Chapter4 原因の反転/八日目
1
翌日の早朝、まだ夜が明けて間もない時間に、ぼくは独り、新天地第三公園へ来ていた。
園内にひと気はなく、肌寒い風がゆっくりと木の葉を揺らしていた。
公園の奥、ブランコの裏に、丘へと上る細い道がある。獣道のような、頼りのない道。
道は基本的には一本道だが、獣道らしくいくつもの枝道が藪の中へ延びていた。藪の中に、何か白いものが見える。近づいていってみると、それは使い捨てにされた、コンドームだった。
ああ、まったく。
つまり、何人かはわからないが、この藪の中で逢瀬を楽しんだものがいることは、確かなのだ。
あの日、宴会のあった日は、どうだったろう?
すぐ近くに一〇〇人も人がいる傍で、できるか?
できるだろう。もっと開けっ広げに、誰かが見ていようとも、やってしまう人がいてもおかしくはない。
いつのものなのか?
触って調べる気には到底なれず、ぼくは引き返そうと振り向いた。
「わぁっ」
振り向いて、びっくりした。
いつの間に来たのか、ユウナが立っていた。
ユウナは徐にうなずくと。
「こんなところでするなんて、処女のわたしには信じられないわ。不衛生よ」
「うわっ。珍しく常識的なことを――って、まて」
今、変なことを聞かなかったか?
「え? 不衛生?」
「ちがう、その前」
「信じられないわ?」
「もう一声」
「処女のわたしには?」
「…………」
えっと。
「……処女?」
「あれ? 知らなかった?」
あー、今まで散々えろいことばかり言ってきて、処女ですか。処女と来ますか。まだシたことがないですか。
「ほー。ふーん。へー」
「貰ってくれる?」
どうやって?
ぼくは答えずに、ユウナの脇をすり抜け、獣道を再び登り始める。
登りながら、ぼくの頭の中で、思考が渦巻く。
さてはて。
はたしてユウナが処女と言うのは本当のことだろうか?
……
……
……
……
……違う。
考えるのは、そっちじゃなくって。
……えっと。
誰も怪しい人を見ていないと言うのは本当だろうか?
こんな場所を夜中、独りで登っていくなんて。きちんと整備された道でもないし、明かりもない。目的は何か? 展望岩に登って、夜景を楽しむこと。夜景なんて、たいしたものは見えない。夜のデートスポットに挙げられる港周辺の公園も、見えないことはないが、その光景を楽しむには、丘は少し低すぎるだろう。けれども、まったくいないとも断言はできない。丘の上からは新天地湾岸第三公園が一望できる。公園の全体の様子を監視するには都合の場所だろう。けれどもあの日、監視者はいなかった。フジヤ辺りが置きそうなものだけれども、あの日の宴会は突発的なものだった。監視者を置いてなくても、まったくおかしなことではない。
ああ、わかんない。
監視者なんてものがいたら、とっくに事件は解決しているだろう。
第一容疑者のタダシは行方不明だし。
しかし、クスリなんてものを持ち出していれば、とっくに足がつきそうなものじゃないか?
捌くには、独りでは危険すぎる。となると、ひょっとしてこれは、タダシ一人の犯行ではなく、裏には組織が関わっているのだろうか?
