3
素土の街の『闇』と呼ばれる領域の、さらに奥にある特殊な空間へ。
路地裏の路地裏へ。さらにその路地裏へと抜けて、ぼくらは歩いていた。
辺りにはギリギリ非合法の売春宿や闇金融が、看板も掛けずに立ち並んでいる。
視線は痛いほど感じるが、誰も声を掛けてくることはなかった。
このルートを通ってくる者に、話し掛けてはいけない。
ここは黄泉への旅路。異界への通路。通るのは異界への巡礼者。話し掛ければ、引きずり込まれてしまう。
怪しげな、噂によく似た、けれども現実に存在する、脅威。
「心配するな。この道を通っていれば、安心だからな」
不安な表情を隠せないチコに、やけに優しくハクが声を掛ける。珍しい。
「どうしてこの道だと、安心なの? さっきからぐるぐると、わざと遠回りしているみたいだけど?」
やっぱりと言うかさすがと言うか、怪しげな空気の中いつもと変わらぬ調子でユウナがぼくに尋ねてきた。
「その通り。わざと遠回りしてるんだよ。決められたルートを通って彼女のところまで行くのがルールなんだ。ルートを外れなければ何も起きない。もし起きたとしても、ぼくらの方は安全だよ」
「どこに行こうとしてるの?」
「魔女のところだよ」
「占い師だ」
ハクがぼくのセリフを訂正した。ぼくは肩をすくめて、後を継ぐ。
「『楽土』って名前の、婆さん。この町一番の占い師さ」
「占い師って……魔法?」
ユウナは少し唖然とする。無理もない。いきなり『魔法』なんて言われて、不信に思わない方がどうかしている。
「どうかな? 本当に魔法を使っているのかどうか、ぼくにはわからない。けれども彼女は何でも知っている。この町最高の情報屋だよ。暴力団とも関わりが強い。だからさ、このルートを通るのは彼女の客である証拠。客に何かをすれば、彼女からどんな報復を受けるのか、わからない。以前は実際に、とんでもない目に合わされたものもいるらしい。それこそ『友達の友達』の噂だけどね。彼女の客に手を出すなんて命知らずは、この街にはいないさ」
「ああ、なるほど……そういうことかぁ。魔女に逢いに行くなんていうから、二人とも頭が変になっちゃったのかと思った」
「おぃ」
いつもの軽口だった。
「ま、そういうことだな」
ハクは笑いながらうなずいて。
「ちなみに少しでも道を外れると彼女の客である資格が失われて、あっという間に囲まれて、身包みはがされ、監禁され、男はコンクリートに詰められ光花湾に静められ、女は犯され、クスリ漬けにされ、東南アジアに売却、だな」
いや、ハクさん。笑いながら言わないでほしい。そんなこと。
何事もなく一軒のビルの前まで辿り着いた。
ビルとは言っても、コンクリート剥き出しの建設途中で放って於かれたような様子のもので、装飾と言えば二階のガラスの嵌められていない窓から垂れ下がった、シンプルな布製の看板だけだった。看板には緑の地に赤い文字で『楽土の館』と記されていて、後は青い直線の縁取りがされているだけだった。
階段で五階まで上がる。
ハクが扉を開けようと近づいた瞬間だった。
音を立てて扉は自動的に開いた。外側に。
「うわっと」
開いた扉にぶつかりそうになり、ハクは慌てて後ろに飛び退いた。
そこに投げかけられる、つまらなそうな声。
「……そんなに驚かなくても大丈夫よ。当たらないように開けたんだから」
二十代中ごろの、紺のスーツを着たメガネの女性が冷たい目でぼくたちを見ていた。
楽土の婆さんの、弟子。
魔女の弟子、紺野さんだ。
「そんなこと言ったって紺野さん、この前はわざとぶつかるようにして開けてきたじゃないですか」
ハクに代わって文句を言うと、冷たい目で睨まれた。
「この前の時はタイミングを誤ったのよ」
やはり紺野さんはつまらなそうに言って、顔を背けた。
……照れたのだと、好意解釈しておくことにした。
「――あの、あたしたちが来ること、わかっていたんですか?」
