肩幅に合わせて、両足の位置を決める足踏みに入ると、雑念が頭から消えた。

次の動作である縦横十文字を起点として矢番え、弦調べ矢調べの胴造り、そして前射手の弦音で取懸け、手の内を決め、物見の弓構えから打起しを経て、大きく胸を開き矢を的に向け引分け、頂点に達した会から離れへと進む。

甲矢が弦から一瞬にして離れ、的に向かって一直線に飛んで行った。すると、「パン!」と鋭く的を射抜く音が場内に響き渡る。高橋の行射は坐射ではなく立射のため、両腕を腰の辺りに戻し、さらに顔を正面に戻して、バック歩行で本座まで下がる。その後、落ちの残心から両腕を腰に戻すタイミングで射位へと戻り次の行射となる。しかし、続く乙矢は、安土へと吸い込まれていた。

高橋の行射は甲矢、乙矢の二射で終わりを告げる。安堵と不安が入り混じるなか、ひと呼吸し、残心を終え両手を腰に戻し顔を正面に向け直して、両足を揃え審査員の前を通り、審査場の出口前で審査員席へと振り向き、軽く揖をして場外へと出た。高橋の実技審査が終わり、昼休憩を挟み午後から記述試験に臨んだ。

こちらの記述問題は、的を外さぬように心掛け規定時間内に書き終える。

その後二時間ほど待つと、審査の結果が貼り出された。そそくさと自分の受験番号を探すと、その番号が載っていた。

「おお、あったぞ!」その一言が、安堵を示すように突いて出た。その瞬間、今迄の苦労が弾け飛んでいく。「苦労した甲斐があった…」日々の鍛錬に貧血を注ぎ得た結果と、胸に迫る思いが湧いてきた。

すると、弓道を始めた頃から修練に明け暮れた日々、そして審査前日の様相までもが、走馬灯のように映し出され、ゆっくりと廻る影絵が浮かび上がってきた。

心内で思う。

「白下先生や村越さんの指導の賜物と感謝しているし、同期の長谷川さんや市川さんからは修練中に貶されたり、またその数倍も励まされたりした。これも愛の鞭というべきものか」そんな思いが胸中を駆け巡る。

その後、会場内で初段の登録料等を支払い、審査場を出て帰路に就くが、自然と鼻歌が出るくらい運転も軽やかだった。

「これでやっと初段になれた。嬉しい限りだぜ!」思わず感嘆の言葉が口を突く。

勿論、運転する高橋以外に同乗者はいない。

「やった!」と発した言葉が、車内で木霊のように響き渡る。すると、喜びが胸中で溢れ出て来た。

恥も外聞もなく、ついと漏れる。「とうとう、俺も初段か…」

陽射しが傾きかけ、車窓から輝く景色が目に飛び込んで来た。「さてっ、帰りもカーナビの世話になるか。どうぞ宜しくお願いしますよ」と溜口を吐く。セットすると早速、「七百メートル先の交差点を、斜め右に進んでください」の案内が告げられ、前方を見ながら「はいはい、分かりました。ご指示通りに運転します」と、応えるその声が妙に軽やかだった。


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