例えば、藤沢組と対立するような、組織。
暴力団に詳しいわけじゃないから、どんな組織が藤沢組と対立しているのかわからなかった。
昨日【楽土】の婆さんに聞いておけばよかったかとも思ったが、さすがに暴力団が関わっているとなると、ぼくらの手には余る。フジヤの【クレスト】でも、対抗するのは危険だろう。
――と、登りきってしまった。
目の前には岩。
そして、岩の上には人影。
「やあ、キョウ、ユウナ。早いな」
ハクだった。
「ハク。どうしてここに?」
岩をよじ登りながら訊くと、ハクは手を伸ばしてきた。その手をつかんで、登る。
「いや、なに。ちょっと現場を見ておこうと思ってな」
続いてユウナも登ってきて、ぼくは彼女に手を貸す。
「あー、どうしてハクくんがいるのぉ? せっかく、キョウちゃんとデート気分だったのに!」
登るなり、いきなりハクに詰め寄るユウナ。徹頭徹尾、ユウナはいつも、変わらないノリ。ハクも苦笑して、
「ごめんな。悪かった」
答えた。するとユウナは満足したのか、
「うん。ま、ハクくんならしょうがないね」
「なんでハクならしょうがないんだ?」
ハク以外ならダメだ、みたいなセリフだ。
「だって――、必要でしょ?」
ユウナのセリフの意味は、よくわからなかった。わからないので無視して、ぼくは丘から公園を見下ろした。
「それで――遺体があったのは、どこなんだ?」
ハクにたずねるが、ハクはなぜか周囲に視線をさ迷わせて。
「どこだっけな? ユウナ?」
ユウナに訊ねた。珍しい。事件の情報を、ハクが忘れるなんて。
「んー? あそこだよ」
丘の中腹に向けられたユウナの指は、適当な場所を指しているとしか思えなかった。
藪が覆っていて、特に何かが目立つということもなかった。
そりゃあ、ここに来て、何かがわかるなんて思ったわけじゃない。けれども、まったく期待していなかったわけでもなかったから、ほんの少し落胆した。
何にもない――ここから観るのは、いつもの街だ。素土の街。
振り返って、ユウナを見ると、彼女は公園とは反対側を眺めていた。
遠くに京橋川が。本来の花見の会場だった、河岸公園が広がっている。桜もほぼ散ってしまっていて、物足りなかったけれども。
それよりずっと手前は、ユウナのマンションがある湾岸町。探そうと思って視線を巡らしていると、丘とユウナのマンションを結ぶ直線状にコンビニがあることに気づいた。ああ、そういえば――
丘は、公園からじゃなく、湾岸町側からでも登れたのだ。
けれどもまだしも公園の明かりがある、新天地町側の方が登りやすいだろう。
湾岸町側も街灯や住宅があるのだが、その数は新天地側のものよりも遥かに少ない。夜になると、本当に何も見えなくなるんじゃないかと、思えた。
そうだ――こっちから登ってきたのなら、誰にも見咎められずに、あの日、あの夜、シホと接触することができたのかも、しれない。
それこそ、密会だけれども。
タダシだけじゃない。シホの行動も謎で、怪しい。
あの夜何があったのか?
あの夜何が起きたのか?
「……ハク。本当はお前、もうわかってるんじゃない?」
ふと思いついたように、尋ねてみた。
ハクは薄く笑った。
「色々わかってるさ。ただ、どうしてもまだ、つながらないことがある。道が足りないか、途中で関止められているんだ」
「――つながらない?」
何を、どのように?
「なぜ、吸血鬼の、装飾を、遺体にほどこしたのか?」
「吸血鬼って――それはもう、解決したんじゃなかったのか?」
「何が?」
「だって――」
吸血鬼の仕業だとされた痕跡は、噂のような大げさなものではなく、はっきりとしたものではなく、ただ首筋の二つの穴のみ。血が失われたのかどうかさえわからない、かすかな痕跡。
「吸血鬼の素があまりにもちっぽけなものだったからといって、『存在していない』と錯覚してやいないか?」
「……え?」
「どんなに小さなものだろうと、それは確かに存在していたんだ。あるものをないと、無視してしまっては、問題は解決しないさ」
ハク様の言うとおり。ぼくは無意識に、すでに吸血痕のことを忘れていた。
【楽土】の婆さんの言葉を聞いて、なんとなく、吸血鬼の装飾はなかったのだと思い込んでしまっていた。
【楽土】の言った『騙されるな』とはこのことか? なんて皮肉だろう。いや、【楽土】の婆さんの言いたかったことは『自分の言葉を勘違いしないように』という意味だったのかもしれない。『騙されるな』は純然たる善意の忠告。
「じゃあ、ハクは、吸血痕について、今何を考えてるの?」
ユウナが尋ねた。ハクは少し考え込むように中に視線をさまよわせた。