チコが遠慮がちに尋ねた。紺野さんはつまらなそうに振り向いて、つまらなそうに応えた。
「【斑の賢者】と【紅十字】の連れにしてはつまらない質問ね。そんなの、決まってるでしょ?」
敵意とも解釈されかねない、冷淡な口調にチコはびくっと怯えたように後退りする。
「監視カメラを隠してあるんだよ。赤外線警報装置も、そこら辺にあるのかもしれない。そもそも、遠回りして来たんだから、とっくに客が来ることの連絡は行ってるだろう?」
と、ハクは優しい声でチコに説明した。
「魔法でわかったのかもしれないけどね」
ぼくはややつまらなそうに応えた。
そんなぼくたちを無視するかのように紺野さん、部屋の中に戻り、
「早くついてらっしゃい」
鋭い命令口調でおっしゃった。相変わらずの性格のようだった。ま、もっとも愛想の良い紺野さんなんて、不気味だけれども。
「――なぁに? 今の人が占い師?」
唖然としたようにユウナが小声で話し掛ける。
「紺野さん。【魔女の弟子】だよ」
いいながらぼくは、用意されたスリッパに履き替え、玄関から廊下に入る。
玄関から覗ける廊下の様子は普通のアパートとそう大して変わらない。魔術道具や奇妙な装飾が飾られているわけでもない。どこにでもある普通の民家のようだった。案内され、部屋に入るとまた様子は違って、一流企業の応接間のような高い調度に囲まれる。いかにも高そうな黒い漆塗りのテーブルの向こうに、座り心地の良さそうなリクライニングシートに寝そべるようにして、一人の老婆が体を預けていた。
老婆は人の良さそうな笑顔でぼくらを迎え入れると、楽しそうに口を開いた。
「久しぶりですね。【斑の賢者】に【紅十字】――お変わりないようで。その他の方々は始めましてですね? ようこそ【楽土の館】へ……わたくしが【魔女】――楽土です」
その隣には、相変わらずつまらなそうに紺野さんが立っていた。
「お婆さんはずいぶんと人の良さそうな振りをするのが上手になりましたね」
ぼくが言うと、ユウナとチコはぎょっとしてぼくを見返したが、楽土の婆さんは平然と、むしろ楽しげに体を揺らして笑った。紺野さんはつまらなそうな表情のまま、変わらない。
「相変わらずですね、【紅十字】――お兄様とは仲直りなさいましたか?」
うぐっ。いきなり身内のことを持ち出してくるとは。
「まだ、だよ」
「そうですか。いつでも機会があると思っては、ダメですよ。先延ばしにしていると、永遠に逃してしまうことになるかもしれません」
「どういう意味ですか――それは?」
「特に意味はありません。一般論、いえ、軽口です」
楽土の婆さんの言葉を素直に信じることはできなかった。
何せ情報制御、情報支配の達人だ。何かしらの情報を得て『機会が永遠に失われる』結論に達したのかもしれないし、本人の言うとおり、本当にただの説教めいた一般論にすぎないのかもしれない。どちらかはわからない。彼女が本物の魔女なのか、突出した情報の達人なのか、わからないように。
「それより【楽土】――少し聞きたいことがある。教えてくれないだろうか?」
ハクの言葉に【楽土】の婆さんは笑顔のままうなずいた。
「あの日【ネコノミクロン】というチームの少年、タロウ(仮名、十六歳)が用を足すために公園裏の丘へ登っていきました。公園にはトイレもありましたが、その場所は昨夜から何人かの女性が陣取っていて、少年としては少し近寄りがたかったようです。彼は草の多い茂った登山道を登っていきました。それほど高くない丘ですので、五分もすれば頂上付近に出ます。頂上付近には大きな岩があり、ちょっとした展望台になっていました。彼は酔い覚ましに岩に登り、周囲を見回しました。公園は散々な状況でした。あちらこちらに酔っ払って倒れている人が、公園の外の道路まで溢れているのが見えます。岩のすぐ近くで、倒れている女性を見つけました。酔いつぶれて寝ているものと、特に疑問を感じずに近づいていきました。それが、寺田志保さんだったのです。タロウ少年は第一発見者になりました」
