第10話
さらに、都の中心でも鬼にまつわる異変があった。大内裏の敷地内にある武徳殿の東側に「宴の松原」という名の松林があり、満月の夜に近くを若い女官が三人でそぞろ歩いていると、林の奥からひとりの長身痩躯で立派な身なりの美青年が突然のごとく現れた。
男は、やさしい口調で「女ばかりで夜道を歩くものではありません」と、女官の一人の手を引き、松林の中に入った。暗がりの中で男女二人が談笑していたので、他の二人は同じ場所で待っていたものの、なかなか戻ってこなかった。
不思議に思った女官が、松林の中に入って行くと、おびただしい鮮血が飛び散り、血の海の中に、誘い込まれた女官の死体が転がっていた。松明の炎の周囲の他は、闇の色で塗りこめられ、魔物が潜んでいる気配は感じられなかった。闇の中から姿を現した美青年は、恐ろしい形相で、二人の女官を睨みつけた。
二人は慌てて松明の一つを投げつけると逃げ帰った。女官たちは「あの男は、林の中に巣食う妖鬼だった」と噂し合った。
事の次第を検非違使から伝えられた左大臣・藤原道長は、随身の坂田金時に「妖鬼を捕えよ」と命じた。「これも肝試しじゃ」と、宴の松原の近くまで同行した。金時は酒吞童子の館で手に入れたヴァイキングの斧を携行した。妖鬼はいつも満月の夜に目撃されていたため、月が巡るのを待ち、道長と金時は宴の松原へ出向いた。
道長は松林の外に待機し、馬をつないでいた。万一の場合、もし金時が妖鬼に討たれたら、馬にまたがりすぐさま屋敷まで逃げ帰るつもりだったのが、私には読み取れた。
金時が松林の中に入ると、暗闇の中に何者かが潜んでいる気配を感じた。金時は「何奴じゃ、隠れていないで出てこい、正々堂々と勝負いたせ」と大声で挑んだ。松明をかざしながら四方に目をやると、妖鬼が現れて目の前に立ちはだかった。
妖鬼は端正な顔立ちを崩すと、獣性を露わにして「ここは、お前のような者の来る場所ではない」と大音声で怒鳴った。
金時は「神妙にいたせ。宮仕えの女を殺めたのはお前だ」と、松明をそばに立てかけ、斧を上段に構えた。
妖鬼は諸刃の剣を抜くと、金時目がけて叩きつけてきた。これを金時は斧で防ぐと、すぐさま妖鬼の足を払った。妖鬼が倒れ込んだところを捕縛縄で縛り上げた。妖鬼を捕えて、自慢げに吹聴して回ったのは金時ではなく、むしろ道長の方だった。
相手に関する正確な情報が乏しいと、偏見を正義と見誤り、罪のない相手に罰を加えかねなかった。そこで、妖鬼を取り調べるため、事件の夜に被害者と一緒にいた女官二人が呼びだされ、面通しが行われた。二人は妖鬼の姿を見ると震えあがり「其の者に、相違ありません」と証言した。深夜とはいえ、松明をかざしてみた顔を……、彼女らには忘れようがなかった。
大宝律令では五刑として、笞刑(鞭打ち)、杖刑(杖打ち)、徒刑(強制労働)、流刑(島流し)、死刑の刑罰が科されていた。嵯峨朝以降、帝の意向を汲み死刑を停止したといわれていたものの、合戦や群盗との争闘で討伐や、国司、検非違使別当の判断で死刑が実施されていた。
秩序・治安維持のために、太政官の目の届かないところで死刑は執行されていた。また、入獄中の発病や怪我で獄死するものも大勢いた。妖鬼は盤枷を嵌められて入獄していたが、流刑を申し渡された。それから、しばらくして「妖鬼は流刑地で死んだ」と、風聞がささやかれた。私は、妖鬼が流刑地で死んだあと、死後にどう裁かれたかを目にした。