「そうだな――まずはキョウが無意識に採用していたように、殺害の行為の副産物として偶然生成された、という可能性」
考えを決め付けられてしまった。けれどもたぶん、ハクの言うとおり。
「他は、犯人の気まぐれという可能性」
「気まぐれ?」
「意味はない――単なるお遊びの可能性だな。他には、首筋の二つの穴が、何かを暗示、もしくはある種の人間にとっては明示する、暗号になっている可能性」
「……よくわからない」
「犯人の、誰かに向けたサインかもしれない、ということさ」
そうだとしても、ぼくにはまったく想像もつかない。二つの穴。犯人は吸血鬼だというサイン。もしくは、犯人は吸血鬼だと誘導させようとするサイン。どちらにしろぼくには『吸血鬼』と聞いて思い当たる人物はいなかった。
「あとは、そうだな、吸血鬼が実在する可能性だな」
「……まだ言うの?」
呆れたようにユウナがもらした。まったくそうだ。この期に及んで、吸血鬼の実在から論じるなんて、ずいぶんとまあ、バカバカしい。ライオンに食い殺された人の死体を見て、ライオンという種の実在から論じるに等しい――正反対だが――検証だ。けど、ハクにとっては、きっと重要なことだったのだろう。
「吸血鬼が実在するとして、首筋に二つの穴を開ける必然性は何だろう?」
「血を吸うためだろ?」とぼく。
「ええと……食料……として、それか……」
「仲間にするため?」
「そうだな。食料にするのは一般的に精気を吸うためだとされている。けども、血が抜かれたのは死後、もしくは死の直前とされている。死につつある相手から、精気を奪うようなことを、わざわざするか?」
「ええーと……」
精気とは生命根源の力。精神と気力。なるほど。食料にするのなら、撲殺する前に、行うだろう。
「食料にしようと、力余って撲殺してしまったのか? それとも、仲間を作ろうとしたのか?」
「仲間……」
「吸血鬼の仲間の作り方は一般に体液交換で行われるというな。相手の血を飲み、相手に血を飲ます。シホの胃の中には、犯人の血液があったかもしれない。もう、燃えてしまって、確かめようはないが」
「――そうだ、里穂ちゃんの言っていた……」
火葬場の、扉の奥から、叩く音。悲鳴。蘇った死者。
「忘れていたな?」
そうだ。忘れていた。確かにつながらない。全然つながらない。吸血鬼が、本当に実在すると考えないと、つながらない。
呆然と、ぼくは顔を上げ、ハクを見た。ハクはどこまでも真剣な表情でぼくを、ぼくと、ユウナを、見ていた。ぼくはユウナに視線を移し。彼女の顔が、なぜか赤く染まっているのを発見した。
「いやん。ハク様ったら。体液交換なんて」
「……ぉぃ」
なんで、こうなのかな。この子は。
どっか、頭の配線がねじれてるんじゃないだろうか?
「ま、なんにしろ、この段階でできることは、ここまでだ。いや、もう少し、いくつかはあるがな」
ハクは全然気にせずに、明るく言った。
誰が何をどう言おうとハクの世界を揺るがすことはないのだろう。きっと。
「二人とも、朝食は食ったか?」
ぼくは首を左右に振る。
ユウナは首を縦に振る。
「そっか。おれはまだなんだ」
困ったように言って、ハクはユウナを見る。
「んー、とりあえずわたし、一度家に帰る。今日は大学に行くつもりだし。二人でごゆっくり。じゃーね」
にこやかに笑って、ユウナは岩を軽やかに飛び降り、湾岸町の、自分のマンションの方へ、丘を一気に駆け下りていった。
ぼくは岩を叩いて、結構な高さがあることを確認し、うわ、ここ、飛び降りるか? とか思ったのだが飛び降りて、何事もないように駆けて行ったので、きっとユウナにとってはなんてこともない行為だったのだろう。
「すごいな」
感心したようにハクがつぶやき、そのつぶやきを合図にぼくも岩を降り、ユウナとは反対の方角。新天地第三公園側へと丘を下っていった。
「あれ……? 二人とも、なんでそっちから?」
丘から降りてきたぼくたちを見つけたチコが、きょとんとした表情で問い掛けてきた。
公園には他にもシュンの姿もあり、どうやらチコと二人で何か話していたようだ。もちろんシュンは喋らずに、一方的にチコの話を聞くだけだったのだろうが。
「ああ、偶然上で会ったんだ」
ぼくは応えたが。
「ふーん。そうなの? ハクゥ?」
なぜかわざわざハクに訊き直すチコだった。
信用されてないんかなぁ?
「ああ、偶然だ。たまたま、現場を見に行ったらな」
「ふーん。二人っきりで?」
「いや、ユウナもいた」
「ユウナ? いないじゃない?」
「大学に行くといって、向こう側から帰っていったよ」
「大学に? どうして?」
どうしてって――大学生だからじゃないのか?