一気に語って、婆さんは得意げに微笑んだ。ハクは苦笑して。
「死亡推定時刻は?」
「午前〇時から午前三時ごろまでの間です。午前〇時過ぎに、丘へ登っていく志保さんの姿を何人もが目撃しています。その時、連れの姿はありませんでした。死因は後頭部への打撲による、脳挫傷。ほぼ即死だったようです。あと、志保さんの首筋には二つの小さな穴が開けられていて、そこから血が垂れ流れ、地面に染み込んでいった、とされています。この作業は、死後か、死の直前に行われたと考えられています」
「……なんか、それだけ聞くと、どこにでもある当たり前の殺人事件のように聞こえるわね」
首をかしげながらチコはつぶやく。
気持ちはよくわかった。
吸血鬼とか、マントとか、装飾殺人とか、派手なアナウンスを事前に聞いていただけに、現実のシンプルさに違和感を覚えるのだろう。
「普通の殺人事件だったんですよ。吸血鬼っぽい演出をしているのは、実際のところ首筋の二つの穴だけ」
「血液が抜き取られていた、ってこともない?」
ぼくは訊いた。
「抜き取られていたとしても五〇〇ミリリットルもないでしょう。……若干貧血気味に感じる程度で、ほとんど意味のない行為です。少なくとも、失血死などではありません」
それは――演出なのか、何らかの行為の過程で偶然そうなっただけなのか、わからない。本当に吸血鬼の演出だったのなら、もっと、凝った演出をしただろう。
「タダシが発見者と聞いてたんだが……」
「当初の発見者情報では、そうでしたね。タロウさんは一度逃げ出して、すぐに戻ってきたようです」
「怪しい人物は見かけなかった?」
「何人かのカップルが丘に登っていくのを目撃されていますが、たった一人で登ったという目撃証言はシホさんのものしかありません」
「【Silver Bullet】の噂は本当なのか?」
「本当です。クスリも、売春も。両方とも斡旋で、自身では決してやらなかったようです」
「へぇ……何かトラブルはあったのか?」
「いいえ、特に目立ったトラブルは、ありませんでした。ただ、彼女の死後、かなりの数のクスリが、タダシさんの手によって持ち去られ、売春組織の方も、トップが死んだことによって、事実上、機能停止しています。個々人での活動は継続しているようですが【クレスト】は個人裁量の売春は禁止していませんので、今後トラブルの火種になる可能性は少ないでしょう」
「は――?」
それはどういう――?
「ちょっと待ってっ!」
ユウナが叫んだ。
「ひょっとして【Silver Bullet】のリーダーは、タダシじゃなくて、シホだったとでも言うの?」
「いいえ、リーダーはあくまでもタダシさんですが、彼に管理能力はありませんでした」
それは、つまり。
「トラブルがあったのは【Silver Bullet】内部ということ?」
ぼくは、訊く。【楽土】はおっとりと笑って、うなずいた。
「警察はその方向で捜査していて、【異種の王】も、先ほどいらして、同様の結論に達したようです」
【異種の王】――つまりはフジヤのこと。フジヤも来てたのか。
ぼくは、ハクを見た。ハクはこのことに、気づいていたのだろうか? 【Silver Bullet】の仲間割れという、可能性。いや、考えていなかったことはないはずだ。可能性の一部として、考慮に入れていただろう。
第一容疑者はタダシということ。
現に彼は今、行方を眩ましている。
「ただ、タダシさんにはアリバイがあります」
「アリバイ? それこそ、どうとでも証言できるようなものでは?」
「そうですね」
一〇〇人中、いったいどれほどがタダシのアリバイを証言しているのか?
そもそもシホは、何の目的で丘に入っていったのか?
