡魔に襲われ、そのまま目を閉じる。

 悪夢に襲われそうな、予感があった。けれども今は、眠りたかった。眠っていたかった。

 夢の中で、ぼくは何かに追われ、走っていた。

 追って来るのは吸血鬼の格好をした兄のようであったし、自分自身のようでもあった。

 強烈な粘性のある液体に足を取られ、こける。

 暗い水面に沈んでいく。沈んでいく。沈んでいく。


 ――お前は杜代の子だよ。


 誰かの声。

 その通り。ぼくは、どこまでいっても杜代からは逃れられない。

 不可思議な異能の力を持つという七家も、年々血は薄まり、力は消えていった。それは杜代家も例外ではなく、一族の中で片鱗とはいえ力を示すのは、ぼくを除けば曽祖父の妹がいるくらいで、ぼくという存在は、力を持つ者は、杜代家の中においてさえもとっくに異端となっていた。

 血の濃さという面ではまったく同等のはずの兄にも、力は顕現しなかった。

 両親はぼくを気味悪がり、その埋め合わせをするかのように殊更、兄を溺愛した。


 ぼくは――

 ……

 いまさらこんなことを考えてどうする?

 どこへ行っても自分は異端だと、わかっていたんじゃないのか?

 きっと自分はひどく不器用なのだ。

 この力をうまく使えば、大昔の七家の祖先たちのように、一般人の社会にあって頂点に立つことも可能だったのではないか?

 けれども、ぼくにはそんなことはできなかったし、する意志もなかった。

 忘れることはできない。忘れる必要もない。

 何をすればいいのかわからず、自分が受け入れられる場所を探していた。

 ここが、そうなのかもしれない。

 けれども、いつまでもここに留まってはいられない。

 両親はぼくに何か罪悪感めいたものを持っているらしく、今は過剰なほどの仕送りをくれているけれども、それだっていつまで続くかわからない。いつまでもそれに頼って暮らすわけにもいかない。

 まだ高校生だという、未成年だという言葉が、免罪符になるだろうか?

 異端と自覚しながら既存の社会通念に頼って暮らしているのは矛盾じゃないのか?

 眠い……

 暗い水に落ちていく。

 赤い液体。

 血。

 吸血鬼。

 そんなものは、どこにもいない。

 闇夜を切り裂く、突然の雷光。

 耳が、眩しい――


 ……って。


 携帯電話が、鳴っていた。

 いつもの着信音。軽快なるロックンロール。

 ぼくは飛び起き、液晶に映った数字の羅列を一瞬見て――見覚えはない、が反射的に――通話ボタンを押す。


「もしもし?」

『……ああ、キョウくんかね?』


 刑事の石本さんだった。


「……はい」

『夜分すまない。寝ていたかね?』

「……いいえ……」


 頭が半分眠っていた。何を言われ、自分が何を答えているのか、ぼんやりとしかわからない。


『どうしても知らせなきゃと思って、電話したんだ。いいかい? 落ち着いて聞いてくれ』

「……はい……」

『塚守俊介くんが亡くなった。内名知子くんも、意識不明の重体だ』


 ツカモリ シュンスケ

 ウチナ トモコ

 名前は、意味のない記号の羅列としか認識できない。

 聞き覚えがない。

 どこかで聞いた記憶がある。

 だれかわからない。

 どこかわからない。

 いつかわからない。


「……え?」


 なんて、今、言った?


『大丈夫かね?』

「いえ……あ、あの、もう一度、言ってください」


 電話の向こうで逡巡する様子。

 ひどく、時間が錯乱し、刹那を、永劫の時のように錯覚してしまう。


『君たちが《シュン》と呼ぶ、塚守俊介くんが亡くなって、君たちが《チコ》と呼ぶ、内名知子くんが意識不明の重体だ』

「……」

『大丈夫かね?』


 石本さんは繰り返した。

 大丈夫?

 大丈夫か?

 大丈夫かね?

 大丈夫だった?

 眩暈が――!

 くらりと、目の前が真っ暗になった。


「な、何がっ、どうやって!」

『今日未明――と言っても、つい一時間ほど前のことだが、湾岸町三丁目の路上で二人が倒れているのが、通行人によって発見された。前後して、二人の怪我人を知らせる匿名の電話が、救急に入った。塚守くんの死因は腹部へのナイフによる傷。内名くんは腹部と背中、後頭部を強打し、意識不明。今、精密検査を受けているところだ。現場に凶器は見付かっていない。犯人が持って逃走したと思われる』


 ほとんど、言うことなど聞いちゃいなかった。

 混乱して、呆然として、言葉それ自体が認識できなくなっている。

 意味不明の記号の組み合わせとなった単語が脳内に、次から次へと浮かんでくる。

 死因   傷   精密検査        後頭部       ナイフ    意識不明     逃走     凶器      腹部          刺殺。


「誰が……何があったんです?」


 妙に落ち着いたように、ゆっくりと問うことができた。


『捜査中だ。だが、キョウくん、一つだけ、知らせておくべきことがある』

「何です?」

『塚守くんと、内名くんの首筋には、二人とも、


「えっ――?」


 今度こそぼくは、愕然として動きを完璧に止めてしまった。

 理解できない。

 なんだって、そんな。

 首筋の穴。

 血を吸うための穴。

 吸血痕。

 何が、起きたのか?