ぼくも高校生だけど。行ってないけど。
「信じれない! ユウナが、キョウと会うより大学を優先するなんてっ! ありえないっ!」
……なぜ?
ぼくにはチコの言葉の意味はわけわからないものだったが、チコにとってしてみれば、かなり衝撃的なことだったようで、しばらく彼女はぶつぶつとつぶやき続けていた。
というか、ぼくは、ユウナのあの態度はただの冗談の類だと思ってるし。
……冗談じゃなかったらどうしよう?
いや、たとえ冗談だとしても、ああも当たり前に、常態で、変わらないノリでいるのならば、それはもはや本気と区別がつかないのではないか、なんて思ったりもして。
ちょっと怖いかも。
普段、チコはぼく以上にユウナと仲良くしているみたいだし。何か聞いている可能性も無きにしも非ずだと思うけれど。
「チコたちは、もう食べたのか?」
ぼくたちの会話がなかったもののようにハクがチコに話を切り出す。相も変わらず過程がすっ飛ばされているために今ひとつ意味をつかみにくい言葉。『朝食を』が抜けてる。
「何をにゃ?」
「朝食だ」
チコは首を左右に振る。
シュンは首を縦に振る。
それを見てハクは満足げにうなずいた。
「今からキョウと一緒に喫茶店にでも行こうかと思うのだが、一緒に来るか?」
あれ――?
いつの間に一緒に食べに行くことになってたんだ?
確かにユウナは指図するような言葉を発したと記憶しているが、ぼくは承諾した覚えはない。
まあいいんだけど。否定したわけじゃないから、消極的合意と解釈されても問題はないと思うのだけれども。事象の正確性、完全性を重視するハクが、ぼくの意思を明確に確認せずに決め付けるなんて、おかしい。珍しい、というより、何か不自然な感じがする。
ハク以外の人間の言葉ならば、自らの無意識の解釈に気づいていない可能性もないとは思うが、よりによって、ハクに限って言えば、そんなこと、あるはずがない。
つまり、ハクの言動はわざとで、けれども何で、そんなことをする必要があるのか、ぼくにはわからなかった。
ようするに、喫茶店でぼくと何か話したいってことだろうと思うけれども。
事件のことだろうか?
けど、なぜわざわざこんなやり方をする?
「んーいいよ。二人で行ってきて。あたしが朝食べないって、ハクは知ってるでしょ?」
笑顔でチコは言った。ぼくと視線が交差する。
一瞬――、
チコは、ぼくから視線をそらし。
すぐに視線を戻して、ややわざとらしいくらいに笑顔を見せた。
――ん?
なんだか変だ。
この反応は何だろう?
ハクと、チコの反応。
「そうか、じゃあ、行くか」
あっさりつぶやいて、ハクは歩き出す。ぼくの反応も見ずに。
「うん、行ってらっしゃい! シュン君はどうするの? 学校?」
シュンは静かにうなずいた。
「ほら、キョウ、ハク、行っちゃうよ」
「え? あ、ああ。うん……」
どうしても釈然としないものを感じながらも、ぼくは急き立てられるようにハクの後を、やや駆け足で追った。
ハクの態度も、チコの態度も変だった。何か演技を見せられているような。それも少し違う。何かこの状況にぴったりと当てはまる言葉はないかと考えて、ぼくは一つの言葉を思いついた。
半年前に練習し一度成功した演技を、半年後の今日になって初めてぶっつけ本番で行って、再び成功したような――
……
自分で思いついておいて「なんだそれは?」と強く思う。
けれどもどうしても離れない予感。
そうだ。さっきのチコのセリフじゃないけど。
いくら朝は食べないことにしているからって、チコがハクの誘いを断るなんて――
それに、何より不可解なのが、ハク自身がそんなチコの反応を、完全に予測していた風なこと。
つまりハクは、ぼくと二人きりになろうとした?
――釈然としない回答。
混乱を振り払うように頭を振って、前を歩くハクを見る。
公園の出口。
ゆっくりと近づいてくるバイク。
二輪。
二人乗り。
ノーヘル。
茶髪と金髪。
バットと角材。
「危ないっ!」
ぼくは叫んだ。
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