「逢引の痕跡は?」
「シホさんの遺体には、性交の痕は見られませんでした。抵抗の様子もありません」
「背後からいきなり殴られたということ?」
「わたくしには、答えられません。わたくしたただ、画材を提示するのみ。絵を描くのは皆様です」
――そう、そうだったな。
【楽土】は推理しない。
求められた情報を、ただ提示するのみ。
何年も前から変わらぬ、ルール。
基本原則。
未来を見ても、何も言わない。
忠告もしない。
よく言う。
悪い冗談だ。
表向きではそう、隠者の振りをしても、裏ではどんな計算をしているのか、わかったもんじゃない。
情報の流れの最下底に、常に彼女はいるのだ。
ほとんど魔法めいた、おそらくは、純然たる技術。
魔法と錯覚してしまうまでの、技術。
けれども、そこまで極まった技術は、魔法と、魔法による占いや未来予知と、どう違うというのだろう?
「他に何かお訊きしたいことはありませんか?」
わかっているくせに、わざとらしく【楽土】の婆さんは尋ねる。
何を聞きたいのか、何をしたいのか、ぼくは、ここに、何をしにきたのか?
「……吸血鬼は、いるのか?」
ハクが尋ねた。ここへ来た、目的。
「それが今回の犯人を指す隠語ならば、存在する、と申し上げます」
「じゃあ、本物の、吸血鬼は、いるのか?」
「いるともいないとも、お答えしかねます」
「どういう意味だ?」
「どちらとも言える、という意味です。言葉の意味は複合的です――【紅十字】――騙されないように」
なぜかその言葉はハクに返したものではなく、ぼくに向けたものだった。
騙そうとしているのは【楽土】の婆さん、あなたではないのですか?
心の中で思っても、ぼくは何も口には出さない。
ここに来てわかったことは、ぼくらは事件について、何も知らなかったということ。
「あ、あのっ!」
これまで黙ってぼくとハクに場を任せていたユウナが唐突に挙手と共に声を上げた。
「なんでしょう? お嬢さん」
「さっきから言ってる【斑の賢者】と【紅十字】って、何ですか?」
それは、ぼくが聞かれたくないこと。
「【斑の賢者】はそこにいる、様々なものに属しながらも何の色にも染まりきらない賢者のこと、そして――」
ハクの表情は変わらない。
ぼくの表情は、ひどく強張っていたと思う。
「【紅十字】はそこの、古き七家の末裔たる者の、かつての業です」
「かつての――業?」
ユウナはぼくを見る。
ユウナの視線と、チコの視線。
ぼくは首を左右に振る。ユウナははっと、何かに気づいたように目を開き、慌てたように目をそらした。
ぼくは【楽土】の婆さんに目を向ける。
「最後にひとつ、尋ねます」
「どうぞ」
ぼくは訊いた。
「警察も、ここに来ました?」
「ええ、刑事さんが二人ほど。あなたたちもよくご存知の、お二人ですよ」
あの愉快な二人の刑事。
さすがにあの二人が捜査の中心にいるとは思えないけれど――
「そうですか、ありがとうございました」
ぼくたちはお礼をいって、館を後にした。
ぼくたちは、何を得たのか? 何を知ったのか?
それとも、何かを失ったのか?
帰りの路地裏でユウナが不思議そうに尋ねてきた。
「お代とか……見料は、要らないの?」
応えたのはハク。
「いらないさ。あの婆さんは、別に【占い】で食べているわけじゃない」
その通り。占い師は、職業じゃない。彼女は魔女。
占い師は『情報』で食べている――いや、『情報』を食べているのだ。
魔女は『情報』を操作することによって、自動的にお金が流れ込んでくるシステムを、とっくの昔に構築している。
ゆえに彼女は、わざわざ見料を取るようなことはしない。
自分の都合にいい情報を都合のいいように流すだけ。
そして、流された情報は巡り巡って再び【楽土】の元へ、彼女にとっての利益を乗せて戻ってくるというのだ。
そんなとてつもないシステム。
限りなく魔法に近い、信じれないような現実。
ぼくは、ため息をついた。
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