 言葉が。

 言葉が表現に、使えない。

 世界が異端に囚われる。

 くるくるくるくる

       ひゅるひゅるひゅるひゅる

 意味のない擬音に犯される。

 ぐしゃり

    みしっ

   びしゃっ

びゃっ

 ――――――……‥・・ ・  ・   ・    ・













『……くん     ……ぅくん      キョウくん!』


 携帯電話から叩きつけられる声。


「ぁ……?」


 ぼくは、自分が何をしていたのか、わからない。


『キョウくんっ! 大丈夫かね?』

「あ、あぁ……は、はい」


 本当は、全然大丈夫なんかじゃない。


「……あの、ぼく、今何分くらい、呆けてました?」

『え? あ、あぁ。ほんの三十秒くらい、かな?』


 なんだ――その程度か。


「それで……チコは、チコは大丈夫なんですか?」


 チコ――知子――本当は「トモコ」だったんだ。

 なんて、場違いなことを思いながら。


『ああ、内名くんの命に別状はない。ただ……頭を強く打っていて、いつ戻るかわからない状態らしい』

「そう……それは……」


 それは、何?


「それは……困りましたね」

『困る? 何が?』

「え? だって、チコ、犯人見てるんじゃないでしょうか?」

『あ? あぁ、そうだね』


 会話の歯切れが悪い。何か聞きたいことがあるような。言葉が見付からないような。


「……チコは、どこの病院に?」

『南区民病院だ……来るかね?』

「えぇ……あ、いや……」


 チコに会って、どうするというのだろう?

 意識がないというのに。

 シュンが……死んだって?

 なぜ? どうして?

 誰に?


「……首筋の、二つの穴?」


 吸血痕?


「どうしてそんなものがあるんです? 吸血鬼はいないんじゃなかったんですかっ?」

『……わからない』

「【Silver Bullet】のメンバーは、何か喋ったんですか?」

『いや、まだ、何もだ。彼らの罪は、現時点では暴行未遂にすぎない。裏に何があろうとも。あらかじめ口裏合わせをしていた節もある』


 ハクの推理――いや、想像は外れた?

 吸血鬼は本当にいた?

 じゃあなぜ、【Silver Bullet】は襲撃してきた?

 何か別の要因があるのだろうか?

 わからない。

 考えられない。

 ハクの言葉が、聞きたかった。


「……ハクは?」

『彼には、彼と佐竹くんには、宮城が連絡したよ……すぐ、こっち……病院に来るそうだ』


 なぜ、ハクの想像が外れたのか、考えていた。

 完全にはすっきりしないとはいえ、大筋では正しいと、思ったのに。

 なぜだろう?

 まったく想定外の、可能性があったのだろうか?

 ハクにも考えることのできない、可能性があったのだろうか?

 それこそ、信じられない。ありえない。

 けれどもハクは言った。

 今朝の想像が正しい可能性は二割だと。

 じゃあ、残りの八割は何だろう?

 その中に、この答えがあるのか?

 その中に、吸血鬼の正体を示す、答えがあるのか?

 聞かなきゃ。

 知らなきゃ。

 ハクに会って。


「そう……じゃあ、ぼくもすぐに行きま――」



 ――その時、何の前触れも、本当になく、すべてが、つながった。



「――え?」


 かちりと、脳の奥で、音が鳴り響いた。

 カチカチカチカチカチ――

 小刻みに音を立てながら、それは組み上がっていく。

 すべてが、すべての事象が唯一つの形へと、形成されていく。


「――そんな? どうしてそうなる? なんで?」


 理解できない。

 組み上がった式を、理解できない。

 完成したそれを――理解したくない。


「なぜ――? なぜ? なぜっ?」


 違う。

 そんなこと、ありえない。


『キョウくん! 杜代くんっ! どうしたっ?』


 はっと、一瞬、現実に引き戻された。


「石本さんっ!」

『な、何かな?』

「犯人の目星はついているんですか?」

『……いや。なんと言っていいか、ノーコメントだ』

「シュンは……すぐ亡くなったんですか?」

『……病院で』

「他に……他に何か、何か特徴は、変わったところはありませんでしたか?」

 ぼくの問いに、石本さんはひどく迷ったような沈黙を送ってきた。だがすぐに。

『これは内緒なんだがね』


 と言ってきた。


『塚守くんには性交の跡――性的暴行の痕跡が見られる』

「……は?」


 あまりにもの想定外の言葉に、ぼくは一瞬固まってしまった。


「せ、性交って……せっくす?」

『ああ、その通りだ』


 それには何の意味があるのか?


「念の為に聞きますけど……チコは、そういうの、無かったんですよね?」

『ああ、塚守くんだけだ』


 どうやってセックスしたなんて、わかるのだろう?

 なんて、一瞬想像してしまい、慌てて頭を振る。

 けど、これは……この結果は……

 いや、だとしたら――

 考えようとすれば、息が苦しくなる。

 完成したそれを、見るのが怖い。

 それでも、意識をすれば、目に入る。どうしても無視できないほどの、完成度を誇っていた。


「――チコとシュンの、口の中に、第三者の血は、入ってませんでしたか?」


 石本さんは、電話の向こうで絶句した気配を見せていた。


『――!』


 応えはない。だが、その気配だけで、わかった。

 ああ、決定だ。

 本当に、本当にこれは――っ!

 認めたくない。認めたくない。認めてしまえば、世界が反転する。

 ぼくは、石本さんの疑問に、応じない。

 ぼくは、できるだけ、見ないように、今は見ないように、考えないようにして。


「今から、行きます。ちょっと遅くなるかもしれませんが……」

『ああ、待ってるよ。篠本……ハクくんも、佐竹夕菜くんも、すぐに来ると思う』


 携帯を、切った。

 すぐに別の、番号にかける。

 コール三回で、相手が出た。

 ぼくは努めて何事も無かったように、平然と、話し掛けた。


「もしもし――」

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