妖鬼は死後に、蒿里山にある森羅殿の法廷に立たされ罪状を暴かれた。冥界の閻魔大王は頭に金の冠を被り、黒い道服を身にまとい、笏を手に持って、妖鬼を鋭く睨みつけた。大王は、妖鬼に向かって「お前は犯した罪により、地獄へ落ちる沙汰が決まった。因果応報の理により、お前がしでかした罪で、今度はお前自身が報いを受ける。だが、心を入れ替えると悪趣から逃れて、再び人間界に戻れる」と告げた。
妖鬼は地獄と人間界、天界、極楽などの浄土との間には、気が遠くなるほどの距離がある実情を知っていたので、ただ改心するだけで、再び人間として生まれ変われる話が単なる気休めのように思えた。
大王の法廷には、浄玻璃鏡と呼ばれる鏡があり、すべての亡者の生前の行為を残らず記録しており、裁きの場で映し出した。罪人が大王の尋問に嘘をついても、たちまちのごとく見破られた。
地獄には、妖鬼よりも恐ろしい罪人たちを責め苛む獄卒がいた。いずれも鬼の眷属で、元々は悪党だったが心を入れ替えた者たちだ。
大王は妖鬼の前に立ち「では、これから、お前がどの地獄に落ちるべきか決めようと思う」と告げた。
大王は「地獄には八つの階層がある。一つは等活地獄、二つ目は黒縄地獄、三つめは衆合地獄、四つ目は叫喚地獄、五つ目は大叫喚地獄、六つ目は焦熱地獄、七つ目は大焦熱地獄、八つ目は無間地獄だ」と、地獄の諸相について語り始めた。
「等活地獄の罪人は、互いに絶えず相手を傷つけようとしている。それが原因で、誰かに出会うと、それぞれの鉄の爪で、お互いを引き裂いて、血も肉もすっかり無くなる。ところが、涼風が吹くと、もとのように生きかえり、前のように苦を受け続ける。さらに、恐ろしい黒縄地獄は等活地獄の下にある。地獄の鬼どもが罪人を熱鉄の地に臥せさせ、 熱鉄の縄で縦横に身体に墨縄を引き、 熱鉄の斧で墨縄のとおりに身体を斬る。罪人を追い立て、中に入らせると、激しい風が吹いて、罪人の身体に絡まりあい、肉を焼き、骨を焦して、極まりがない苦しみを繰り返す」
妖鬼には良心の呵責が理解できず、すべてを我欲と打算のみによって判断した。それが罪で、相応の罰を受けなければならない仕組みこそ、苦悩を経験してきた自分の不運への見返りとしては、不公平だとさえ考えていた。
大王は妖鬼の心を読んで「増上慢こそが、心が犯した最初の罪だ。悪事が次の罪。悪事を隠蔽、偽装する所業が最後の罪と言える。罪に罪を重ねる狡猾な行いによって、より罰が重くなる」と、尚も地獄の深みの恐ろしさを語り聞かせた。
「衆合地獄は黒縄地獄の下にある。衆合地獄は、 鉄の山が多くあって、それぞれが二つずつ向かいあっている。 ここでは多くの地獄の鬼が、手に責め道具を持って、罪人を追いたてて山の間に入らせる。 すると、両方の山が罪人に迫ってきて押し合わせると、罪人の身体は砕け折れ、血は流れて地面に満ちる。さらには、お前たち罪人を石の上に置き、岩で押しつぶし、鉄の臼に入れ鉄の杵で搗く。 極めて恐ろしい顔をした地獄の鬼や、熱鉄の獅子、虎、狼などのいろいろな獣やカラス、鷲などの鳥が、 先を争って迫り罪人を噛み砕く」
妖鬼は、気を失いそうになりながら「あまりにも惨い。それは、俺たちがしてきた悪事にも勝る不徳ではないのか?」と声を絞り出した。
「いやそうではない。お前はお前自身が投げかけた心の影を今になって受け取っている」閻魔大王は鋭い目を光らせた。
大王は道服のしわを手で正す様子を見せると「至極微細な世界を想うなら、人と人、物と物との間に断絶はなく、自他は別個の存在ではない。この世もあの世も、極楽も地獄も、本来は絶対的な真実在が相対的に展開し、存在を証明している。艱難辛苦は、絶対的な仏の境地にたどり着くための行だ。もとより心底の美しいものなら、直感で分かる道理だがお前には分かるまい。
お前はまず、地獄の過酷さと醜悪さを経験するのだ。そこから抜け出すために慈悲の心を起こせ。如何にもお前らしい強かな計算によって、慈悲心こそが己を救う道筋だと気付くまで、真心で他を思いやる心がけから学ぶがよい」と、僅かに目を細めた。
妖鬼には大王が語る内容の半分も理解できなかった。慈悲心をどうすれば、抱く心構えが出来るのか分からない。妖鬼は――ここでは見せかけだけの偽善は通用しない。真心に立ち返るためには、恐れや痛みに耐えつつも、それが理解できないと救われないのか――と考えざるを得なかった。それは、妖鬼の胸の内に、途方もない不安と恐怖心を掻き立てているのが、私には分かった。
尚も大王は話した。
「叫喚地獄は衆合地獄のさらに下の層にある。叫喚地獄の鬼の頭は、金のように黄色で、目の中から火が燃え出て、赤色の衣を着ている。 手足は長く大きくて、風のように早く走る。口から恐ろしい声を出して、罪人を射る。罪人はあまりの恐ろしさに、自分の頭を叩いて、哀れみを求め、『どうぞお慈悲をお掛け下さい』と叫ぶ。だが、ますます地獄の鬼は怒りを増して責め立てる。
鉄棒で頭を打ち、熱鉄の地を走らせ、熱い鍋に入れ、繰り返して炙り、熱した釜に投げ入れて茹でる。また、ある時は激しく炎が燃える鉄の部屋に追い立てて入らせ、鋏で罪人の口を開いて、満ち溢れるばかりに煮えた銅汁を注ぎ、内臓を焼き爛らして、下から直ちに流れ出させる。痛みと苦しみは想像を絶する。お前たち罪人は気絶したくてもできず、死ぬにも死ねない」
「もういい。聞きたくはない」妖鬼は自分の陥った境涯を哀れみながら落涙した。
「地獄では、誰も助けてはくれないが、唯一の救いはお前たちの頭上から降り注ぐ、読経の声だ。声は三千世界に響き渡るが、仏の教えをもっとも必要とするのがお前たちのような地獄の亡者どもだ。有徳の僧侶や篤信家の唱える経文は、香しい甘露の雨となって降り注ぐ。此の時こそが、お前たちにとっても癒される時間だ。よく仏様の真意を読み取り精進するのだな」
閻魔大王は、次の地獄、次のと、後になるほど恐ろしい地獄の有様を話した。妖鬼はたとえようもない後悔と慙愧の念で、胸に痛みを覚えていた。私にも、生前に妖鬼のような存在は救えなかった。
「これまで俺は、他人を自分のための利用価値でしか考えなかった。他人の苦しみや痛みを想像するのは、弱気なだけで無意味に思えていた。そんな思惑が鏡のように自分の境涯に映しだされ、地獄の苦しみを味わう今、反省するよりほかに、自分を救う手立てがないのを知った」妖鬼は言い終わると、僅かだが胸のつかえがとれたような気がしていた。
大王は「これからも、自らを省みて衷心から改めるのだ。それにより、人間に再誕できる。他人を慮り、深く理解できたものの中には、最下層の地獄から天界に生まれ変わった者も存在する。極悪人の中には一闡提と呼ばれる、永遠に地獄の苦しみから逃れないものも存在する。だが、わしはまだ一闡提に会っていない。どんな悪人にも救いの機会はある。辛いが、日々、精進だ」と、恐ろしい表情で睨みつけながら諭した。
其の後、浮世では鬼の眷属たちの暗躍も聞かれなくなり、人々の記憶からも消えていった。
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